連載「人命の特別を言わず*言う」,第12回「「現代思想」は使えるか」を公開します!

 ※ ようやく第4章に入る。これが最後の章になる。それを予定では4回に分けて掲載していただく。
 以下は全体の前置きと同じ。全体を読んでもらわないとなんだかわからないのも当然だ。それで、私のページに『人命の特別を言わず*言う』『人命の特別を言わず*言う 補註』を置いてある。全体としてどういうことを言いたいのか、どういう流れの話になっているのかおわかりになると思う。また、とくにこの「note」という媒体ではうまく註に行かないようだ。それを『捕註』のほうに掲載していく。合わせて読んでいただければと思う。

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第4章 高めず、認める

■■1 「現代思想」は使えるか                   ■1 境界を揺るがそうという人々
 各国・各地域で哲学者他が振舞う流儀のようなものがあって、私たちは、かなり好き嫌いでどちらに付くのかを決めているように思う。
 「英米系」の哲学は、普通の意味で、論理的、あるいは平明である。ときにまったく瑣末とも感じられる論理の操作に付き合うのに疲労しうんざりすることはあるが、いちおう話は順序よく進むのではあり、だからこそ、結局は説明されない――なんでも「そのわけは?」と言い続けることはできるから、これには仕方のないところがある――その前提が見えやすいとか、論理の階段のこの段から次の段にはたして行けるのか不明だといったことを言うことは、比較的に容易である。そして、私の場合には、例えば第1章で検討したような論にどうもおかしなところがあるのではないかと思うものだから、さらにもう一つ加えれば、しかし同時に、その説に――あまり明るい気分で、ではないのだが――否定しがたいところもあり、それで、読書の快楽といったものからは遠いところでそれらを読んでみるというところはある。
 そういうものに対して、ずらすとか、はずす、といった思考の様式がある。境界があって範疇があるのだが、その手前を見ようというのである。なんだか割り切れている話は妙にすっきりしているようだが、おかしいのではと思うところがある人たちは、そういうもののほうがおもしろいように思うようだ。
 そしてそれは、なにか別のことを言いたいという思いのもとにある。つまり、ひどくわかりやすい言い方で言うと、さきの人たちがよいものそして新しいものとして示す別のもの――それが私にはたいして新しい別のものとは思えないのだが――とは別のものを肯定したいように見える。もうすこし具体的に言えば、一方の人たちが「まともな」人のあり方をよしとする(そこで、そのあり方に近いがゆえにある動物たちを救うべきだとし、ある人を救わなくてよいとする)のに対して、もっと「へんな人」(のあり方)を肯定しようと――しかしその苦難のゆえに、でないとして、苦難とともに――しているようだ。そして私は、それは、基本的に、よいことだと思う。また、構築されてきた「人間」そのものを吟味しようとする姿勢もよいと思う。
 そこで、すこし、そんな現代思想的あるいはポストモダンなものも読んでみようかということになる。それはよくわかる道筋ではある。ただ、さらに最近のものを読むと、動物愛護の方向において、ずいぶん違うはずだと思う人たちが、例えばシンガーとデリダが、並べられていたりする。いったいこれはどういうことなのだろうと思う。これは意外に、思想というものをどのように見立てるのかという大きな話なのかもしれない。
 まず、人間と動物との境界について、ジャック・デリダが何か言っているらしく、それも読まねばならないのだろうか、ということになる。その人との対談(あるいはデリダへのインタビュー)で、ルディネスコが次のように語り、問う。言及されているのは第1章(第1回)ですこし紹介したCavalieri & Singer eds.[1993=2001]

 ピーター・シンガーとパオラ・カヴァリエリが考え出した「ダーウィン的」計画[…]の骨子は、動物たちの権利を制定することで彼らを暴力から保護するのではなくて「人類ではない類人猿たち」に人間の権利を与えようというのです。その論法は私の目には常軌を逸したものと映るのですが、それが依拠している発想は、一方では、類人猿には人間と同じように言語習得を可能にする認知モデルが備わっているから、というものであり、また他方では、狂気や老化、あるいは人間から理性の使用を奪う器質性疾患などに侵された人間などよりも、よっぽど類人猿の方が「人間らしい」から、というものです。
 かくして、この計画の発起人たちは、人間と非人間とのあいだに疑わしい境界線を引き、精神障害者を人間界にはもはや所属しない生物種へと仕立て上げ、類人猿を、人間に統合されるけれども、たとえばネコ科の動物よりも優等な、あるいは哺乳類であろうとなかろうとそれ以外の動物たちよりも優等な、もうひとつ別の生物種へと仕立て上げるのです。その結果、このふたりの発起人は、どのような新しい治療的ないし実験的取り組みも、動物実験をまず行なわなければならないとする、ニュルンベルク綱領の第三条を非難するのです。あなたはずいぶん以前から動物性の問いに関心をもたれていますので、こうした問題についてご意見を伺えればと思うのですが。(Derrida & Roudinesco[2001=2003:91-92])

 それに対して、問われた人はいくつかのことを言っている。本書(本連載)のもとになっている(『良い死/唯の生』には収録しない)『唯の生』第1章の註では問いの部分だけを紹介した(立岩[2009:61-62])が、ここでは応答の部分を引用する。言っていることはあまりはっきりしないように思う。例えば以下。

 もっとも権威づけられた哲学や文化がこれこそ「人間の固有性」と信じた特徴のいかなるものも、厳密には、私たち人間が人間と呼ぶところのものの占有物などではないということが証明されうるでしょう[…]」(Derrida & Roudinesco[2001=2003:98])
 「私がしばしば引用するのを好むジェレミー・ベンサムのある言葉があります。それは大体次のように言っています。すなわち、「問題は彼らが語りうるかではなく、苦しみうるかである」。そうです。私たちはそのことを承知していますし、誰もそれを疑うことなどできません。動物は苦しむのであり、その苦しみを表明するのです。動物を実験室の実験に用いたり、さらにはサーカスでの調教に従わせたりするときに、動物が苦しんでいないなどと想像することはできません。ホルモン剤で飼育され、直接牛小屋から屠畜場へ送られる数えられないほど多くの子牛たちが通り過ぎる場面に出くわしたとき、子牛たちが苦しんでないとどうして想像できましょう? 動物の苦しみがどのようなものであるか私たちは知っており、感じ取っているのです。さらに言えば、産業による屠畜行為のせいで、以前よりはるかに多くの動物たちが苦しんでいるのです。(Derrida & Roudinesco[2001=2003:103])

 聞き手のルディネスコは明らかにシンガー的なものに反感をもっているのだが、デリダはそれにじかに同意を示しているわけではないということだ。そして、動物もまた苦しんでいるのは明らかだとデリダは言う。それはそのとおりだと思う。そしてベンサムなどもってくることにおいてなかなか気が利いているとは思う(★01)。しかしそれは問いに応えているのか。     

 他に、人間と人間でないものとの境界についての考察として知られているものとして『開かれ』(Agamben[2002=2004])がある(★02)。そしてその人にベンヤミンの影響があったことはよく知られている。ベンヤミンは次のように書く。

 人間というものは、人間のたんなる生命とけっして一致するものではないし、人間のなかのたんなる生命のみならず、人間の状態と特性をもった何か別のものとも、さらには、とりかえのきかない肉体をもった人格とさえも、一致するものではない。人間がじつにとうといものだとしても(あるいは、地上の生と死と死後の生をつらぬいて人間のなかに存在する生命が、といってもよいが)、それにしても人間の状態は、また人間の肉体的生命、他人によって傷つけられうる生命は、じつにけちなものである。こういう生命は、動物や植物の生命と、本質的にどのような違いがあるのか? それに、たとえ動植物がとうといとしても、たんなる生命ゆえにとうといとも、生命においてとうといとも、いえはしまい。生命ノトウトサというドグマの起原を探究することは、むだではなかろう。(Benjamin[1921=1994:62-63])

 そしてアガンベンの『開かれ』には例えば次のような文章がある。

 人間と動物のあいだの分割線がとりわけ人間の内部に移行するとすれば、新たな仕方で提起されなければならないのは、まさに人間――そして「ユマニスム」――という問題なのである。[…]われわれが学ばなければならないのは、これら二つの要素の分断の結果生じるものとして人間というものを考察することであり、接合の形而上的な神秘についてではなく、むしろ分離の実践的かつ政治的な神秘について探求するということなのである。もしつねに人間が絶え間のない分割と分断の場である――と同時に結果でもある――とするならば、人間とはいったい何なのか。(Agamben[2002=2004:30-31])

 これらは、くっきりと分けて、そのうえで話をしようという流れに対して、それがよくないのではないか、自明とされている境界を問い、ずらそうという流れにあるものだ。ただ、一つ一つの文章に足をとられるということもあるのだが、どうも基本的なところでわからないという感じがあって、それをどう言ったらよいのかと思う。私は、普通にしか、というか私たち、あるいは私が考えてきたようにしか、ものを考えられない。その人たちは、私(たち)がよいと思ったものと同じもの、あるいは似たものを見ているようであり、そして別様に言っているように思えるのだが、それらが私(たち)に何を加えてくれるのか、まだわからない。

■2 慣れ親しんでしまった図式
 本章のここまでを2009年に『唯の生』第1章に書いた。その後のことを私は何も知らなかったのだが、デリダは、動物と人間について、ずいぶん関心をもち、まじめに取り組んだそうで、関係する本もいくつか出ているようだ(★03)。だから、わからないと言ってばかりいないで、すこし考えた方がよいと思った。
 この人たちが話すこと、書くことは、いつものように難しい。ただ、この人の話を援用する人たちは、その難しい話を簡単な構図の話にする。そしてそれにも、たんに誤読とは言えないところがあるように思う。
 つまり、デリダであれば、人間=男が、動物を支配し、言葉を発して、自らを動物でない理性を有する男である人間として、この社会を構築したのだというのが基本的な構図だ。そこには、排除と支配、排除することにおいて成立するような支配があるとされる。周縁化と権力の生起・維持がつなげられる。「境界」を設定するその行ないを問うという営みはたんに知的な営みではないとされる。こうして単純化し通俗化してしまうと、おおむね50年とか60年とか、私たちに馴染みの図式だ。すると、結局、そういう思考法をどう考えるのかということにもなる。
 まず、そんな社会があって、その地域で、そんな具合に動物を扱ってきたというのは事実だとしよう。しかし、どこでもそうなるとは限らないし、実際限らなかったはずだ。すぐ後に見るように(連載第14回)、肉食を否定し周縁に置くような社会もあり、そこからさらに変化していくその過程もある。だとすると、まず一つ、動物やその殺生の位置づけには複数があるということだ。こういう指摘自体は、自文化中心主義から一番脱していそうな話がじつはそうではない(かもしれない)という話であり、いささか嫌味ではある。ただたんなる嫌味として無視すればよいというものではないはずだ。
 むろんデリダたちもそれはわかっていて、より慎重であって、他の著作においてもおおむねそうであるように、自分は西欧社会のことを言っていると言うのだろう。すると、その限りで瑕疵はないということにはなる。しかし、こうして「地域限定」を認めると、そこにあったことに対する批判の論理をよその地域・文化にもってこれるのかということになる。普通には、それは無理なはずだ。別のことを言わねばならない。これは論理的な要請だ。
 そのような理路を通ってなのかそうでないのか、苦痛なら、洋の東西を問わず、人間/非人間を問わず存在するから、ということになるのか、苦痛がもってこられる。デリダのこの主題についての議論を解説する本を書いているパトリック・ロレッドもこの話をもってくる(★04)。結局ここに話をもっていくのか、そして、それは結局、さきに引いた対談でデリダが言っていることではないかと思う。そして、しかし、苦痛における共通性については誰もがすぐに思うことだし、実際に様々な人たちも言っている。だから、難しいことを難しく書き続けたこの人からどうしても聞かねばならない話ではないと思う。そして苦痛をもってきた時に生ずる話は既にした。苦痛を与え合うことは、自然界において種々の生物・動物が毎日行なっていることだ。その中で、すくなくとも事実上、人間だけが殺生を控えるべきだとし、そしてそれをさらに、非西欧社会についても主張するのだとすると、それはなぜかと思うし、それはそのデリダという人自身の長らくの言論の趣旨に合っているのかどうかと考えると、そうではないのではないかと思う。

■3 そんなに効いているのか
 もう一つ、このような構図がどれだけ効いているかだ。この人たちの図式は、意外に古典的でいくらか観念的な図式なのかもしれない。つまり、たいへんに単純化すると、区切りをいれ、ある範疇を外側に除外することによって、あるいは縁の辺りに置くことによって、自らの支配が成立する、権力が作動するといった話だ。それは、もちろんいくらかは当たっているのだろう。種々の差別について言われてきたのはだいたいにおいてそうしたことだった。しかし、その作用力をどれほど強くとることができるだろうか(★05)。
 例えば、「ホモ・サケル」、「剥き出しの生」の人たちはこれまでたくさんいたし、そう簡単にいなくなることもないだろう。しかし、そういうことが生じてしまうことがこれまで多々あって、それへの対処に困るといったことも多々あって今もあるけれども、そのことが、ある政治・権力・支配を維持させるという話をどこまでまじめに受け取るべきか。
 そうした存在を放置したり無視したりするのに、「人間観」が関わっていることはあるだろうし、第1章に紹介した議論もそこに作用することはありうると思う。ただ、排除や周縁化の大きな部分は、その時々の利害や力の配置、その不在といったものによると考えた方が常識的であり、そして間違いではないはずだ。そしてそのことは、完全な解決はたいへんに困難であるとしても、そこそこにできることも多々あることを示すのでもある。そしてさらに、ここに動物の排除・殺生の話がどこまで効いているのかと冷静に考えると、そこに見込まれる効力は強すぎるのではないか。
 たしかに、この世には排除もあるし介入もある。それはおおいに、しかし冷静に語られたらよいと思う。それは、社会の成立であるとか存立であるとか大仰なことではなく、そこいらに、平凡に、遍在もし、偏在もしていることだ。
 「生権力」についても同じことが言える。その行使をもたらすものは、基本的には、生産への強迫であり、生産に関わる人間の質の向上や低下の防止である。それは本書が対象にしてきた社会・人間が駆動するものであってきた。そしてその生権力は、すこし歴史的なことを調べて書きながら思ってきたことだが、たいがいの場合には、まったく凡庸に作動してきたし、今もそうであることを述べてきた(★06)。駆動するそのもとにあるものは同じだが、あとは、種々の利害関係者が自らの権益を増やそうとしたり損失を防ごうとする。その利害はたいがいは複数ではあるが、個々はそこそこに単純なものである。
 権力があらかじめよからぬものであるなどと言っていないと言われるだろうし、それはその通りなのだが、それでも、それはときによくないことを生じさせる。そして、それがよくない理由も、難しい理由からではない。そして、あったらまずいものは減らしたらよいし、減らしても、社会は成立し持続するだろう。そのようにあるもの、増やすもの、減らすものを加減することができるだろう(★07)。
 だから、採られるべき道は、人間として認められないと排除して周辺化してきた特権的な人間が、反省して、その境界をずらして、動物にやさしくなったりすることではない。思考を上乗せして、人間たちが前向きに進んでいくことではない。であるのに、いくらか有名な人たちがいれば、誰が言うことであっても自らの主張を支持するものとして引っぱってこようということになっているように思える。それは残念なことでよくないことだ。

■註                               ★01 言及されているベンサムの言葉は「The question is not, Can they reason? nor, Can they talk? but, Can they suffer?」。(第2版(1823)第17章脚注にあるという。Bentham[1789=1967]ではこの章は訳されていない。(その本の出版前後のことについては土屋恵一郎[1983→2012:169ff.]。)
★02 アガンベンのこの書については、美馬達哉の『〈病〉のスペクタクル』(美馬[2007])、小松美彦の『生権力の歴史』(小松[2012])等でも言及されている。
 『〈病〉のスペクタクル』はまず、SARS、インフルエンザ、ES細胞、等々、話題になった出来事がどのように話題になったのか、よく整理されていて、有益で、それだけでお役立ちの本なのだが(その後、COVID-19が流行し、それについては『感染症社会――アフターコロナの生政治』(美馬[2020])、これらの出来事を筆者がどのように捉えようとしているのか、この世をどのように見ようとしているのか、著者の「気持ち」はむしろこの本の最後、アガンベンの著作に言及しつつ書かれている「アウシュヴィッツの「回教徒」」とも題される「あとがきにかえて」にある。この部分をさきに読んだ方がよい。この世の肝心なことはこの辺りにあるはずだと、私も思う。(ちなみにシンガーの祖父母4人のうち3人は強制収容所で殺されており、しばしばそのことは彼が紹介される際に言及されるのだが、ここでも問題は、あの悲惨をどのように捉えるかである。)
 「われわれはアガンベンを超えてさらに踏み出さねばならない。なぜなら、彼自身は、しばしばゾーエーの領域を、人間と動物の中間、あるいは動物に近い状態の人間として描いてしまっているために、この領域に内在している希望のモメントをとらえ損なっているからだ(『開かれ』平凡社)。そのペシミズムに抗して、われわれがアガンベンの議論を徹底化させることではっきりと主張したいのは、人間のゾーエーとは人間と動物の間に位置づけられるべきではなく、動物以下の存在として理解されなくてはならないという点である(少なくとも、本能的欲望のままに生きて自然=世界と予定調和的な関係を保つことのできる動物という意味では)。」(美馬[2007:255-256]、『開かれ』は Agamben[2002=2004])
 「一人の人間のゾーエーとしての〈生〉は、か弱く悲惨で、動植物以下でしかない。しかし、その弱さにもかかわらず人間のゾーエーの領域が存在するという事実そのものは次のことを証明している。すなわち、ゾーエーは決して孤独ではなく、ゾーエーをかけがえのない〈生〉として集合性において支える複数の人々の共生と協働と社会性がそこに実在するということを。
 何のことはない。世界には人間が多すぎるので、ゾーエーを孤立させて惨めな死のなかに廃棄しようとする現代の政治的=医学的権力の怪物的で熱に浮かされたような企ては、少なくとも長い目で見れば、空しいものに終わるのだ。重度の意識障害患者の傍らで、有るか無しかの身体的変化の中にも〈生〉の徴候と歓びを読みとろうとする人々である友人、介護者、家族たちが存在する限りは。」(美馬[2007:256-257])
 美馬と私は今は同じ職場の同僚ということになるが、その前にこの本を巡って対談をしたことがある(美馬・立岩[2007])。
 「僕は今大学院で大学院生たちと仕事をしているんだけども、ほんと言うと、この8章にある一つ一つのテーマについてもっと、美馬さんの本を読みながら、これの10倍ぐらい長いのを書いて、みんな一つ一つ博士論文書いてくれれば8つぐらい博士論文できるぞみたいなね。そんなことをまず一つ思いました。それってすごく当たり前の仕事のようなんだけれども、けっこうやってないんですよね。という意味で、まずここ10年とか、その間にどういうことが起こっちゃっているんだみたいなことを知るっていう、そういう意味があるんだろうなと思います。」
 美馬の安楽死についての文章として、「生かさないことの現象学――安楽死をめぐって」(美馬[2006])。同じ著者によるその後の著書として、『脳のエシックス――脳神経倫理学入門』(美馬[2010])、『リスク化される身体――現代医学と統治のテクノロジー』(美馬[2012])、『感染症社会――アフターコロナの生政治』(美馬[2020])。
★03 『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(Derrida[2006=2014])。デリダが亡くなったのは2004年。その論を威勢よく紹介する本として『ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理』(Llored[2013=2017])。
★04 「英語圏の文化やそこで発展している大学の知には二重の哲学伝統が疑う余地なく刻みこまれているのだが、この伝統によって、デリダの脱構築は動物の問いとの密接な関わりにおいて柔軟な仕方で熱心に受容された。〔二重の伝統とは、第一に〕ベンサムの功利主義であり、彼は動物の苦しみの問題をみずからの思考の中に書き込んだヨーロッパにおける最初の哲学者の一人である。そして、その現在の後継者としてピーター・シンガーがおり、…」(Llored[2013=2017:110-111])
★05 排斥して構築される権力、に対する抵抗であるところの脱構築、といった道筋のもとで、「無条件の歓待」(cf.Derrida[1997=1999])といったものは必然的に導出されるように思われる。すると、なにを無条件に歓待するのかという問いが現れる。すべて、と言いたいとしても、それは無理なことだ。
 それでも言わねば、と思うことはある。「生の無条件の肯定」を野崎泰伸が言う。その博士論文に野崎[2007]、著書に『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』(野崎[2011])、『「共倒れ」社会を超えて――生の無条件の肯定へ!』(野崎[2015])。関連して野崎[2005]。
★06 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(立岩[2015])、『病者障害者の戦後――生政治史点描』(立岩[2018])、等。
★07 「例外状態」とか「ホモ・サケル」の取り扱いについて、その方向にも幾つかあると思うが、私が本文に述べた方向のものの一つが稲葉振一郎の『「公共性」論』における捉え方。
 「やや乱暴に言えば「例外状態」の脅威はつねにあり、「ホモ・サケル」と呼びうる人々は潜在的にはもちろん、顕在的、実際にさえしばしば存在している。しかしその出現はつねに避けがたいものではなく、政策的対応や制度改革、社会変革、あるいは技術革新によって回避可能な場合もあるのです。」(稲葉振一郎[2008:280])

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