連載「人命の特別を言わず*言う」,第9回を公開します!

※ 筑摩書房から出してもらった2021年の本が『介助の仕事――街で暮らす/を支える』。このところも、新聞やテレビからの取材があって、番組の一部に使われることもあるらしい。また取材の時の録音記録もとってある。このへん確実なことがわかったり、整理がついたら、お知らせする。今回は一つ、日本解放社会学会という学会があって、その学会誌に『介助の仕事』への書評が掲載され、それへの返信=リプライを載せてくれるというので、書いた。「『介助の仕事』書評へのリプライ」。最初は、お礼だけ言ってすませようと思ったのだが、そうもいかず、とても長いものになった。私のためになるよい書評であったからではない。要するにそれは残念な文章だった。ただ、このような文章を書いてしまう研究者もいるのなら、そういうことではだめなんだということは、きちんと書いてみなさんにわかってもらう必要があると思ったから書いた。読んでもらえたらと思う。雑誌が発行されるまでは掲載しておくつもりだ。   
                        
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第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する

■3 照合してみる
 殺すのがだめだとは言えないと述べた。次に、しかし、もっぱら別の理由で人を殺す人について、その理由で殺すのはだめだから、人を殺してならないとした(Ⅰ)。そして、人が人を殺す理由であるとともに、殺しにくい理由について述べた(Ⅱ)。さらにⅢ・Ⅳを次の章で加える。
 普通に考えると、そうなる、と私は思う。しかし、別の筋立てで考えるとそうはならないようだ。
 伊勢田哲治の『動物からの倫理学入門』(伊勢田[2008])は様々な説が紹介されておりとても有益な本だが、その本に紹介されたことのまとめのような部分は、以下のようになっている。

 なぜ動物解放論はそんな影響力を持つのだろうか。特に本書の前半で詳しく述べたように、動物解放論の議論は、はじめて接したときには突拍子もなく感じるかもしれないが、論破しようとするとなかなか手強い。それは動物解放論がいくつかのかなり広く共有されている規範的判断や背景理論を組み合わせることで導き出せるものだからである。「倫理判断は普遍化可能である」「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」「動物も人間と同じように苦しむ」「認知能力や契約能力など、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」、これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける。
 この結論に反対しようとすると、前提のどれかを否定しなくてはならないが、ここに挙げられている規範的判断は、少なくとも現代市民社会に生きるわれわれにとっては抜きがたい確信となっているものであり、動物に権利を認めたくないばかりに少し修正しようとすると他のところに大きな影響が生じてしまう。「倫理判断は普遍化可能である」というのを否定すれば、人々が自分に都合のよいときだけ都合のよい規範を持ち出してもおとがめなしということになってしまう。「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」というのを否定すると性別や肌の色による差別も認めることになってしまう。「動物も人間と同じように苦しむ」というのを否定すると、「自分以外の人も自分と同じように苦しむ」というのも否定せざるをえなくなる可能性が高い。「限界事例の人たちが存在する」というのを否定するのは明白なさまざまな事実に目をつぶることになってしまうだろう。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」というのを否定すると赤ん坊や知的障害者に危害を加えてもよいことになってしまう。動物に権利を認めないのはそれなりに覚悟が必要なことなのである。(伊勢田[2008:320-321])(★28)

 「倫理判断は普遍化可能である」=A、「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」=B、「動物も人間と同じように苦しむ」=C、「認知能力や契約能力など、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」=D、「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」=E、としよう。
 (すくなくともある部分の)動物には、人・ヒト(のある部分)と同程度のものはあり、同じものは同じに扱えという規範があるなら、動物にも認めることになる(A)という話だと思う。C:人間も苦しむ(から害してならない)のだが、苦しむのは他の動物もだから、動物も害してならない。また、D・E:高等でない(「限界事例」の)人たちにも認めるなら、同等の動物にも認めるべきだとする。こうして、(ある範囲の)人間を殺さない、ならば同じような性質をもっている動物も、ということになり、人間を優先する理由がうまく言えないのだと言う。しかしそういうことだろうか?
 それに対して、私たちは、0:殺すこと(殺して食べること)は仕方がない、を最初に置いた。私たちは、生物が生物を殺してはならない(食べない)という主張を採らないとしたのだ。すると、その一部として人間が動物を殺すことも悪であるとはならない。ここまでは矛盾はない。一貫している。だからA:普遍化について問題はないことになる。
 すると、今度は人間が人間を殺すことがいけないことが特別のことになり、人・ヒトを特別扱いをすることになって、論として一貫しないということになるだろうか。つまり、問いは、生物全般において殺生を否定できないとして、そのうえで、せめて(人間が)人間を殺さないことにしよう、と言えるだろうかという問いだ。言えるだろうと答えた。
 食べることに伴って殺すことと、人が人を殺すことは、その性格・理由が異なる。別の理由なのだから、0:食べることに伴い殺すことは否定しないが、Ⅰ:人が人を食べるために殺すのでないのに殺すことは否定される、という二者は、同じものは同じにという規範には抵触しないことになる。
 次に、私たちのように考えない人たちが持ち出す、同じだから同じに、について。言われる一つが、C:人間も動物も苦しむから、動物も苦しめない殺さないという話だ。苦しむこと/苦しめることをよいことだとはしない。しかし、仕方がない、とした。それに対してすぐに言われる、人間については動物を食べなくてもなんとかなるのだから、仕方なくはないという指摘についても、第4回「殺し食べる」で答えた。
 もう一つが、D+E:つまり利口でない人も殺さないのであれば、同程度の利口さ(以上)の動物も殺すべきではないという話だ。私たちも、死ぬ・殺されることの怖さは計算にいれるべきだと述べる(第3章・Ⅳ)。利口であるから怖い。その恐怖は考慮せざるをえないという意味において、大切なものであるとは考えていて、そのことを述べる。ただ私たちは、ある程度利口である存在であっても、殺して食べることはあると認める。同時に、利口さの度合は殺す/殺さないの基準と考えないのだった。
 そして、B:遺伝的な差異自体は、ほとんどの場合、なんにせよなにか「自体」がよしあしを示すことがないのと同じに、差別する理由にはならない、とは言えよう。ただ、Ⅱ:人=ヒトから人=ヒトが生まれる、このことは人間・社会的な理由によって殺す理由となるとともに、殺さない(殺しにくい)ことにも関係があるようだった。そしてそのことは規範として認められるのだろうと述べた。そのことには意味がある、と少なくとも多くの人は――むろんなんでも認めないことはできるから、認めない人もいるとしても――思うだろう。するとそれは理由になっている。すると、結果として、境界線はヒト/ヒトでないという遺伝的な差異に沿って引かれることにもなる。

■註
★28 ただここで話が完結するわけではない。次のように続く。リンク先のページにはさらに長い引用がある。
 「といっても、動物に権利を認めれば問題が解決かと言えばそうは簡単には言えない。動物解放論者は「少なくともぎりぎりの選択では人間の方が他の動物より優先される」という強固な直観と向き合わなくてはならない。この直観を動物解放論の中で生かすのは難しい。別の言い方をすれば、「倫理判断は普遍化可能である」をはじめとした前述の判断や背景理論に「極限的選択における人間の優先」を付け加えると、全体としてつじつまがあわなくなってしまう(均衡が破れた状態になってしまう)ということである。これはまさに往復均衡法が発動するシチュエーションであるが、とうやって均衡を実現したらよいのだろうか。
 一つは功利主義を使ってシンガーの路線で全体の整合性をとるやり方である。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」という部分を修正して、動物の命(とある種の限界事例の人たちの命)は奪ってもよいということにするということだった。この路線は障害者差別だといってごうごうたる非難をあびたから、あえてシンガーの後に続くのはかなりの覚悟がいる。動物の権利を重視するのなら、解決策は極限的選択における人間の優先という方向になるだろう。これはレーガンよりも過激な立場で、憲法にうたわれるような基本的人権をあらゆる動物に同等に認めることになる。これならたしかに当面の矛盾は解決されるが、もっと大きな問題を抱え込むことになる。というのも、それだけ強力な権利になってくると、どの範囲にまでその権利を認めるのかが大きな問題になってくるからである(シンカーのバージョンでその間題がないわけではないが)。
 他方、徳倫理学は[…] 」(伊勢田[2008:321-322])
 「ごうごうたる非難をあびた」ことが別の箇所でも紹介されていることは、第3回「なぜまだ」の註17でも引用した。この本に対するコメントとして、野崎泰伸「『動物からの倫理学入門』の一つの読み方――倫理・正当化・正義」(野崎[2009])。このたびの私の書き方とはだいぶ違う立場からのものだが、一貫したものではある。


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