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連載を始めます。題して「人命の特別を言わず*言う」。

【本連載について】                         人間だけでなく、あらゆる生命の「命を奪ってはならない/奪ってよい」をめぐって、これまで言われてきたことを、社会学者の立岩真也さんが多角的に検討し、自身の考えを展開していきます。『唯の生』第1章での議論をもとに、さらなる展開を図る本連載、終了後には単行本として刊行します。ご愛読を! (筑摩書房編集部)

第1章 人命の特別を言わず/言う

1 脱人間中心主義と称する主張                    ■1 殺生について
 人間は人間だけを特別に扱っている。実際には、夥しい数の人を殺してきて、殺している★01けれども、それでも、そのようにすべきであるということにはなっている。それを(ヒトの)「生命神聖性説」であるとし、それは「種差別主義(speciesism)」であるとして批判する。そして、ある人間を遺棄して(殺して)、ある動物を救うことを主張する。
 けれども多数派は、動物の殺生についてのそんな「正しい原則」を知っても知らなくても肉を食い続けるから、この理屈を主張する人たちは、菜食主義者などになって少数派にとどまる。ただ、生きてよい範囲から、ある人たちを外す行ない(だけ)は実現されることもあるし、実際に起こっている。つまり、それは人間について死ぬこと、死なせることに対する積極論として作動する。しかし、「論理」としてはこちらの方が一貫していると自ら言うし、そうかもしれないと思う人たちがいる。
 ここで既に躓いているようにも思う。このような主題を相手にするべきなのだろうかと思う。この種の議論に入り込むこと自体がなにか罠にはまっているような感じがする。時間を費やすことにもなる。そして、検討してものを書くということ自体がその説を宣伝してしまうようなところがある。それでも、素通りはしないことにする。すでにかなり知られており、そして、例えば動物が大切だという人たち――は、たいていは人間のことは気にならないようだ――が、その話を援用しているからでもある。
 そしてその人たちは、新生児を殺すことなど非自発的なものの一部も含め、死ぬ/死なせる行ないに賛成なのだが、なぜどのように賛成しているのか。この世にある賛成のパターンがそうあるわけではないから、私自身にはそう思い入れのないその人たちの言うことをすこし検討しても、無駄にはならない。
 それを言う人たちは、「伝統的な生命尊重論」を批判し覆す側にいると思っているから――そんなことはない、(近代社会における)正統派だと私は思うのだが――以下、批判者と記すことがある。その論の筋をごく簡単に紹介し、私の考えを言う。
 代表的な論者にピーター・シンガーヘルガ・クーゼがいる。二人は学問上の盟友ということになる★02。細かに読むと違いもあるのだろうが、ここではひとまとめに考えてもさしつかえない。クーゼは生命倫理学者ということになろうが★03、シンガーはさらに広い範囲を論じている。多くの著作があり、その多くは邦訳されている。シンガーは、まず「動物の権利」論者として、その方面を知っている人に知られるようになった★04。後で住むことになる合衆国においては、いかにもその国的な左派ということになろうか。例えばジョージ・ブッシュの政策を強く批判する著書がある。人工妊娠中絶はじめなんでも反対という保守派と立場を異にするという意味では当然と思われるかもしれないが、彼は、世界に存在する大きな格差の是正を「ラディカル」に訴える人でもある★05
 また、彼は(脊椎動物を食べないという種類の)菜食主義者であるらしい。他方、私は肉を食べ続けるだろうし、そのことをほめてもらえはしないだろう。ならば、彼の行ないはよいことであるとしよう。そして次に、彼が人の生き死について語ることを見てみる。すると、その部分は、すくなくとも私にはなかなかに受け入れがたい。とするとこれはいったいどうしたことか。それともシンガーのどこかが矛盾しているのか。しかし彼の述べることは、どこまでもいつも同じ明るさに包まれている。となると私がどこかで間違っているのか。じつはそう思ったことはない。反対に、この人の言うことに違うところがあると思う。
 そして、この人(たち)の言うことを考えることは、この世に文句を言うとして、社会の変革を主張するとして、どのような方向・言い方がよいのかという問題を考えることでもある。その際、本書で検討する主題をどう考えるかは意外に大切なはずであり、ここでの態度の分岐はかなり大きな意味をもつはずだ。
 いっこうに実現はしないのだが、貧困が解消されるべきことについて、今どき(というより昔から)正面からその考えは間違っていると言う人はいない。違いは、その実現の道筋についてであり、もしその社会の成員が「まとも」な人間たちであるのなら、「自由」な社会においてはやがて貧困の問題その他は解消されていくと言うか、そのようには言わず、もっと積極的な対応が必要だと主張するかという違いであり、しかもほとんどの場合には「ある程度」の対応は必要だと言われるのだから、違いは程度問題となる。その意味では、現在の米国の政策についていくらでも批判が言え、そしてそれらが当たっているとしても、基本的な対立・争点はそこにはないかもしれない。
 いや、もっと正確に言えば、程度問題はばかにできず、程度問題こそ本質的な問題なのであり、それをどのように言うかが重要なのだ。そしてこの時、大切なことは、どうしたって見栄えのしない場面、死にかけている人、健康な類人猿よりしっかりしていない人間たちをめぐって存在するのかもしれない。そしてそのことが、総論として反論されない「援助」のあり方などにも関わると思う。
 私は、この人たちの主張がそんなに「ラディカル」であるとは思わない。べつにこの人たちに言われないとならない話ではないとも思う。もっと言ってもよいと考えるし、私自身はそうした主張をしてきたと思う。ただし、分配の主張がどれだけ「ラディカル」であるかと、それがどれだけ実現するかは別のことだ。だから、「もっと言う」からといって、そしてそれが正しいとしても――私は正しいと思っている――、より強い主張をするからといって、いばれるようなことではないと思う。ただ、そのことをわかったうえで、実質的には「きちんとした人間」から始め、認められる範囲をそこから拡大していこうという理路は――そのほうが人々の理解を得、実現する可能性が高まるとしても、基本的には――とるべきではないと考えている★06
 加えてもう一つ、死ぬ殺すというこの話は、動物と人間との境界という話に滑っていく。つまり、ある人たちと同じぐらいの知的能力のある動物を生かすべきだ、他方、同等より低い人間については殺してもよいという話につながる。言われると辻褄が合っているようにも思われるのだが、同時に、こんな話でよいのだろうかとも思える。どうもこのあたりが大切であるようだ。そこで考える。
 以前、その人たちのものをすこし読んで、言いたいことはだいたいわかったと思ったし、すくなくとも私は読んで楽しめなかった。だから以後、読まなかった。しかし、いつのまにかその人たちのような筋になってしまう話をどう考えるかという問題がある。それを考えるための材料として読まねばならないことになる。文学者や哲学者はどうか知らないけれども、社会(科)学者はそのように、つまりいやいやながら、本を読まなければならない。そんなことが多い。

■2 α:意識・理性…
 この人たちは自らの主張の正しさを言おうとする。ここまでのところでは、実際には人々も死を認めているし、死なせることを行なっていると(それをすなおに延長すれば、安楽死として認められないとされることも認めるべきだと)言われたのだが、たんに皆が認めている(認めるはず)だからというより、自説の根拠を積極的に言った方がよいだろう。その人たちは、自分たちが批判する相手側が言うことが一貫していないこと、矛盾があることを指摘し、そのことを批判しているのだから、より整合的な理由・基準を提出すべきだということにもなる。これは(1)SLP(SLP=the sanctity-of-life principle=生命の神聖性原理)の主張が成立しないことを、あなたもその主張を実際にはしていないではないかとたんに言うだけでなく、論理として示すということでもある。こうして、相手の主張を逆手にとって、自らの論の正当性を言うだけでなく、もう一つ、自らの主張をより積極的に示すことが要請される。すこし長く引用する。

 人の生命は神聖である、あるいは(無限に)価値があるが故に、それを奪うことは悪であるという答えは、一見もっともらしいが、同語反復に近いので納得のいくものではないだろう。その答えは、単に、生命を奪うことによって失われるものに価値があると断言しているのに過ぎない。人の生命を奪うことがなぜ悪であるかに関するいっそうもっともな答えは、こうであろう。すなわち、人の生命は非常に特別な種類の生命であるが故に、それを奪うことは悪である。このように、生命を奪うことが悪であるのは、《人》の生命には絶対的な価値があるということが事実だとして、その事実のせいである。
 しかしまた、この答えは、人の生命に特別な意義を与えるのは何かと問うことができるが故に、納得のいくものではない。ここで、人の生命が神聖なのは、それが羽根のない二足動物の形態をとるからだとか、あるいは、それが《ホモ・サピエンス》に属すると認定できるからだとか答えても、十分ではないだろう。言い換えれば、人の生命を奪うことが悪いということが、「種差別主義(speciesism)」[…]――つまり、人の生命を、それが人のものであるという理由だけに基づいて、その他の有意味な点で違いがない人以外の生命とは異なった扱いをすることを、道徳的に正当化しうるとする見解――に基づくものであってはならない。
 あるいは、その答えは、人は理性的に目的を持つ道徳的存在者であり、希望、野心、選好、人生の目的、理想等を持つが故に、人の生命は神聖性を持つということになるかもしれない。[…]人の生命は、人の生命《であるが故に》、神聖性を持つと言っているわけではなく、むしろ、理性的であること、選好を満足させること、理想を抱くことなどが神聖性を持つと言っているということである。(Kuhse[1987=2006:19-20])

 これはクーゼの『生命の神聖性説批判』の最初の部分だが、第5章でより詳しくこのことが言われる。

 他の生物の生命に対してではなく、あるいは、他の生物の生命に対してと同じ程度にではなく、人の生命に対して価値を付与しているのは何《である》のか。二つの答えが考えられる。第一の答えは、人の生命が神聖であるのは、単にそれが《人》の生命であるから、つまりそれが《ホモ・サピエンス》種の成員の生命だからというものである。第二の答えは、人の生命に特別な価値があるのは、人が具体的な希望、野心、人生の目的、理想などを持ち自己意識を備え、理性的で自律的で、目的を持った道徳的存在者であるからだというものである。大まかに言えば、ヒトがジョゼフ・フレッチャーの言う意味で「人間的」だからというものである。(Kuhse[1987=2006:275-276])★07

 つまりこの人たちは、人間を特別扱いしているのはなぜかという問いに、人は知的な能力において秀でているからだと答える。ならば、知的にすぐれた動物をも尊重するべきだということになる。動物と人間とを取り出して人間を特別視するのはなぜかと問うた上で、その基準αを取り出し、今度はそれを動物に当てはめ、それによって動物のある部分を救う。このように言われると、人を特別扱いしていることを是認する一方で、動物が殺されることに良心の呵責のようなものを感じていて、もっと優しくしなければならないと思っている人たちは、なるほど、と思うところがあるかもしれない。
 だが、すこし考えてみると、いったいこれが何を言っているのか、よくわからない。
 三つを考えることができる。(1)脱人間中心主義的な倫理を言いたい。(2)人が人を特権化している理由を説明したい。(3)αという特性を特別に大切なものであると言いたい。
 しかし、(1)については、それがとても人間中心主義的な主張であることを述べる。(2)については、その人たちは人を特権化していない――これはその人たちの本望でもあるのだが――と同時に、それでもなお人間中心主義的であると言える。そして、その主張の内実を突き詰めれば、(3)αという特性を特別に大切なものであると考えたいというものであり、それだけが残る。しかしその正当性は不明である。このことを次節で説明する。

■■本連載の事情の説明
 2008年に『良い死』☆01を、2009年に『唯の生』☆02を、筑摩書房から刊行してもらった。そしてその後者、『唯の生』(の新本)はしばらく前から入手できなくなっている。いずれも読んで楽しめるといった本ではないが、今でも、あるいはこれからも、あってよい本だと思い、編集者に相談させてもらい、2冊を合わせた文庫にしてもらうことになった。         

 ただ、そのまま1冊にすると、文庫1冊に収めるには多すぎる量になる。そして以前から、『唯の生』の第1章「人命の特別を言わず/言う」に書いたことは、その部分だけを取り出し、読んでもらいたいと思っていた。そこでこの度、この部分をもとに本を作ることを提案し、単行本として刊行してもらう運びになった。

 当初はもとの「人命の特別を言わず/言う」をほぼそのまま使う小さな本のつもりだったが、だんだんとそうもいかないように思えてきた。そして、すぐにできるような気がしていたが、そうもいかないことになってきた。結局、時間がかかったのはよいことだったと思う。

 この連載はその本のために行なう。いったん終わりまで原稿を書いてはある。それを点検し、なおしたり書き足したりしていく。短期間で終わるはずだ。                          (立岩真也)




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