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短歌記念日

生まれてはじめて短歌をつくった。俵万智のように、「これいいね」と誰かがほめてくれることはないけれど。

きょうはわたしの短歌記念日だ。

いつか短歌をつくりたいなあとぼんやり思いながら、もう4ヶ月が経っていた。直接的なきっかけはもう覚えていないけど、ちょうど、noteで長文を書くスランプがきた頃だったと思う。
去年のある時期に、まったくnoteが書けないときがあった。数千字の分量の中に、「読めば意味のわかること・オチ」をつめるというお決まりの型が、この上なく苦しく感じたのだ。

「ワシは!オチなどない、もっと刹那的な感情や考えを!言葉で!言いたいんジャ!」
という執筆のプチ反抗期を迎えていたとき、たまたま目にしたのが短歌だった。具体的な歌を思い出せないのが心苦しいのだが、その時に詠んだ言葉のイメージの広がりに、

「こ、これだ〜〜〜〜〜!!!ワシが目指していたものはっ!!!!」

と興奮したのをよく覚えている。あの時の私にとって、短歌という表現は救世主だった。
短歌は確かに31音という限られた狭い場所だけど、今書いているエッセイやほかの長文とちがい、短歌はもっともっと動きが激しい生き物だ。写真とは少し違うが、詠んだ人の頭の中でいろんな風景や心情を一瞬にして広げてくれる、短歌だけが持つ瞬発力がある。

それからの4ヶ月間は、無事スランプを乗り越えたということもあり、Twitterで流れてくる短歌をひっそりと詠んでいるだけの時間を過ごした。相変わらず「いつかやりたい」と思いながら。

いや、もっと言えば、これを留めたい!!!と思う瞬間になかなか巡り会わなかったのかもしれない。

それがとうとう、今日、突然やってきた。
16時半に鳴る地域のチャイムを自分の部屋で聴いたとき、とつぜん短歌ができた。本当は、ここまで読んでくださったみなさんにも見せたい気持ちでいっぱいだけど、今回はあまりにも自分の内面に近すぎる内容になってしまったから、また機会を改めてお披露目させていただくこととしたい。

出来上がった短歌は、最初というのもあってとりあえず季語をひとつ入れて31音にぴったりおさまるように作り、その他の細かいことはなんにも考えないようにした。

つくりながら気づいたのだが、短歌は31音の中で「視点や意識の瞬間移動」というものができるらしい。これはすごい。長文ではあんまりできない。
エッセイやそのほかの文章は、結末に向かって論理を組み立てていくパズルゲームの感覚に近い。寄り道も、結末のパズルのピースを埋めるべく、伏線を回収するもののみが許されている。エッセイにおいて寄り道は、許されているようで許されていない。
それが短歌では、意外と寄り道できたりする。視点を急に変えたり、目の情報の次に音の情報を挟む寄り道も可能だ。
歌で立ち上がってくる「空間」の余韻を楽しむ言葉の世界。まるで喉に通したあとの香りを楽しむワインみたいだ。なんてリッチで贅沢な言葉の使い方なのでしょう......!
芸術性と情報伝達が、ここまで無駄なく両立できる言語の元に生まれた私は感謝しか感じない。

しかも、短歌は一つの言葉に読む人たちの意識が集中されるから、頭の中にある程度の情景を立ち上げることができる。例えば、「雪の日に」と言えば、無条件に白が想起される。人によってはそれに「寒い」とかもしくは「あったかい室内」とか故郷を思い出すわけで、その無限の広がりようがすごい。
「雪の日に」で立ち上がるイメージから、その後に続く残りの26音で悲しくも嬉しくもあったかくもできる。その限られた空間にある無限の自由さよ。
まあ、短歌は瞬間を言葉でつかむ表現だし、つくり手によって、ある程度変わるものなんだと思うけれど。

まあ、そんなこんなで初の短歌づくりは実におもしろかった。
ちなみに、サラダ記念日で有名な俵万智の作品には、どちらかというと日常的で親しみやすい短歌が多い気がしている。サラダ記念日といえば、あれだ。

『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

私はどちらかというと、古典の和歌のように技術と心情と風景の3点セットのような短歌をつくりたいなと現時点では思っている。
最近、大河ドラマの『平清盛』や新装版のあさきゆめみし 、アニメの平家物語をみまくっているせいか、古典の和歌の持つパワーに感化されまくっているのもある。粋な掛詞(かけことば)も挑戦してみたいし、色や視点の変化がダイナミックなものをつくりたい。

今日つくった人生初短歌は、明日の夕方、フォロワーの誰もいないツイッターでつぶやいてみる予定だ。

あ〜。たのしい。
地元の神社の池で、毎日ボランティアで鯉に餌をあげている齢80くらいのおっちゃんが言っていた。

「本当にたのしい遊びっていうのはね、お金がかからない。無料なんだよ」と。

それを今思い出した。わたしも心の底からそう思う。
短歌というあそび(と言っていいでしょうか)もまた、生み出すには永遠にお金がかからない。
いつか趣味で、自分がつくったお気に入りの短歌を印刷したグッズやアクセサリーを作りたい。売りはしない。最果タヒのグッズが理想だけど。

妄想はどこまでも自由だ。
どこまでも伸びてゆく妄想の拡張性に、短歌と似たものを感じる。

<おまけ>
今日読んだ俵万智さんの初の長編小説『トリアングル』におさめられていた短歌の中で、いちばん好きだったものをここに載せておきます。

言葉ではなくて事実をかさねゆくずるさを君と分かちあう春

えろくて最高でしょ、そうでしょ

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