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夢の話

ほぼ毎日夢を見る。だいたい、意味深な夢だ。

しばらく会っていない人が突然現れてきて、現実世界の本人はぜったいに言わない言葉を私に残して霧の中に消えていったり。むかし好きだった人が、お酒の席で私を紹介しようとしている夢もみたことがある。残念ながら、それは現実になることはなかったけれど。
小さい頃は、夢の中で同じ場所に何度も行ったし、正夢もたくさん経験した。「うわ、ここなんか見たことある!」というデジャヴ。次の瞬間に口にする言葉も同じだったりすることが、小さいころは結構あった。

ほぼ毎日夢を見ているのに、今は目覚めた瞬間からものすごいはやさで夢の内容を忘れてしまう。「ああ、いい気持ちだった」「なんか嬉しかった」「なんかいやな感じがした」そんなイメージだけがふんわりと残る。
それでも、あまりにも印象的で、強烈で、潜在意識が何かを訴えようとしてそうなものは自然と記憶に残ったりする。

ネットには無料でできる「夢占い」というどう見ても怪しいサイトがあって、おもしろいので印象的な夢をみた朝にはベッドからでないまま、調べることもよくある。半信半疑で。
印象的だったシーンの情景について、いくつかのサイトを横断して調べていく。夢占いをするようになって数年してわかったことは、大抵「いやな夢は吉夢で、良い夢はだいたい潜在意識か、単に自分がそれを願っているだけ」ということもわかってきた。
それでいうと、今まででいちばん憂鬱になった夢は、母校の小学校の中庭で遊んでいるとき、上からあの嫌な空襲のサイレンがなってきていきなり戦争がはじまった夢か、荒んだ野原の戦場で無惨な馬の死体をみた夢かもしれない。死んだ馬は、あやしい夢占いサイトによれば健康運がだだ下がりを意味していた。やっぱり白馬で毛艶がいいほど吉夢らしい。

私はこういう迷信に近いことも、あながち間違ってないんじゃないかと思うタイプだ。おまもりも、くじ引きもそう。人によっては、そういう学校の知識ではどうにも説明のつかない世界をまったく認めない人もいるけれど、カオスを生きる人間にとっては、説明のつかないことも多少は必要であるように思う。めちゃくちゃ健康だった人が急に病気にかかるとか、突然死ぬとか、そういう人生の予想外のことに対して、人はとても脆い。あってるかどうかはさておき、意味がわからないこと、これから予測不能なことに対して、なんとか対処しようとするとき、迷信にすがりたくなるのが人間だ。そういう時にこそ、お守りとか占いの出番がくるんだろうなあ、と思う。夢だってそうだ。

グロテスクな馬の夢を見たとき、ふだん馬への思い入れもない私に急に見せられたことが本当にショックだった。「なぜ?」という純粋な疑問に答えてくれたのが、夢占いだった。あってるのか合ってないのかよくわからないサイトに駆け込み、それらしい意味の言葉をもらう。そして勝手に安心する。真意はさておき。

それでいいじゃない、と私は思う。
自分のジンクスがあってよいし、ラッキーカラーや、勝負パンツがあっていい。説明のつかないものを認めることは、人間の弱さを認めることにもつながる。それが人間なのだ。それでいいじゃない。
開き直りも甚だしいけど。

さて、今宵はどんな夢を見るかしら。
目が覚めても夢を覚えていたら、夢占いサイトに行ってみようと思う。

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