第6回目の連載「人命の特別を言わず*言う」,公開です!

※ 以下に書いたことは半年ほど前に書いてあったことだが、昨日(2月24日)、戦争が始まった。以下は、そのことについてどんな意味ももちはしない。                                     

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第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する

3 食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする     ■1 予告
 本書で言う第一のこと(Ⅰ)は、それを次項で述べるのだが、人・ヒトはたいした理由でもない理由で殺しあってしまうので、それはよしにしようということだ。その集団は人・ヒトの集団ということになる。そこには、第1章にみたような人たちが肯定的に評価した知性や理性が関わっている。殺される側はともかく、殺す側はそのような性能を有している。そういうことをしそうな集団として人・ヒトを指定することに問題はない、意味があるということになる。
 第二のもの(Ⅱ)は、次節で述べることだが、人が人を産む、人から生まれたものが人だという契機だ。この時私たちは、遺伝子のことなど、そんなものを知らなかった長い時期も含め、意識しているわけではないが、その範囲は、事実上、ヒトに限定されることになる。そのように存在するものを否定できないという感覚はあり、その感覚を規範として採用してよい。否定できないという感覚が他の生物にも及ぶことがあることは否定しない。しかし、なかでも否定できない存在(Ⅱ)を、つまらない、人間的理由によって殺すのはやめよう(Ⅰ)ということ(Ⅰ+Ⅱ)になるから、ヒトに限定した殺さない(殺し合わない)は認められてよい。人・ヒトは、殺しにくい存在として、同時に、同類であり生殖・繁殖可能であるがゆえに、人間的な理由によって、ときに殺害の対象になる。まったく別の種類の生物と思われていることもないではないかもしれないが、十分に軽蔑し「もの扱い」しているとしても、しかし、大きくは同種・同類であることを知っており、むしろそのために、殺してしまう相手として人・ヒトがいる。だからこそ禁じることにしようということだ。人種主義の否定もまた、その内部での争い、差別を抑止しようという主張である。種主義も、私たちが支持する限りでのそれは、また同じ主張を行なう。
 そして第3章では、その存在における世界があること(Ⅲ)、死への恐怖(Ⅳ)があることが、その尊重を否定できない理由として加わることを述べる。ⅢはⅡに付随して現れるものでもあって、人が人について思うことではあるが、別の生物にもあるとは言えよう。そして幸いにも多くの生物にはなさそうな恐怖を、人は、ヒトとして有している才能によって抱いてしまうが、これもいくらかの生物にはあるのだろう。ただ、Ⅲ・Ⅳは、Ⅰ・Ⅱに付加され、人・ヒトを殺してしまう理由であるとともに、人を殺さないそのわけを補強するものであって、人・ヒトを優先することを認めながら、殺さないことが他の生物に及ばされることとは矛盾しない。

■2 Ⅰ:食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする
 生物全般について、摂取・摂食すること、殺生することの全般をやめることにしようとは言わないことを前節で述べた。とするとむしろ、「殺すな」のほうが正当化されにくい規範であるということになる。人が人を殺すことだってわるいこととは言えないのではないかと問われる。それに応える。
 一つ、間違った(と私が思う)理路にはまってしまうとよくないと思う。その道筋は以下のようなものだ。殺してならないとは言えない、とすると、人を殺してはいけないとも言えない、ということになり、人命の相対主義に行ってしまう、ように思える。そこで、それを避けようとすると、どうなるか。一つには、人のもつ特性を持ち出して、人はそうした特性をもつから特別扱いしてよいという話にすることだ。するとその特性をもたない、すくなくともたくさんはもたない人がいるからその人は除外される。他方で、そうした特性をもつ人・ヒト以外のものが入れられることになる。つまり、なんのことはない、本書が前の章で相手にした最初の話に戻ることになるのだ。このように考えるのはよくないと私は述べた。この道はとらないし、とる必要がない。このことが言いたいことだった。ではやはり(あらゆる)生命尊重主義に行くか。しかしそれは無理だといま述べた。
 すると行き止まりになるか。そうでもないだろうというのが私の考えだ。そのことをこれから述べる。いくつかのこと、複数のことを述べる。そのうちの一つだけで十分にはならない。そして、そのいくつかには今まで言われてきたことに近い部分もある。ただそのことは、論理的に矛盾しているということでも、言葉にできないということでもない。
 まず、生物が生物を殺生していることを認める、のであれば、人による人の殺生を認めることになるはずだ、とはじつは言えない。他の生物は自分が生きるために他の生物を摂取し殺生する。他の食物でも代替できると言える場合はあるとしても、このことは、そのように暮らしていることを否定するものではない。そのことを認めるしかないだろうと前節で述べたのだった。
 次に、このことについてこれから述べていくことになるのだが、人が人(だけ)を殺さないことを主張することはとても難しいと思われているようだ。しかしそうだろうか。言えるはずだと述べる。このように考えていく。一つの答があるというわけではない。そして、その一つひとつは誰でも思うようなことであり知っていることだと私は思うのだが、それが言われることはあまりない。不思議だと思いながら、並べていく。
 人は人を殺すが、それはほとんどの場合、生きるために食べるためではない。食べようと思ったり、食べてしまったりするのは、雪山に飛行機が落ちて何人かが助かったが人間の他に食べるものがなくなったといった場合に限られる(★17)。そんな時には、よいことだとは言えないだろうし、なにより本人たちがよいことだと思っていないだろうが、その肉を食べても仕方がないだろう。多くは死んだ人の肉を食うのだが、本当に殺して食べないと死んでしまうなら、殺しても、殺したこと、そして食べたことを責めることはできない。しかし、そうした状況は、皆無にすることはできなくても、極少にすることができる。
 人が人を殺すのは、ほとんどすべての場合、そのような水準のできごとではない。食物として入り用だからではない。別の理由、明らかに人間的な理由からである。
 生きるためではある場合があるとしても、それは生きるためにその相手を食べるためではない。カニバリズムは様々に言われてきたことでもあり、実際になされることもあってきたが、それも腹が減ったので食用にしよう、というのとはたいがい異なる(★18)。まず、殺すことは、怒りや怨恨から、そして土地や財を奪うに際してのことであり、そして攻撃から逃れるためのことだ。動物たちにおいても同じ種の中で争いが起こり、殺すことがなくはないようだ。ただ、たいがいは殺害に至るまでのことにはならない。それに対して、人は知性を有し、記憶と感情を持続させることができ、計画を立てることができる。なにより、人を使い、技術を使うことができる。
 たいがいは他に方法がないのではない。すくなくともそれを回避できる状態を実現することはできる。しかし、自分たちのために、護るために、より豊かになるために、戦って殺す。それは、殺して食べるのと同じほどよいことであるとは言えない。そのことについていろいろなことが言われうるし、実際言われてきたし、その多くは当たっている。殺害は殺害を拡大させてきた。恐怖や憎しみ、のようなものによって殺すことは人間に限らないかもしれない。しかし、正しいことのために殺すことをするのは、人間に限られるようだ。それで、もっと殺すことが多くなる。
 そして人間は殺害のための種々の手段をもち、大規模な殺害をすることができ、実際、殺害は大規模になされてきた。それは前世紀からさらに顕著なことになっている。これは明らかに人がもってしまった才能によるものだ。
 個別の行ないでなく、自らの身体を使った行ないとしてではなく、他人(たち)に指図して、指図された人(たち)が行なう。あるいは機械が行なう。それは他の生物や無機物や地球全体にも向かいうるし、実際向かっているのだが、多く人間に向けられた。直接性といったものが常によいなどということはない。ただ、人は人に面してしまうと、あるいはその人の顔を見てしまうと、ためらってしまうことはある(★19)。そのような条件・制約のもとでそれでも時に行なっているのだが、その抑制が効かなくなる。そのことを命じる人は実際に殺すのではないから、その負荷は少ない。他方、実際に行なう人は命じられて行なうのだから、やはりいくらか負荷が少なくなる。結果、一人が一人で一生に殺せる数よりもずっと多い人たちが殺された(★20)。人は、行なおうと思えば、大規模に行なうことができるし、実際行なってきた。そこで容易さと規模が拡大した。
 モノのように、という言われ方がなされる。たしかにとくに戦争などの死の前後の扱いにはそんなところがある。ただ、人が人であることが顧慮されないから殺されるのではない。多く、そのことを真剣に受け止めるとやりにくくはなるから、そのようなことを考えたりはしないが、しかし、人は死を避けようとするから、その恐怖を利用して、統制する。応報や防衛のために実際に殺すこともある。後で恐怖のことを言うが、功利主義者と同様、私たちも恐怖は計算したほうがよいとする。人は、その恐怖を利用して、得たいものを得ようとして、行なってきた。そして、嘘だとわかると効かないから、実際に恐怖される死を与える。
 それを認めてよいかということだ。そのことの全体についてここで論じるつもりはない。やむをえない、さらに正しいと思える場合もあるだろう。だが、同時に多くの場合、そこまでのことはせずにすむ。そのすべての場合にだめだと言えるかという問いはある。すぐに思いつくのは、人が殺される・死ぬのはよくないとした上でのことだが、ある人物をそのまま生きさせると多くの人が死んでしまう、それを回避する緊急のいたしかたないこととして殺す、暗殺するといった場合だ。私はそんな場合がありうると思う。「ほんとうに正しい」ことのために人を殺してはならないのかについては、よい場合がある、という答はあるだろう。ただ、そうして認めると、やむをえぬとされる場合・対象は広がっていくだろう。また、特定の人間を殺すことがどれほど効果的であるかということもある(★21)。だからといって、常にどうしても殺すのがだめだとはならないとしても、基本的にはだめ、とはやはり言えるだろう。ただ、そんな場合のほうがずっと少ない。かなりまじめに正当化されるとされてなされてきた殺害にしても、後で、どれだけの意味があったかと思われることは多い。
 そしてもっとやっかいなのは、正しいとされる場面だ。今どき、戦争がよいことであると言う人は少ない。基本的にはよくないことではある、しかしときにはやむえないという具合に言われる。ただ、さらに、この時代・社会において、よくないことであるとされないことがある。自分を殺すにせよ他人を殺すにせよ、正しいと言われたり、否定できないと思える場合だ。そこにはシンガーたちがあげる理由もある。本書と同じ時に文庫となった『良い死/唯の生』(立岩[2022])で考えた安楽死・尊厳死と呼ばれるものはそうした死だ(★22)。快や苦はたしかに大きな部分を占めるが、それでも身体の苦しいことによる死への傾動が、観念としての死の恐怖に勝つことは少ない。しかし、生きるに値するとされるものをもたなくなることへの恐怖が、死の恐怖に勝つことはある。さらに、死ぬことを立派に果たすことがよいことだと思い、死のうとする人たちがいる。そんな人たちには死ぬことはないと言う。それは、生きている人たちのためにもよくない。人間的なものを大きく持ち上げることによって、そこから外れる存在が否定される。
 死や殺害を生物のほうに引き寄せて正当化する人たちもいる。「淘汰」は生物界の摂理であるといった主張をする人たちがいる。さらに、それこそが「進化」のための行ないであるからと言う人たちもいる。これもまた、長いことある人々が主張してきたことだし、それを理由に実際に行なわれてきたことでもある。このことは『私的所有論』でいくらか書き、そして別の短い本で書こうと思うが、優生学とはそんな営みだった(★23)。それは、技術を用い、進化を早めようとした。また人間社会において弱者が救済されること等によって人間が退化してしまうことが恐れられ、それを防ごうとした。それで、最も野蛮な方法としては殺害が、そして生殖を制限することがなされた。
 それはまず、遺伝その他についての間違った知識による行ないだった。例えば日本人も含め黄色い皮膚の人たちがとくに「劣等」であるという事実・根拠はないのだが、劣等であることにされて、移民の制限など様々が行なわれた。人間以外の生物はそんなことを考えず、だから間違いをしないし、それを行なうための手段も有していない。では間違っていなかったらよかったのか。本当に優秀な人の集団というものが存在するなら、社会の発展のために、その集団に属する人の数(の割当)を増やすのがよいのか。「発展」は言葉の定義上よいことだが、そんなことをしてまでするべきことかと考えたらよい。自分自身については勝手にすればと放っておくとしても、この行ないは他の存在のあり方を決めるという行ないであるから、それは認めないとする。

■註                               ★17 一九七二年、アンデス山脈の雪山に飛行機が落ちて、生き残ったが食物が無くなった人たちが、死んだ人の肉を食べた話はよく知られている。その生存者に取材して書かれた本として、『アンデスの聖餐――人肉で生き残った16人の若者』(Blair[1973=1973→1978])。翻訳がハヤカワ・ノンフィクションとして刊行され、後に文庫になった。そして『生存者――アンデス山中の70日』(Read[1974=1974])。訳書の表紙には八七頁にある以下の文章の引用がある。「「これは肉なんだ」と、彼はいった。「ただそれだけのものなんだ。彼らの魂は肉体をはなれて、いまは神とともに天国にいる。あとに残されたものは単なる死骸で、われわれが家で食べている牛の肉と同じものだ。もう人間じゃないんだ。」
★18 カニバリズムをとりあげた本はいろいろとあるようだ。中野美代子の『迷宮としての人間』(中野[1972])は二度文庫化されていて、今はちくま学芸文庫で『カニバリズム論』となっている。この種の主題を私たちが好むことが示されている。
 人類学者がアステカ族の人身供犠について書いた章を含む本に『ヒトはなぜヒトを食べたか――生態人類学から見た文化の起源』(Harris, Marvin[1977=1990→1997])。人口増を抑止するためにという筋になっている。親族の遺体を食べて愛情と敬意を示すニューギニア山岳地域の慣習等にふれた随筆「われらみな食人種」を書名とした『われらみな食人種(カニバル)――レヴィ=ストロース随想集』(Levi-Strauss, Claude[2013=2019])。
★19 「顔」などと言うと、『存在の彼方へ』(Levinas[1974=1990→1999])といった著作を思い出す人もいるかもしれない。ただここで言っているのはそれよりずっと普通の顔・身体のことだ。レヴィナス、というよりレヴィナスへの言及について、『良い死』に短い言及がある。
 「生き死ににかかわる臓器の所属について、現実には、もとの帰属主が優先されているのは確かだ。だから、そこには「公共財」という規定とも、生命の尊重という原理とも別の論理が入っているはずである。それが何であるのかがこの本の中では示されていないということである。この本で(も)引かれているのは、ジョン・ハリスの論文(Harris[1980=1988])に出てくる「サバイバル・ロッタリー(以下、生存籤)」という話である。一人のうまく機能している臓器二つを取り出して、二人のうまくいってない人に持っていけば二人生きられてよいではないか、そして公平を期すためにその一人は籤で決めよう。そんな話である。これがいけないと言えるか。そう簡単ではなく、ハリスもその幾つかの反論を退けている。小泉の本で紹介されているように、また私も紹介したように、結局ハリスも籤を否定するのだが、その理由はたいした理由ではないので、あまり考えなくてよい。二人と一人の比較という功利主義が気になるだろうか。ならば、一人と一人で考えてもよい。
 こんな難題がここには現われている。しかしそのことを言う人は少ない。小泉によればその少ない人たちの中に、レヴィナスがいるという。その人がこの本ではおもにとりあげられている。その人は、ハリスのような種類の学者とはずいぶんと異なったところからものを考え書いた人なのだろう。なにかわがこととしてこの事態を感受してしまっているようなのだ。『存在の彼方へ』(Levinas[1974=1999])が取り上げられる。たとえば、
「責任の存在内への参入に関しては、私たちはまったく選択権を有していない。このように選択の余地を与えないこと、それを暴力とみなすことができるのは、不当な、あるいはまた性急で不躾な反省のみである。なぜなら、ここに言う選択の余地なしは自由、非自由の対連関に先だっているからだ。」(Levinas[1974=1999:270-271]、『病いの哲学』では[127-128])
 このように問題を真に受けることを、『病いの哲学』の著者は真に受けてよいこと、真に受けるべきことと見ているだろう。そしてここからそのまま進めば、責任を負った者はそれを果たさねばならない、となる。もちろん、具体的にその義務がどのような義務としてあるのか、それは法的な義務なのか等の問題はある。それにしても、レヴィナスが言っている(らしい)のは、そうした義務を人は負うことになったのだということだ。その人は、そのことを身に迫って感じている感じがする。
 そう思えるかと私が問われるなら、そんなことはない。新たな事態の出現に震撼させられたりはしない。私に限らず、少なからぬ人は、たしかに「他者」の「顔」がそこにあったら、顔が向けられたりしたら、他の物がそこにあるのに比べて、何か違って感じるものはあるだろうと思いはするものの、しかし、人に呼びかけられたりすると応答せざるをえない、とは必ずしも思わなかったりするのではないか。そんなことを思うと、この人は不思議な人であるようにも思える。
 ただ、そんな問いはおかしな問いだとは思えない。心情として深刻に受け止めたりはできないとしても、とるにたらない問題だとして除去してしまうのはよくないと思える。そんなところからどう考えるか、と私の場合にはなる。『病いの哲学』の著者はもっと共感しているように思える。しかし、その論を追い、そしてさきにすこし紹介したハリスの生存籤の話をはさんで、そして結局、命のやりとりは否定する。生存籤はやめておこうと言うのだ。しかしその理由は示されていない。
 第二に、生命そのもの以外はどんなことになっているのか。生命(ゆえに生命に関わる臓器)以外はすべて公共財だと言うのだが、しかし言われていることは極度に極端、というわけでもない。移動が求められるのは、目の二つのうちの一つであるし、腎臓の二つのうちの一つである。それにしてもなかなかのことではあると思われる。この主張を受け入れるか、どうするか。そのままに受け入れないとしたら、どのようにそのことを言うか。
 同時に、以上のような主張をする人も問われることがあるだろう。一度に二つではなく、二つのうちの一つを分けることはその議論の内部で正当化されるだろうからそれはよしとしよう。では、一つしかない、しかし生命には直接に関わらないような器官についてはどうか。例えば、技術的な問題はここではさておくとして、口、生殖器。それらはどのように扱われるのか。それは明らかではない。生命(に直接関わるもの)でないものは分けるべきであるとなれば、この分割しようのないものをどう分けるのか。分けようがないから分けることはできないとして、その論理からは移動が積極的に否定されることはないはずである。その人のもとに留め置かれることが積極的に肯定されることはないはずである。それでよかったのだろうか。
 こうした問いがある。このような問いがあることをこの本は知らせている。」(立岩[2008:246-247])
★20 みながよく知っていることだから、わざわざ文献などあげる必要もないのだが、多くの人は『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(Arendt[1965=1969])などを想起するだろう。
★21 楽しめるとすると、その話の噛み合わないところであるように思う永井均と小泉義之の対談の本『なぜ人を殺してはいけないのか?』(永井・小泉[1998])に付された小泉の文章に次のように書かれている。
 「かつての私は殺人は良い場合があると思っていた。国家統治機構の一部である人や、君主の血統をリレーする人物や、資本輸出に加担する人物を、世間から消去することは良いことだと思っていた。しかも私は、殺人と死体化を区別していなかったので、死体化は殺人のためには避けられない必要悪であると思っていた。現在でも私は、特定の人物が特定の世間的な舞台から退場して消え去るほうが良いと思うことはある。しかし舞台が残っているかぎりは、いくら人物を消去しても必ずや別の人物が登場すると思い知らされてきた。切りがないのである。切りがないはずなのに、恣意的に何人かを選ぶのは日和見である。だから殺人のためのより良い方法は、舞台を破壊することだと考えるようになった。
 同じことは、私的な殺人についても成り立つと思う。殺したいほど憎い人物がいるなら、その人物を消去したところで、必ずや別の殺したいほど憎い人物が登場してくる。憎む精神と憎い人物を絶えず登場させるような舞台が残っているからである。舞台を破壊するか、舞台から降りてしまうほうが簡単だと思う。実際、近年のサイコな舞台は演じるのが簡単であるだけ、そこから降りるのも簡単だ。心的異常者の役ほど演じやすいものはないし、演技賞をとりやすいものはない。心的異常者とは、そもそもの初めから、舞台で演じられる人物にすぎないし、現代版悪魔学であるプロファイリングで表象される人物にすぎないからである。だからこそ、簡単に流行る。だからこそ、簡単に降りられる。
 同じことは、殺し合いの舞台についても成り立つ。」(小泉[1998:125-126])
★22 『良い死』より。
 「生の否定の方に向かう事態の基本にあると考えるものについては、この本の前に、もう幾度も同じことを繰り返し述べている。死への決定をもたらすものは、一つはこの社会のもとで生きることの困難であり、一つは自分の価値の低下である。そしてこの二つともが、私たちの社会の所有・主体のあり方に関わっている。それはごく単純なことである。自分で動き働ける範囲で得ることができるという所有の規則のもとでは、動けない人は暮らしていけない。まったく何もしないわけではないが、できることには限りがある、資源は有限だなどと言われる――このことについては次の章で考える。また、人は暮らすために生産するのだが、だから生産は手段であるのだが、その手段の価値が目的を上回るという倒錯が起こっている。自らを統御してよく動かせることが人の存在価値を示すという価値のもとで、それがうまくいかない人が自らの価値を否定する。これらのもとで人は生き難く、死を選ぶことがある。それはよいことか。よくない。だからそれを変えればよい。ひっくり返っているものをもとに戻せばよい。そのことを述べてきた。」(立岩[2008:160])
★23 本書(のための連載)の前に、この主題について本を出してもらうことを考えていた。とりあえず、そのためのこちらのサイト上の頁を読んでいただくことができる→『優生思想を解(ほど)く』(仮題・出版未定)

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