連載「人命の特別を言わず*言う」,11回目の公開です!


※ 第3章が今回と次回まで。その後、わりあい長い第4章を予定では4回に分けて掲載していただく。そうすると1冊ができるはずだ。全体を読んでもらわないとなんだかわからないのも当然だ。それで、HPの私の頁に『人命の特別を言わず*言う』『人命の特別を言わず*言う 補註』を置いてある。全体としてどういうことを言いたいのか、どういう流れの話になっているのかおわかりになると思う。また、とくにこの「note」という媒体ではうまく註に行かないようだ。それを『捕註』のほうに掲載していく。合わせて読んでいただければと思う。

                                                 * * *

第3章 世界があり恐怖するから慎重になる

■■ Ⅳ:恐怖することを慮る/そのうえで慎重になる
■3 Ⅳ:恐怖することを慮る
 人が、能動的であることと受動的であること、その二つとも否定はされない。ただ、世界を受け取っている状態の方が、人が生きている期間の早くから始まり、遅くまで続く。終わりの方で多くの人はそのような生を送る。その間、人が生きられるようにあるのがよいとする。
 死んでも世界は残るだろう。そしてそのことは、死んでいく人々にとって慰めであることはあるだろう。しかし死の時、その人にとってのその世界は――別の、次の世界が信じられているとしても――終わる。もちろんそこでは、人が世界に働きかけることも終わるのだが、それは多く死の前に、多くはだんだんと、時に急に減っていく。その後も世界は残っている。しかし、その人がそこにいる世界は終わる。
 そしてそのことを人は思ってしまう。こうして人間は死を恐怖してしまう存在であってしまっている。これは困ったことだ。死において、少なくとも私の前にある世界が、世界そのものはきっと続くのだろうが、終わる。そのことを(予め)認識してしまう存在として人間はある。あってしまっている。それは願わしいことではない。そんなことを意識せずにすむならその方がよい。しかし、残念ながら、人はそのような存在であってしまっている。
 だから、たんに死ぬことと・殺されることと、死の予期を与え続けながら殺すこととは異なる。だから死刑はやはり特別な殺人である。中井久夫は次のように言う。

 不条理の最大は死である。私たちが死期を知りえないために死はひとごとになっている。[…]私たちの「希望」はしばしば不確定な将来の先送りである。だから希望を奪われている死刑囚だけにはこの基本的信頼がない。死刑という刑罰の核心はそれかもしれない。(中井[2004:401])(★05)

 死の予期が与える恐怖だけによっても死刑は否定されると私は考える。
 人間がとくに高等であるから人間を殺さないことにしようというわけではない。しかし人間が意識を有してしまっているという属性に関わって、人は死を恐怖する。であるなら、それを考慮せざるをえない。死の到来はどうにも仕方のないことではあるが、それを防げる間は防ごうということになる。それは人間を特別に扱おうということになる。とすると、結果としては、伝統的な倫理の言うことと結局はあまり変わらない。けれどもそれは、ただ同じものの正の面と負の面を言い合っているということではない。まず、私(たち)は、よいものであることを否定していない。まず最も基本的には、意識されている世界とそれが不在である世界との比較自体が成立しえない。そのうえで、生きていくうえでの道具として有益であることがあり、またたんに道具として便利という以上のよさがあることは認める。私(たち)がただ言ったのは、それだけが生存を積極的に指示する根拠にはならないということだった。他方で、たしかに負の側面と言ってよい死の意識は、その意識が存在した後に、それを奪うべきでない積極的な理由になる。
 そのうえで、死を観念するのは人間に限らないと言われるかもしれない。どのように確かめるのかわからないが、もし本当にそうなら、私はその生物の「保護」を支持することになる。

■4 そのうえで慎重になる
 こうして私は絶対的人命尊重主義者ではない。だから私は、人命絶対尊重の立場の人たちから批判されて当然である。
 しかし、実際のところ、とくに表に聞こえる声のない人たちはどうなのか、その現在がどうであるから、そして将来どうなるかの可能性についてはほとんど原理的にわからない。そして、感じたりすることがないとされていた人に感覚があることがわかってきたことが多く報告されるようになっている。さらに、「ある」ということがどんなことか、私たちはわかっていない(★06)。
 それでも仮に「ゼロ」であると言えるならどうか。はっきりしたことを言う人もいる。

 第一に、永続的に無意識の患者においては、生存において苦痛は存在しないはずだが、他方延命から得られる利益も存在しない。この場合には家族の負担や苦痛、社会にとってのコストを原理原則にしたがった形で考慮に入れることも許される。(Dresser & Robertson[1989]を紹介している長岡[2006:140-141])

 本人においてゼロの時には、ゼロの存在はなくしてよいという主張である。しかし、第一に、ゼロであるなら(本人において)負ではない。そして第二に、本当にゼロであるかは、たいへんわかり難くもある。さらに第三に、周囲の都合を考慮すべきでないとは言わないが、何人かにとってのマイナスを、ゼロに足してマイナスであると言えたとしても、なくした方がよいとはならない――説明は次の次の段落(★07)。ならば、その場合には、周囲は仕方なくでもつきあえばよい。こうなる。
 では負の場合にはどうか。苦痛は負であると単純に認めるとしよう。けれども、苦痛を感じている時、人は感じている。苦痛が負であることと、苦痛を伴う生が負であるとすることとは、もちろん異なる(★08)。
 そして、その判断の場には、必ず他の人間たちの都合が働く。つまり、私たちは役に立たない者を、役に立たないのはまだ許容できるとして、迷惑な者を、殺そうとする。あるいは使える部分を使おうとする。そしてその世界がどんなであるかわからないその人たちの多くは、(まだ、あるいはもう、ほとんど動かないのだから)積極的に加害的でないとしても、そういう人たちである。
 このことが多くの場合に想定されないのは不思議なことだ。「終末期」について家族にも決定に加わってもらうことが肯定される時、例えば『医療現場に臨む哲学II』(清水哲郎[2000])の主張において想定され共同決定に与るものとされる家族は、本人のことをよく思うよい家族なのだが、実際にはそうと決まってなどいないことを私は繰り返し述べてきた(★09)。だから、待っている時間を長めに、判断しない範囲を広めにとるのがよいということになる。だから、人の状態がどうであるか、考慮しないようにしよう、そのような制約を課すことにしようというのである。これが一つ。

■5 苦痛についての補足
 その人の世界があるなら、奪わないことにすると述べた。その人に恐怖があるなら、そのことを無視しないようにと述べた。恐れもまた苦痛の一部である。この種の倫理学では、苦痛は、死なせてよい理由とされる。功利主義は快苦を大切にする立場だ。私も快苦は大切だと思う。第1章でみたシンガーは功利主義者なのだから、本来は快苦から議論を立てたらよいと思うのだが、死なせてよい範囲の規定については、そうしなかった。快苦とすればもっと救うべき範囲は広くなる。この基準から、快苦を感じているだろう動物を殺さないことを言う立場があることは第2章(連載第4回)で見た。
 一つに、痛み・苦痛は防御、回避のための仕組みである。これもまた、生物学の知見などなくても誰もがわかること、既に知っていることだ。そこをどう間違えたのか、いま念頭に置いているのは線維筋痛症等なのだが、ただ常に痛いということが、人間以外にもそうしたことが起こることがあるのか私は知らないが、起こってしまうのがやっかいないところだ。通常は苦痛は一時的なものだ。痛いから、痛いことを避けようとする。避けられることもあるし、そうはいかないこともある。そのようななかに生物界はまわっている。
 そして一つ、人は苦を予感したり意識したりできることによっても、辛さは相対的にも大きいものになってしまう。人はどうやら苦痛が続くことを知るし、実際続くことを感じ、まだ続くと思って辛くなる。できないことは(かなりの部分)代わってもらえるが、痛みは身体にへばりついて、代わってもらうことができない。社会が変わればよいのだという「社会モデル」の主張は、ここでは基本的には通用しない。だからまず、痛みを物理的・生理的に減らすしかないということになる。
 私は、苦痛について書けること、そして書いてどうにかなることは少ないと思ってきたから、ほとんど書いてこなかった。ただ、苦痛のために死ぬというのが安楽死のもともとの定義だが、実際には痛みのために死ぬといったことは思うより少ないと述べてきた。むしろ多く人間は「できない」ために死のうとする。そして死ぬことが自分の身体ではできないから、他人に行なってもらう。それが安楽のたいがいの場合だ。そのことについて述べてきたことを取り下げる必要はないと考える(★10)。ただ他方で、死のうと思うほど痛いことがあることは事実である。できないために死のうという場合には、できないことによる不都合を、完全には除去できないとしても、周りの者たちは軽減はできるから、死ぬのは待ってくれと言うことはできるし、実際言うべきだと述べてきた。それに比べると、痛みの場合にそのようなことを言えることは少ない。とくに言葉を言うだけの私のような者にとっては少ない。
 しかし一つ、まずよいこととよくないことの合算など可能であるようには思われない。ただ死ぬほど痛いと思うだけだ。そこではよいこととよくないことが天秤にかかっていると考えることの方に無理がある。
 次に、苦痛だけがあるといった状態について、その人の言うことを信じよう。しかし、他人が語る場合には用心しよう。苦痛について語れることは少ないのに、それにしては多くのことが語られてきた。それは、精神的な苦痛、それも身体としての精神に直接にくる苦痛というよりは、悲しみとしての苦痛であって、するとそれに対応するのは癒しであり慰めであるということになる。そして、苦しみからなにか得るものがあるといったことが語られる。たしかにそんなことなら語れる。語りに対応する事実もある。だから語られるのは当然のことではある。実際にもそんなことがないわけではないだろう。なにか肯定的なことを見出し、言おうという。しかし、その善意はわからないではないが、まず痛みはただ痛いのであり、そのような意味づけは無用であると思う。なにか苦しいことを常によいことのように語れるわけではない。その語りは、とくによいこともなく、苦しい人たちにとっても愉快なことではない。その当たり前のことはわかった上で、ものを考えて言葉を使ってよいことはある(★11)。
 まず、痛みの重みを軽くしてしまう事情を考えることはできる。
 一つ、痛みは、痛くない周囲の人たちによっては、無視あるいは軽視されやすいものである。一つに、それは他人には直接に感じられない。傍にいれば痛そうだとかわかることはあるが、たいがいの他人はその場から離れることができ、実際離れてしまう。何も、少なくともたいしたことはできないのもわかっている。病院にでもいればその職員などはいる。ただ、その人たちは、その職業を続けていくためにも、それはその人にとって有効な処世術ということになるが、あまり深刻にとりあわない人でもある(★12)。
 そして一つに、その多くは、たぶん特定の容易な単一の要因によるものではなく、その現われも多様であり、原因や機序は、ときに、むしろ多くの場合、はっきりしない。身体の特定の箇所に特定の要因を見込んでそれを除去しようとする近代・現代医学は、その対象にするのを面倒だと思い、放置することが多い。
 こうした機制があることはわかる。そこから直接に手立てが出てくるわけではない。しかし、以上の事情をわかったうえで、しかし大きな苦しみを与えていることは事実なのだから、できることをしようというのにつきる。周囲の者たちができることは少ないが、痛くて仕事ができないというのであれば、仕事ができず生活費が足りないので必要だとなれば、その「確たる証拠」がなくても、仕事をしないこと、財の分配を認めるといったことはできる(★13)。
 こうして人間は、たしかに知恵を絞って特別なこと――それもまた自然の営みであるとも言えるのだが――をしようとしている。そこでそういう人為的なことはやめて自然に委ねる、というのが一つになされる話だ。ただ人間はこの道を選んでしまった。種々の人為をみなやめて自然の方に、ということであれば少なくとも一貫はしているのだが、実際にそのことを言い実際に行なう人たちはほぼいない。そしてそれを自ら貫く人を止めないとしても、社会としてその道を行くことはすべきでない。

■註                               ★05 このことは死刑を執行する人に対しても、通常、苦を与えることになる。では快を得るような人――そんな人も実在するだろう――に委ねればよいか。そうとも思えない。死刑執行人の歴史について『死刑執行人の日本史』(櫻井悟史[2011])。
★06 『自己決定権は幻想である』(小松美彦[2004b])、『脳のエシックス――脳神経倫理学入門』(美馬達哉[2010:118ff.])等。
★07 『私的所有論 第2版』に加えた「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」の註14より。
 「功利の計算は多くの場合に有益であり大切である。しかしいつもではない。例えば人々の幸福の平均値を上げることが目的とされるなら、値の低い人を除外したほうがよいということにもなるだろう。
 人間は、相手が「人間」であっても、正当化された罰としてでなくとも、正当化された争いにおいてでなくとも、殺してきた。それは良くないことであるとされてきた。【しかし第2章4節1で紹介したように生存籤が正当化されるなら――多くそこまで徹底していないから、死の定義を変更するなどして利用しているのだが――殺人もまたよいということになる。以上述べてきた私たちの立場からは、こうした計算、計算にもとづいた行いは基本的に正当化されない。「集計」という行ないが間違えていることがある。
 もっとも、「救命ボート問題」として知られているような状況においてその計算がやむなく必要である場合があることは認める。しかし、そんな状況は一般的なことではないから、一般的・代表的なことをまず語るべきでないし、さらにそうした状況を減らすことができるし、まずそのことをするべきである。(そのようであってならないという感覚もまた功利の計算に算入されることになるかもしれず、されるべきであるという主張は、功利主義にとっても受け入れねばならない主張であるように思われる。そして、それは新古典派の経済学的に対して常套的に言われることでもある。そして指摘された側は正しい計算をするためには、その指摘を受け入れることになるだろう。しかし、問題はここで起こる。そこでなされる計算とは何かである。例えば今述べた「感覚」は計算のリセットを求める。それをどう計算するのか。」(立岩[1997→2013:808-809])
★08 『私的所有論第9章4節2が「死/苦痛」。以下はその一部。
 その存在に予想される苦痛によって存在を現わすことをしないという「行いが何か空虚であるとすれば、それは、長く、苦痛の少ない生の方がよい生であろうと思う私の感覚によって、何事かを決定した、変えたということである。それは私の都合というわけではない。しかしそれでも私がそのように思うのであり、私が決定している。多分、それは「よいこと」ではない。というのも、この決定があればなかった生が一つあることになって、そしてその生はあった瞬間から、それが短いものであったとしても、独自の生として現れ、しばらく持続し、やがて終わるのだから。苦痛を想像してそれを選ばなかったのは私であり、その私は、苦痛がある時には苦痛とともに生きる存在があるのだという精神の強度をもつことができなかったのだ。当の存在にあくまで即そうとする時、これは正当化されない行いである。」(立岩[1997→2013:673-674])。
★09 清水[2000]の書評より。「仲良くできる人たちの現場もあるが、それだけではない。だから「よりよいあり方」を示せばよい、か。正解だとは思う。だが、様々な力関係があり、それに対して(喧嘩にならないための、喧嘩をするための)「現場に臨む」「倫理」もあるのではないかと思う人もいるだろう。」(立岩[2010]
 『唯の生』に収録した(『良い死/唯の生』に再録される)「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」(立岩[20041101])は、清水の著作の別の論点を検討・批判したもの。
★10 2006年に『通販生活』に掲載された短文を「急ぐ人のために――最も短い版」と改題して『良い死』に収録した。なおここでは安楽死と尊厳死とはそう大きく異なるものと捉えられていない。
 「尊厳死を望む理由には、まず、病による身体的な苦痛があるでしょう。たしかにこれは大きな問題です。でも、ていねいな対応が大前提です。日本の医療はそれが下手ですが、それをなんとかすれば、かなり少なくできます。患者の苦痛を緩和する努力を十分にせずに尊厳死を語るのは、順序が逆だと思います。苦痛は多くの場合にかなり少なくすることができます。
 他方、意識がなくなっていれば、その状態は、本人にとって、よいこともないと言えるとしても、その状態が続いてわるいこともありません。
 すると、その当人自身にとって、早く死にたい理由はなくなってきます。
 それでもなお、治療を控えたり止めたりするのがよいと人が思うのは[…]」(立岩[2008:16-17])
★11 痛みや病や死について、例えば人間存在について反省させ意味を考えさせるといった情緒的なことが語られることがあってきた。『病いの哲学』(小泉[2006])の著者はそんな話の収め方に反感を感じている。私たちは結局たいしたことはできない。できないから語るが、語る時にはむしろつまらなくしてしまう。つまらないのは仕方がないが、ときに有害である。それが悔しくまた腹立たしくて、なにかおもしろいことを言おう、そんな具合に考えて、『生殖の哲学』(小泉[2003])、『病いの哲学』、『生と病の哲学――生存のポリティカルエコノミー』(小泉[2012])など書いてきたのだろうと思う。多分、小泉は身体に存して動いている力を認めようとしている。病んでいようと、いろいろな器具・機械がつながれていようと、身体、身体の内部は動いている。それはその通りだ。そしてその気持ちの幾分かを私も共有している。ただそれを言って、「それで、それから?」、と思うということだ。だが、では代わりになにかある か、言えるかというと、そうは思いつかない。(それにしても、『病いの哲学』は他に書かれないことが書いてあるよい本で、『唯の生』の第7章は『病いの哲学』について。1「何か言われたことがあったか」、2「死に淫する哲学」、3「病人の肯定という試み」、4「病人の連帯」、5「身体の力を知ること」。『良い死/唯の生』に再録される。
 とりあえず、語ってしまうことや、語ってしまい方を記述することはできる。スーザン・ソンタグは病に、かつては結核に対して、そして癌に対して、そしてエイズについて意味が付与されてきたさまを記し、そしてそれを拒絶した――『隠喩としての病い』(Sontag[1978=1982])と『エイズとその隠喩』(Sontag[1989=1990])、この2冊は1冊になった([1989=1992])――ことで知られている。その姿勢はよいと思う。ちなみに、その人は、自らもがんに罹ったのだがそれはいったんはなおって、そしてまた罹って、「死生学」的には「往生際」のわるい死に方をした。その最期について、その人の息子であった人が書いた本『死の海を泳いで――スーザン・ソンタグ最期の日々』(Rieff[2008=2009])がある。さらに、その人に『他者の苦痛へのまなざし』(Sontag[2003=2003])がある。やはりそこでも苦痛についてではなく、苦痛を見ることや描くことが語られている。しかし、まず、私たちにできることは、病や苦しみや痛みや死を、例えば試練として、そこから何かを見出すための手段のように語ることが、実際そんなことはあるのだから、その全般を否定することはないけれども、多くの場合に思慮の足りないものであることを指摘することぐらいではないか。
 そして私は、もっとつまらなく退屈に考えることにした。私がしてきたのは。一つには何を悲惨であると私たちは言っているのかということだ。『良い死』の第2章は「自然な死、の代わりの自然の受領としての死」で、その註25(立岩[2008:227-230])で、胎児性の水俣病者とその母を撮った写真を巡ってあったごきごとについて記している。そこでは、「ここまで書けばわかるだろう」と、はっきりとは言わなかったが、つまりは、「何をもって私たちは悲惨と思い言うのか」ということだ。強い痛みは悲惨であるだろう。しかし、写真に写っているのはそういうものではない。その話を引きついで、おそろしく単純に短く記したのが『不如意の身体』(立岩[20181130])の第1章「五つある」、第3章「三つについて・ほんの幾つか」。
 そして痛い(が、原因等わからず、病・障害と認められない)病であり障害でもあるものについて、研究したり話をしたいという人たちが何人か周囲に集まってきている。それでまず、「私とからだと困りごと座談会」というZoomでの企画が2021年11月14日にあった。企画には何も関わらなかったが、私はその冒頭で挨拶のようなことをしている。その一部を引用しておく。
 「中身は何もないんですけれども「痛み・苦痛」というページがあるにはあって。その下には「名づけ認め分かり語る…」っていう、これは今日企画運営してくれている中井〔良平〕さんが今、増補してくれてますけど、そういうページがあったりします。何か役に立つかなっていうか、まずこういうものを時々見ていただいていいかなと思って紹介します。
 僕は社会学というのをやっていて、それは医療とか障害とか病気とかっていうことに関わってもいるわけだけれども、たとえば「痛み」とか「疲労」とかそういうことについて、社会学、社会科学が何か役に立つようなことを言ってこれたかというと、そんなことはないです。だめなんですね。だけど、だめだって居直っていてもしかたなくて、やれることはやらなきゃっていうことは思っています。そういうことは思ってる人はいるんだろうけれども、「研究は始まったばかりか、始まってもいない」っていう感じだと思うんですよね。それには理由があります。まず、「痛いことをいくらしゃべったって書いたって、痛いものはなくならない」っていうことがあって。どうしようもない、しょうがないって。
 ではある、んだけれども、だけど一つ、たとえばその「痛み」に対応する医学的・技術的な処置はそこそこあるわけです。でもなかなかやってくれないと。これは理由があるわけです。現代の医療、近代の医療っていうのは、「痛みを和らげる」っていうようなことにあんまり使命感を感じないっていうか、やりがいを感じてないっていうか、どうでもいいとまでは言いませんけどそんな感じで受け止めてしまっているから、そういう地味な、でも大切な仕事をなかなかしてくれないっていうことはあります。
 じゃあ、そこのところをどうしたらいいのかということは考えることができるわけだし。でもそもそもその体験っていうのはどういうものなのかということも知ることができる。
 もう一つ、痛みそのものはどうにもならなくても、たとえば、僕は社会学をやってるんだけれども、「障害学」っていうよくわかんないものもあって、それは、主には、「できない」っていうことに焦点を当てて、できないってことを社会がどうしているか、どうすべきかっていうことをやってきた。痛いことを他人がじかに代わることはできないけども、できないことなら、代わりに他人が補える、社会的に対応できる、ので社会科学の主題になりやすいということもあったと思います。この「できない」ってことと「痛い」ってことは違う。けれども、「痛いからできない」ということはありますよね。そしたら、痛いことそのものはちょっと難しいけど、「痛いからできない」っていうことにかんしては、本来は社会が対応できるはずです。してないけどね。
 ではなぜしてないのか、じゃあどうしたらいいのかっていうことを考えるっていう。「痛みの測定が難しいから」とか言われる。それは本当か。本当だとして、測定できないと対応できないか、そんなことないだろう、とか。等々。大切でおもしろいテーマだとも思っていて。もっとみんな考えようよっていうか、調べようよ。調べる前に、どういう経験・体験をしているのかっていうことを知りたいなということを思っています。
 それから、「わからない病気」「わからない障害」っていうのも確かにいっぱいあるわけですよね。そうした時にそれをどう考えるのかってことも、難しいけどとても大切なことです。[…]」
★12 このことに関わる書籍を紹介した短文として「摩耗と不惑についての本」(立岩[2004/07/25])。加筆して『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』(立岩[20170816])に収録した。
★13 『自閉症連続体の時代』(立岩[20090325])の終わりに補章「争いと償いについて」がある。そこで、ときに証明を求められてしまうのではあるが、なくてもさほど支障がないのであれば、求めないほうがよいことがあると述べた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?