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わたしたちが、フィルムで写真を撮る理由

わたしたちの世代で、数年前からフィルムカメラが流行っている。
周りの写真好きは皆フィルムカメラで写真を撮る。旅行には必ず「写ルンです」を持っていく人もいるし、スマホで撮影した写真にわざとレトロなフィルターをかぶせる人もいる。モデルをしているような今風のかわいい子たちは、皆フィルムで写真を撮ってもらっている。

今「イケてる」と思う写真は、たいていフィルム写真だ。

例に漏れず、わたしもフィルム写真が好きだ。ついこの前の写真なのに、どこか懐かしい。懐かしいのに、どこか新しい。
とくに、フィルムが写しだす赤が好きだ。フィルムの写真によく映えた赤が写っているだけで、全体の締まりがよくなる気がする。ぽたぽたと水が滴り落ちる蛇口を、最後にクイッと閉めるような。そんな清々しさがある。

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今から3年前、大学2年生のとき。箱根のすすき草原。

わたしの妄想かもしれないけれど、思うにわたしたちがこういうフィルムカメラの魅力にとりつかれているのは、単純に「それらしくエモい」写真を撮りたいからではないように思う。表層的な懐古主義でもない。

ちゃんと、過去を過去だと思いたいのだと思う。

身の回りにある機械の性能がどんどん上がってゆくにつれて、逆説的に、今も過去もそう変わらなくなってきた。デジタルの世界では、懐かしいと思えることがほとんどない。

どれほどスマホが進化して画質が良くなったとしても、スマホに特別の懐かしさを覚えることは一生ないだろう。だって、今も昔も変わらずいつもそこにあるのだから。
昔の写真も当たり前のようにいつでも見返せるし、その気になればすぐに現像もできる。今と画質もそこまで変わらない。写っているものも、今とそう大差ないものばかりだ。友達が持っている写真だって、インスタグラムなどのSNSを見にいけばいつでも見れる状態にある。

便利になればなるほど、過去のものに手に届きやすくなればなるほど、時の経過具合がわからなくなる。今が常に新しいということに、自信が持てなくなるのだ。

わたしたちは、ちゃんと時を過ごせているのだろうか。
あれから時間は経っているのだろうか。自分はあれから変わっているだろうか。

ときどき、わからなくなる時がある。

フィルムカメラはそんなとき、過去をきちんと過去に葬るためのツールとして使われる。フィルムを通してみる世界だけは、れっきとした「過去」に思えるからだ。
フィルムの写真には、かつてわたしたちがこっそり覗き込んだ両親たちの思い出のアルバムのような懐かしさを覚える。あの質感をつかえば、わたしたちの時間もちゃんと過去のものにすることができる。ような気がしている。かなり荒技な治療だけど。

今を生きたわたしたちを、きちんと「過去」に封印する。そうすることで、現実が新しいものだという確信を持てるんじゃないんだろうか。
撮った写真をその場ですぐに確認できないという不便さも、またいい。そのタイムラグこそ、わたしたちには「過去を過去においてくる」という儀式になるからだ。

もっと言えばわたしたちは、そういう時の経過を実感する装置をもって「ただ、今を生きてるだけでいいんだ」と思いたいんじゃないのか。
あからさまな時の経過を実感することで、あれからの膨大な日々を一応「生きてきたんだな」ということを、おだやかに感じたい。

それは「ただ生きているだけでいい」という、自分に生に対する無条件の肯定でもある。
無条件の愛、無条件の肯定、無条件の幸せ。すごくシンプルなことなのに、だからこそすごくむつかしくなってきている。質素だけど、わたしたちはそういう無条件のものを、ひどく欲している。

成長しなきゃいけないとか、お金がないといけないとか、年齢が上がるに連れてライフスタイルや人間関係も相応に変わってなきゃいけないとか。
時に心身をボロボロにしてまでそういうことにあくせくしている大人をみながら、もうそれは嫌だな、辛いな、と思う。

生きてるだけじゃ、なんでダメなんだろう。
変われてないとだめですか。
成長してないと、「生産性」を高めないと、だめですか。生きる上での条件が、あまりにも多すぎる。

現在進行形で時はすすんでいて、一見何も変わっていないように見えても、「成長」していないように思えても、わたしやあなたはとりあえず生きてきた。何もしなかったけど、何もできなかったかもしれないけれど、過去はちゃんと過去においてきた。それを全力で肯定してくれるのが、きっとフィルムなのだ。

時に悩んだり、悲しんだり、わくわくしたり、楽しんだりしながら、ただただその1日を日没までやり過ごせたこと。そんな「何もしてない」と思えた罪悪感にまみれた日々も、フィルムに通せば全てが肯定に変わる。
生きた。それでいいんだ、と。

都合が良すぎるかもしれないけれど、
はなはだ見当違いかもしれないけど、
生への無条件の肯定を求めて、わたしたちはフィルムカメラのシャッターを切っているのではないだろうか。

だから自分を含めた同世代がみなフィルムに魅力を感じているのを見るにつけ、どこかせつない気持ちになる。
それぞれが撮る「楽しそうな」写真から、本人すら気づいていないであろう憂鬱や虚無、さみしさの匂いがしてくるからだ。


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