連載「人命の特別を言わず*言う」,第4回を公開します。
※ 連載の第4回です。この回から全4章の第2章になります。第2章の進行は以下の予定です。 全体の目次(予定)等は『人命の特別を言わず*言う』にあります。
第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する
1 殺し食べる
1 動物倫理を動物に拡張すると
2 0:殺すなとは言えない [第04回]
2 それにしても
1 人はずっと間違えてきたと言える不思議
2 種主義は人種主義ではない [第05回]
3 食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする
1 予告
2 Ⅰ:食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする [第06回]
4 人の特別扱いについて
1 Ⅱ:人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人
2 私たちの事実だから/だが私たちを超えたものとする [第07回]
※ 前回したお知らせをもう一度。2月19日に、日本生命倫理学会・人生の最終段階におけるケア(End of life care)に関する部会主催の「エンドオブライフケアの諸相」で話をすることになりました。川島孝一郎さんから連絡いただきお受けしました。Zoom 13:30~17:00。安藤泰至さん、中島孝さんの後、話します。今メールみたら、会員向けイベントとありました。非会員の方々すみません。ただ、私の報告分については私が録画なり録音なりしてそのうち公開しようと思います。そしてその日のための資料のようなものを作り出しましたので、見ていただけます。→「私のような死ぬのが怖いだけの単純な人間には無用ですが、多くの人はそうでもない。」。昨年ちくま新書の1冊となった『介助の仕事』にある文言です(p.216)。
第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する
1 殺し食べる
■1 動物倫理を動物に拡張すると
本人、当の存在において「よい」ことに「決める」「律する」ことを加え、この決める・律する・できるに大きな価値を与えることによって「生命倫理学」の主流が現れ、人が自ら死ぬことにもなることを前章第3節(連載第03回)で述べた。他方、基準を「よい」だけにし、そしてその「よい」を、「感覚」「快苦」のほうにもっていくと、それを有するらしい存在の幅は広がっていって、近頃は「動物倫理学」などと言われることもあるらしい領域の話になっていく。するとそれは、新しいものではなくなるのでもある。人間的とされる高度な性能から考慮されるべき範囲を広げていくことによって、その話自体は、世界のかなり広い範囲に昔からある、殺生に否定的な思想に近づいていくことにもなる。
そうした領域の本を何冊かでも読めば感じることだと思うが、そこにはとてもたくさんの事例が出てきて、たくさんの論点が現れる(★01)。たしかに気分のわるくなるような実例がたたみかけて示される。そうして主張されるいくつか、あるいは大部分について、私はもっともだと思う。
しかし、やはり論点を分けて考えていく必要がある。その際、生物の世界により広く存在するだろう快苦といったところに基準をもっていくことと連動して、前章第2節(連載第02回)で私が実際には人間中心主義的であると述べたことが、いくらか変動することを確認する。普通には人間の側から延長していった話だとは思われるが、しかしそうではないと主張することはできる。動物擁護側の人たちの言い分を聞くところから考えてみる。
まず、前章第2節(連載第02回)で三番目に述べたこと。どんな存在を殺してならないかについて。それを理性だとか、自己意識だとかを有する存在ということにすると、前章第1節(連載第01回)に見た話になる。基準の設定にもよるが、人間のかなりの部分を除外したうえで、せいぜい類人猿あたりが救われることになったのだった。それを広げて、快苦、痛みや恐怖を感じている生物とする。これもとりようだが、より広い範囲にそんな生物が多く存在することは否定できない。植物だって苦を回避していると言いうる(★02)。そうするとだいぶ広くなる。そして、そのいくらか手前のところで止めるなら、ときに昆虫なども含む動物全般の殺生を否定する立場となる。
次に、一番目に述べたことについて。要するにその「倫理」は人間が考えて発案したものだということだった。このこともまた認めざるをえないだろう。ただ、擁護を発議するのは、あるいは代弁するのは、人間であるとしても、そして人間であるしかないとしても、動物たち生物たちが望んでいるという主張は可能であり、実際になされる。例えばテイラーの本『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』にはそんなことが書かれている。その動物たちは人間の言葉を話すわけではないが、殺されないことを望んではいる、苦痛から逃れようとしているというのだ。動物たちの行動から解する限り、そのように見ることはできるだろう。植物にしても、自己保存の方向に生きているとは言えるだろう。すると、人間の側の勝手な押し付けであるとまでは言えないことになる。
テイラーの本では次のようにある。
排除と慈善の歴史ゆえに、「声なきものたちのための声」になろうとする動物擁護家の後見人のような口調を好ましく思えない障害運動家もいることは、十分理解できる話だ。例えば、スティーブン・ドレイクはこのように語る。「動物権擁護は、人間と動物の相互関係を位置づけるべき一連の原理を定義および擁護することによって機能する大義だ。けれどもこのことを要求するのは動物たち自身ではない……〔動物権の〕擁護家および運動家たちこそ、動物に対する権利擁護の言葉を定義できるのであって、かれらは決して、動物たちについて自分たちが誤って理解しているのではないかとか、動物たちが自分について自分で語りたいのではないかといったことについて、心を悩ませる必要はないのだ」。
ドレイクの指摘は動物擁護運動に対する批判としてはありふれたものだ。作家およびジャーナリストのマイケル・ポーランもまた、類似した点を『雑食動物のジレンマ――ある四つの食事の自然史』において提起している。
いったい運動家にどうやって動物の望みがわかるというんだ? 動物のために語るのは、単に恩着せがましく温情主義的なパラダイムを強化するだけだ。けれども(Taylor[2017=2020:116-117])
スティーブン・ドレイクの文章(Drake[2010])は「Not Dead Yet」のサイトに掲載された、訳すと「障害者の権利と動物の権利とを繋ぐ:本当にひどいアイディア」という題の文章だ(★03)。そしてポーランの本はだいぶ話題になり多く読まれたという(★04)。引用の続きは以下。
けれども、ドレイクとポーランの議論における問題は、動物を利用し搾取する人びとは、動物たちのためにいっそう破壊的なかずかずの選択をしているということだ――動物を投獄と死に至らせる、そうした選択を、だ。動物が利用される実質的にあらゆる環境において、動物たちには、その檻から抜け出したり、屠殺されるのではない生を選ぶ能力も、〔そのための〕自由も与えられてはいないのだ。
ドレイクとポーランはまた、動物たちは人間に自分の望みを伝えていないとする点でも間違っている。ロイの言葉、すなわち「選択的に傾聴されない」というのがずっと妥当だ。動物たちは、絶えずみずからの選好について声をあげ、自由を要求している。痛みで叫び声をあげるとき、あるいは突き棒、電撃棒、ナイフ、そしてスタンガンから逃れようとするとき、かれらは日々、わたしたちに語りかけているのだ。動物たちは、檻の外に出たいと、家族と再び出会いたいと、あるいは死が待ち構えているシュット〔chute:屠殺場において動物を一匹ずつ殺す場所に送りこむためのトンネル状の滑降斜路、訳書七〇頁にある訳注〕には行きたくないと、わたしたちに絶えず訴えかけている。(Taylor[2017=2020:116-118])
そして続けてテイラーは、「動物が自分の解放を求めて行動を起こすことができ、また実際にそうしてきたという事実にはまた、驚くほどたくさんの証拠がある」(Taylor[2017=2020:118])と述べて、檻や柵から逃げ出そうとした動物たちの事例を列挙する。それがよいことなら、その方向に行くこと、またそのような人間が代行することはよいことだということにはなる。
しかしまず、ここでテイラーは人が生物に対して行なう行為に限定している。人間以外の動物も動物を殺しており、そこに殺される側の苦痛は――たしかにその度合いは同じでないとしても――存在するだろう。とするとそれはどのようになるのか。
このことは、前章第2節(連載第02回)で第二に述べたこと、規範の遵守を人間にだけ求めていることをどう考えるか、人間に限定してよいのかにも関わる。求められているのは人間による行ないの変更であり、なされるのはもっと人間が動物を大切に扱おうという方向の主張ではある。しかし、その規範を動物にも及ぼそうとする極端な人たちもいることはいるようだ(★05)。動物をもっと大切にしようという多くの人たちは、きっと普通に、ただやさしい人たちなのだろうと思う。ただ、こういう社会運動の常ではあるが、より原理主義的な主張が現れることにもなる。しかしそれをまったく無視するというわけにもいかないし、理屈は整合している。(人間が与える)「過度な」苦痛はとくに問題だと主張するにしても、その基底には、苦痛全般が避けられるべきであるという価値があるはずだ。とすれば、動物擁護の人たちの多くが自らは主張しないとしても、世界の苦痛の全体を減少させるべきだとなる。
すると、動物を殺さないという規範の遵守が他の生物にも求められる。とはいっても、その生物たちが人間の言うことを聞くことはないだろうから、それは実質的には人間の側の営みになる。そして、なすべきことは拡張され拡大されていく。殺すなというだけでなく、治療したり予防したりするべきだとなる。実際、ペットだとか、動物園の動物だとか、森林火災に巻き込まれる動物であるとかに対して、人間はある程度のことをしている。動物を病院につれていったり、あるいは死にそうな動物を救おうとする。それがその時々の愛護の精神からというのでなく、世界の全体についてなされるべきであるとなる。さらに、すくなくとも論理的には、肉食の動物たちを肉食せずに生きられる動物に変えるといった、生物、生物界全体の改変が指示され支持されることになる。
それに対して思われそして言われることは、まず、そんなことは無理だということだ。よいものとして描かれる世界は、これまでのそして現在の生物の世界全体とは異なる。それを別のものに替えることは、たいへん大がかりなことであり、事実上不可能である。肉食動物に肉食をやめさせることがよいことであるとして、そんなことはできそうに思えない。想像するだけであれば、世界に生命がいることはよいことだとして、無機物・非生命だけを摂取して、生命の交代を一定の数の範囲内で繰り返していく、あるいは永遠に生き続ける生命だけが存在する世界といったところになる(★06)。そんな世界を現実的には想定できない。
しかしまったくできないかと言えば、それはそうではないだろう。たしかにそれは容易なことではなく、できないことはたくさんあるだろうこと、すべてを変更することは無理だと認めたうえでも、可能な限りのことはできる、という言い方はあるだろう。そしてその範囲を徐々に拡張していくこともできる。そこで、できるだけのことはしようという主張はありうる。無理なことであるのは間違いないが、できる限りのことはできる、だからできるだけのことはするべきであるとする。あるいは、最大限を目指さないとしても、いくらかでもすることはよいことだとなる。いろいろと人間ができること、できてしまうことはあるだろう。せめて人は、できるのだから、行なおうということになる。実際そんな主張もないではないようだ。
■2 0:殺すなとは言えない
以上は事実・現実に即すならこうなるだろうということだが、次に、現実に無理というのでなく、実現可能性の問題とは別に、「べき論」、規範論としてはどうか。
動物は、さらには生物全般が、害と死を避けようとしているとは言えよう。その存在が殺されるのだから、悲しいことであるとも言えるだろう。それに対して、けれども仕方がないと言うとしたらどのような言い方になるだろうか。
一つに、淘汰を通した進化を信じる人は、殺したり、生き残ったりすることのなかで生物は進化するのだから、殺生が支持されると言うだろう。たしかに淘汰を介して環境への適応度が高まるといったことがあるかもしれない。ただ、その進化がとくに望ましいことだと考える必要はなく、そのために殺して食べることが正当化されると、私たちは考えない。より優れた生物の出現が必要であるとは考えず、そのために摂食・殺害・淘汰が必要であるとは考えないからだ。そこで私たちは、この主張を殺生を認める理由として採用しない(★07)。
食べられ殺される生物がある。他方で、食べる・摂取するほうの生物は食べることも望んでいると言えるだろう。だとすると、なぜ食べられることが負であることのほうを優先するのか。殺して得ている。その快は苦を上回っている、だからよいのだといったことを言う人はあまりいないとして、合わせれば苦と楽とは均衡しているといったことを言う人はいる。
それに対しては、比較のしようがあるのか、という問い方はあるだろう。よいことのある一方もあるが、殺される他方もあり、そのできごとを見た時、どちらがより望ましいかがはっきりしていることはそう多くはないはずだ。殺さない/殺されないことのほうがよりよいことだとは言えない(★08)。
食べる・食べられるといった一対一のその刹那のことをみるなら、このようだ。たしかに、殺され食べられそうな場面で、それを避けようとしていること、その刹那のことであったとしても、苦痛を感じているといったことは言えるだろう。さらにいくらか複雑な場面になるとどうか。とくに飼育という要素を入れるとどうなるのだろう。自然界で暮らすよりも、人間に飼われたほうが、さらに食用にするために飼われたとしてもその方が、長く生きられる可能性は高いといったことはあるだろう。それで寿命をまっとうできるといった場合もあるだろうが、屠殺される場合もある。しかしそうした場合でも、野生にいるよりもより長く生きられるといった場合はある。そんな時、家畜になって平穏で長生きできたほうがよいと思う人と、野生でスリルのある人生がよいと思う人と分かれるかもしれないが、当の動物に即した時にはよくわからないとしか言いようがない。動物の「家畜化」を嘆く人たちがいて、それもわからないではないのだが、野生のままにいるほうが必ずよいとも言いにくいはずである。
さらに、ここで比較されるのは、現今の生物界と殺生全体が極小化された世界とだ。生物、生物界のあり様の基本が変更されることになる。とすると、その前の世界にいた生物と変更後の世界にいる生物とはまったく異なった存在であり、後者のほうが、前者から見たときによいなどと言えるだろうか。比較のしようがないし、さらに、変更したほうがよいと言える根拠が見当たらない。
その人たちは自然を大切にしようという人たちのはずだから、その自然のままという主張と、自然の変更が求められることと、この両者は論者の各人において、どのように、辻褄が合わされているのか、合っていないのか、あるいはこの論点に気づいているのか。私は関心がないが、興味のある人は調べてみたらよいだろう。ただ大きくは二つに分かれるようだとは言える。一つには、人間のことに限定するものだ。人間である自分(たち)だけがなすべきことだと考えるのである。その気持ちはわからないではない。しかし、その気持ちから発する掟を他人たちに及ぼせるか。他人たちに及ぼすなら、なぜ人間に限られるか。人間だけがなすことに限ってならできるとは言えたとしても、だから人間がするべきだという論には与しないことを述べた。
そうすると、もう一つ、(可能なかぎり)すべての動物・生物がその方向に行くことをよしとすることになる。これを主張するほうが少数派ではあるだろうが、一貫はしている(★09)。そしてその人たちは自然のままを支持していない。むしろ否定している。このことを認めさえすれば辻褄が合わないということにはならない。他方、自然が大切だと思って支持しようとした人たちは違うことを言う必要がある。
それは、生物における世界の営みを否定するということだ。基本的な仕組みを動かすことになる。それは、むりやりなことではある。そしてそれは、その相手の「意を汲んだ」ものであったとしても、人間が行なおうとすることだ。個別に、傷ついた動物に出会ったり、保護することはあるし、あってわるいことはないだろう。ただ、殺生することを止めさせることを局所的に行なったとしても、それは有効な行ないではない。すくなくともたいして有効な行ないではない。食べることをやめさせることができたとして、しかしそのままでは、食べることができなかった動物は死ぬだろう。とすると、別の、殺生しないという規範に抵触しないものを与える、それを与えられて生きることができるようにすることになる。つまり、この規範のもとで有効なことを行なうなら、それは生物の世界全体に対する行ないとなり、そのように世界を改変するべきであるとなる。
そんなことは実現可能性において無理なことだというだけのことではない。人間の側に、と限らなくとも、変更を考えている側に、そこまでの権利はないはずだ。意を同じくする者たちだけの世界であったら、そこでその者たちの一致した意思による行ないとなったら、一挙にそのような世界にすることはあるかもしれない。しかし実際の世界はそうではない。
許容されるのは、せいぜいが個別の利害を推量することであり、そのもとでいくらかを実践することであろうと思う。その生物たちが痛みを避けようとしているとは言えようが、そのことをもって、世界全体を変更することに同意していると推量するのは行き過ぎだ。そうして営まれている世界を否定するだけの根拠を思いつかない。そんなことをする権限・権利は誰にも、そして人間にはないと考える。
このように述べると、私たちが極端な想定を行ない、その想定を用いて、殺生を否定することを否定しようとしているという批判があるだろうか。しかし私たちは、たしかに極端な状態を想定したが、それが極端であるために実現できないからやめようと言ったのではない。困難であるのは確かだが、しかし、だから取り下げよと言っているのではなく、そのよしあしを問題にしている。そしてよくないと言っているのだ。
なすべきであるとされる殺さないという行ないについて、人間の動物・生物に対する行ないに限定することに正当性が得られれば、違ってはくるだろう。行なうべきことの範囲は大幅に狭まり、量は少なくなるだろう。人間だからできる、せめて人間がする、というのは、わからないではない。しかし、そのことが言えるだろうか。
まずなされる主張の一つは、肉食は他に食べるもののないある種の動物については仕方がないが、他のものも食べることのできる人間にとっては必須ではない、だから食べる・殺すのをやめるべきだというものだ。生きていくのに必須ではないというのは、そうかもしれない。ただ、猫にしても、どうしても小鳥を殺して食べないと生きていけないかといえば、そんなこともないだろう。さらに、猫だったら、食べないで殺すこともある。とくによいこととも思わないが、それをよくないことだとか認めても仕方がないと思う。かつては肉食であった動物に、植物を食べさせるようにすることができることがある。あるいはそのような動物の性格・性質を変えることができることがある。実際、そのような方向に主張が行くこともある。そしてそれはまったく不可能というわけではない。
人間なら行なうことができる。そのことを理解し実行することはできる。よく言われるように、別のものを食べるようにすることができる。雑食動物である人間はその度合いがより高いとは言えるかもしれない。しかし、他の動物に対して(あまり)強く言えない(できないこと)を、人間に対して言えるだろうか。言えない。
その時に言われうるのは、人間はより高級な存在であるから、というものだ。しかし第一にそのようにどうして言えるのか。その理解を否定することはできる。第二に、仮に高級であることを認めたとして、なぜそれを止めねばならないか。人間がその規範を理解でき実行できることは言えたとしても、それをすべきであるとは言えない。できるならば食べてはならないという規範に従わねばならない、とはならない、ということだ。
であるなら、人が動物を食べる(殺す)ことがわるいとは言えない。普通はこうなるはずだ。
では動物擁護の人たちから聞くことはないのか。そんなことはない。まず、人間の行なっているその殺生はあまりに大規模である。とくに大規模な工場のような場でのことも含めれば、苦痛を与えるのは、他の動物が行なっているように殺生の瞬間だけではないという指摘にはもっともなところがあると認めよう。関連して、もう一つは資源の問題とのかねあいだ。大量の餌を食べ、環境によくないものを排出しながら食べ続けさせられて太った動物を食べるよりも、その手前の、餌とされる植物を食べたほうがよい。これもよく言われる。そして、こうした指摘についてはいささかの猜疑心はあったほうがよいとは思うが、それでもおおむねもっともだと思う。本書の最後でもこのことを述べる。
■註
★01 第1章にあげた文献を除いて、入手した書籍は以下。原著の刊行年順に並べる。
『動物の権利入門――わが子を救うか、犬を救うか』(Francione[2000=2018])、『児童虐待と動物虐待』(三島亜紀子[2005])、『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(Derrida[2006=2014])、『雑食動物のジレンマ――ある4つの食事の自然史 (上・下)』(Pollan, Michael[2006=2009])、『動物からの倫理学入門』(伊勢田[2008])、『アメリカ動物診療記――プライマリー医療と動物倫理』(西山ゆう子[2008])、『肉食の哲学』(Lestel[2011=2020])、『動物倫理入門』(Gruen[2011=2015])、『ジャック・デリダ――動物性の政治と倫理』(Llored[2013=2017])、『動物倫理の新しい基礎』(Rollin, Bernard E.[2016=2019])、『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』(Taylor, Sunaura[2017=2020])、『環境と動物の倫理』(田上孝一[2017])、『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』(村上克尚[2017])、『人と動物の関係を考える』(打越綾子編[20180315])、『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』(生田[2019])、『快楽としての動物保護――『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ』(信岡朝子[2020])、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』(浅野幸治[2021])、『はじめての動物倫理学』(田上孝一[2021])。
「入門」と題された本が四冊ある。また、これらの中で「倫理的ベジタリアン」を批判する立場をはっきりさせているのは『肉食の哲学』(Lestel[2011=2020])。そこでこれから幾度か引用はするが、私の主張との違いもまたある。
★02 「世界中ほとんどの文化において植物はある種の感覚を持つと考えられており、とりわけシャーマニズムの文化では顕著だ。西洋でも、少なくともゲーテ以降には見られる考えである。興味深いこの現象は今日ますます研究が進んでおり、なかでも…」(Lestel[2011=2020:46])
★03 そのHPには「Not Dead Yet(NDY・「まだ死んでない」)は、幇助された自殺と安楽死を合法化する運動に反対するために作られた、草の根の障害者の権利のためのグループです」とある。
『ALS』で以下のように記した。
「安楽死に反対する人たちは外国にはいないのかといえば、そんなことはない。そして反対者はカトリックなどの宗教的生命尊重主義者たちに限られるかと言えばそんなこともない。例えば米国には『まだ死んでない(Not Dead Yet)』(http://acils.com/NotDeadYet/)というホームページがあり、次のようなことが書いてある。《障害をもつアメリカ人は、あなた方の憐れみもいらないし、私たちを死に追いやる慈悲もいらない。私たちが欲しいのは自由だ。私たちが欲しいのは「生」だ。》また探してみると、「反安楽死国際機動部隊(International Anti-Euthanasia Task Force)」(http://www.iaetf.org/)などという組織もあるらしい(私のホームページですこし紹介している)。
こうした組織がどれほどの規模のものなのか、またどのくらいの影響力があるのか私は知らない。大きな組織だとは思えない。論文や書籍で紹介されているのを見たことはない(そんなわけで私は、二〇〇一年二月、NHK教育テレビ〈人間ゆうゆう〉の「安楽死法成立・あなたはどう考える」という回に呼んでもらった時、こうした組織のことを無理やり、短い時間に押し込んで話した)。ただ、生きたい人はどこにでもいるということだ。」(立岩[2004:341])
ここで「私のホームページ」と述べているものは、現在は生存学研究所によって運営されている『arsvi.com』となっている。
★04 『雑食動物のジレンマ』。カリフォルニア・ブック賞(ノンフィクション部門)、『ニューヨーク・タイムズ』の10 Best Books of 2006、『ワシントン・ポスト』のTop 10 Best of 2006、等。
★05 『雑食動物のジレンマ』の第17章が「動物を食べることの倫理」。(シンガー流の)動物擁護論に反駁しようとするが、反駁できず、しぶしぶ肉食を(一時期)断念するという筋になっている。
「動物もお互いを食べるからという論理に対して、擁護派は、シンプルで痛烈な答えを用意してる。あなたは自然界の理法をもとにした倫理規範に従いたいのか、それなら殺人や強姦も自然ではないか。それに、人間は選ぶことができるではないか、と。人間は生きのびるためにほかの物を殺す必要はない。肉食動物は殺さなければ生きることはできないが(わが家の猫オーディスを見てみれば、動物はただ殺す楽しみのために殺すこともあるようだが)。」(Pollan[2006=2009:119])
例えばこのようにして、この人は、反論しようとして、自分で負けて、負けを認め、しぶしぶ(しばらく)菜食することになるのだが、その自ら負ける負け方には疑問がある。
まず、(人間的な意味合いにおける)殺人や強姦が人間を別とした自然界に存在するのか知らない、むしろ、ないと言ってよいと思うと返すこともできる。また、どんな時にでも私たちは常に例えば物理法則には従っているとも言える。だが、これはまじめな反論ではないということになるだろう。もっとまじめに返すことにする。私たちは、世界に存在するすべてをそのまま肯定するわけではない。しかし、そのある部分についてはそれを否定しないもっともな理由があると考える。そのことを本文に述べる。もう一つ、人間は肉を食べなくても生きていける(から食べるべきでない)という主張についても本文で述べる。
★06 もっと進めれば(動物的な)生全般に否定的になることになることがあるだろう。
「じっさい徹底したべジタリアンが動物的な生に向ける敵意はじつに深い。彼らが心底満足する唯一の方法は、地上のあらゆる動物的な生を消滅させることだろう――それはすべての苦痛とすべての捕食を根絶する唯一の解決策である。大半のべジタリアンは悪びれもせず、そんな企みなどないと抗弁するはずだ。だがある意味、こうした態度が状況をいっそう悪化させるように思える。彼らは潜在的には自らのやり方が無益で根拠を欠くことに気づいているからだ。だとすれば、中途半端にしか達成されない倫理的な計画に意味などあるのだろうか?」(Lestel[2011=2020:75])
★07 註06に引用した部分の次の節は「進化について」で、その冒頭は以下。「苦しみも残酷さも利害間の絶えざる対立も存在しないウォルト・ディズニーの魅惑の世界に生きたいと願うことは、少し大人になれば諦めるはずの子どもの夢である。ラドヤード・キプリング式のジャングルの掟という古の世界観をきっぱり捨て去ったからといって、進化の理論とミッキーの世界が両立するわけでは決してない。」(Lestel[2011=2020:75])
この後いいさかまわりくどい記述によって、しかし基本的に進化論が肯定される。なお私たちは、事実の記述としての進化を否定しているわけではない。
★08 「より普遍的に言えば、ベジタリアンが拒んでいるのは、現実世界が本質的に闘いの世界であり、たがいの基本的利害は一致するどころかむしろ衝突するとの認識である。だがある生物にとっての食われないという利益が、その捕食者の食うという利益につねに勝っていると言えるだろうか。」(Lestel[2011=2020:61])
「動物が個々のレベルで自分の苦痛を最小限にしたがるとしても、普遍的に見ればその動物にとって苦痛は何らかの意味を持つかもしれない。じっさい、あらゆる苦痛を排除した世界の本当の意味について考えてみなければならないだろう。そんな世界は端的に言って耐えがたく、さらに痛ましく不毛であるはずだ。われわれの理性はふだんこうした問いには閉じられている。なぜならわれわれは願望を現実と取り違え、善意は完全に無償だと言わんばかりに、有益だと信じ込む行為の代償のことは考えない傾向があるからだ。」(Lestel[2011=2020:70-71])
私はこのようには言わない。それは註07に述べたことにも関わる。
★09 前の三つの註に引いた本には、「狐を草食にしたがるような過激なベジタリアン」(Lestel[2011=2020:57])といった記述がある。「たとえばスティーブ・サポンツィスは、捕食動物の生態を草食や果実食に転換しようと考えている。」(Lestel[2011=2020:57])。訳注では「Steve Sapontzis, 1945- アメリカ合衆国の哲学者。動物倫理、環境倫理を専門とする。」(Lestel[2011=2020:167])少し調べると『Food for Thought: The Debate over Eating Meat』(Sapontzis ed.[2004])といった本がある。