会社という迷宮 (著・石井光太郎さん)、これから何度も読み直すことになりそうな重厚感の塊みたいな本でした
NVIC 奥野一成さんがインタビュー記事で紹介されていた1冊です。
私はこの本を読んで、大げさではなく何度も泣きましたよ(笑)。
奥野さんを何度も涙させる本とは、一体、、、
実は、この本、以前からとても気になっていた一冊です。
『会社という迷宮』はその対極にあります。球種はストレートのみ。もちろん剛速球なのですが、スピードだけでなく異様に球が重い。読んでいるとまるで手が痛くなるような錯覚に陥る。ここまで重い球を投げ込んでくる経営書は本当に稀です。
「読み終わった本のほとんどを手放す」という楠木さんが処分できなかった本として記憶に留めていました。
でも、これまで手に取りませんでした。奥野さんのインタビュー記事を読んで「これは読んどけ!」と背中を押されたように感じたのです。
読み終えての最初の感想。
重い、確かにめちゃくちゃ重い。
率直にそう思いました。また読み直すべき本だとも感じました。
僕自身、会社の経営者ではありません。でも、自分の家族を「会社」と見立てれば”(共同)経営者”っぽい面はあります。
家族、家計をどのように築いていくか、を考え、実行する立場であるのは、確かですから。
バフェットさんの言葉にも確かあったような記憶があります。よい経営者だからよい投資ができる、よい投資家ならよい経営ができる。そんな言葉。
経営者は投資家と言い換えることができる面がたくさんある、この本を読んでいる途中に何度も感じたことでした。
この本からスゴみのある重さを感じた箇所を書き残しておきます。
「会社」と「ビッグバン」
「商売」や「会社」を自分の手で一から起こした人は、誰でも、その原始のビッグバンを知っている。現在では大宇宙のようになった「会社」が、ゼロから産声を上げこの世に誕生したときの、今とは異なるその原点の姿を、汗の臭いや涙の染みとともに記憶に刻んでいるに違いない。仲間を募り、夜を徹して製品やサービスづくりに知恵を絞り、仕入先や顧客先に頭を下げ、そして最初にその産物を顧客にお金を出して買っていただいたあのときに、「商売」も「会社」も始まった。
本のタイトルに「企業」ではなく「会社」という言葉を選ばれています。「会社」という言葉への著者・石井さんの強くて熱い、重い想いを感じ取ることができます。
そして、その「会社」が生まれることを「ビッグバン」と表現されています。僕も二十数年前になりますが「会社」の「ビッグバン」に立ち会ったことがあります。確かにあれは「ビッグバン」だったのかもしれないな、と当時を思い返しました。
actuality
acutuality という言葉も非常に強く印象に残りました。
主体として身を以て感じる「実質感」「手触り感」のようなもの
と表現されています。似た概念としてrealityも挙げられています。
actuality と reality とを分つのは「主観」の有無。realityは客観に拠る一方、actuality には「主観」「主体性」が必ずある。
対象に触れようとする意志がそれにはあります。
この記事でご紹介した、エディンバラのベイリー・ギフォードさんのコラムで示されていた言葉 ”Actual Investor"。
この言葉のベース、根底にも”acutality"があるのだ、記憶とこの本の読書からのインプットが即座にリンク、関連づけられました。
常識的感覚 common sense
改めて原点に立ち返れば、「会社」とは競争をするために生まれてきたものではない。せいぜい言うとしても、込められた夢や志を体現するために、競争しなければならなくなった、というだけの話なのである。その逆ではない。
投資家としてここ最近ぼんやりと考えていることをズバッと提示された感じでした。
何より「会社」とは、社会に対して何かこれまでにない新しい「価値」を創り出すことを企図して生まれたものであり、成立の由来からして社会的な存在であった。その意味で「会社」とは、広く関与する人々の「価値」の束なのである。
「会社とは」という問いへの答えとして、めちゃくちゃシビれました。
「会社ってこうだよ、こうじゃなきゃ」というのが、常識的感覚 common sense であるべき、そう強く思いました。
市場 「しじょう」ではない、「いちば」
「いちば」の起源は、お互いを発見し出会いにいく場所であったといえよう。本来の「いちば」がやっていることは、そうした複雑かつ精妙な出会いの創出であり、売り手と買い手の創造的結合なのである。
市場規模と書けば、誰しも”しじょうきぼ”と読むことでしょう。そこには、一つ一つの売り手、買い手との関係はなく、夥しい数の取引、数だけの蓄積が想起されます。
そうではなくて、一つ一つの出会い、ミクロを見つめることの大切さを再認識させられます。そこから「会社」は始まるのですから。
価値
その会社が、何を提供し、何をどう変え、世の中にどう貢献し、どういう顧客を創り出し、どういう会社になるか……そうありたい、そうあるべきだとの考えが「価値観」の核心である。その「価値観」を形にする活動、創り出す製品やサービスの魅力が、それに共感し同調するステークホルダー、すなわち顧客をはじめ、取引先、投資家や金融機関、そして従業員や社会を巻き込み、発展をしていくのが事業である。それを実現した結果こそが、その会社の本当の意味での「企業価値」となる。存在意義と言い換えてもよい。初めから数字に逃げ込むのは、その「価値観」がひ弱だからである。それは、経営者の確信のなさの表明にしかならない。
数字に逃げ込むな。大事なのは主観、それを忘れるな。
この箇所を読んで、これは自分の家族経営にも関わってくると強く感じました。
自分の息子に伝えるべき「価値観」はどうあるべきか、そんな問いを授けられました。
「社格」「記憶」
「この会社は、何を成そうとしている存在なのか」という自覚である。それが、社会的責任主体としての「社格」となる。過去から現在に至る一本の道筋として刻まれたその「記憶」は、現在をその経過点として、将来に向けた自律的意志をおのずから育む「記憶」である。その「記憶」を特定の個人のものとしてではなく、法人である「会社」自身のものとしてその核心に据えるという知恵こそ、日本の「会社」がその源流から、伝統的に編み出してきた術だったのである。
ろくすけさんのこの記事が即座に思い起こされました。
ちょうど、そのろくすけさんがこんなポストを。
先日、つばめ投資顧問の取材で某社の工場見学に行きました。
— ろくすけ (@6_suke) June 8, 2024
生産現場にまで浸透している会社としての美意識や、原材料から付加価値を積み重ねていく加工プロセス、従業員の方々の働きぶりなどを生で体感でき、大変貴重な経験となりました。
まさにネットでは得られない一次情報ですね!
"actuality" を生み、育てるのは、こうした経験、実体験なんですよね。
こうしたプロセスから、会社の創っている「価値」を実感し、その存在意義、将来への可能性への妄想力が高まっていくのだろう。そう思います。
M&A戦略
「戦略的M&A」という言葉が、その後二、三十年の歳月を経て、知らぬ間にその語順が逆転し、「M&A戦略」なる不可思議な概念を生み出していることには、改めて驚きを禁じ得ない。
僕たち投資家が株式や投資信託を買い付けるのも、一種のM&Aだと考えています。
「M&A戦略」という言葉には、損得勘定というか、数字になれば「買っとこ」というか、逆にいうと数字にならないものは「買う価値がない」という構えに思えるのです。
とりあえず数値さえ良ければ、よく見えれば、何を持つか、買うか、そんなことはどうでもいい、的な。
開発
「会社」とは、自ら信じる「価値」の実現に向けてリスクを取って事業に挑む存在なのだとすれば、「開発」こそは「会社」の本義であり、存在意義そのものであるともいえるだろう。
株式投資、投資家という観点でいくと、どんな「価値」を自分の中に取り込みたいのか、関係者に加わりたいのか、参画したいのか、それを考えることが”開発”だと感じました。
そこにこそ投資家の役割というか責任というか存在意義というか、醍醐味があるのではないか、と感じながら、この「開発」のパートを読み進めました。
人材
「会社」にできることは、「人材」を育てることではなく活かすことだけだといってもよい。
子育てにも通じるように思いました。息子たちはどこで輝けるのか、輝きたいのか、それを考えるのが家族の経営者たる親のとても大事な務めだと感じました。
「価値」軸だけは、他人に預けるな
行く先には責任を負わない。指示された目標地点により早く到達することをめざすだけである。そしてレースが終われば、何事もなかったかのように平然と、別種の乗り物に乗り換える。
経営者にとって、本当に恥ずべきことは、最新の事情に通じていないとか、やり方が古いとかということではなくて、社会に対して、もしくは社内外に対して、信念を以てさらけ出せる自身の「主観」、ステークホルダーを糾合することができる力強い「主観」を持ち合わせていないということなのである。
会社の経営者に限定されることではありませんね。本の終章を読みながら深く、しっかりと頷いていました。
「価値」軸、自分だけのものを持ってしっかりと「メンテナンス」せねば、とあらためて心に刻みました。
信義
冒頭、こう説かれています。
「信義」とは、企業活動の土壌である。
土壌がよければ豊かな実りも生まれるが、それが悪ければ殺伐としたものとなる。
自分の家族を「会社」と見立てれば”(共同)経営者”っぽい面はあります、と述べました。僕がどんな投資判断するか、どんな資産を持つのか、それは「企業活動」に近いものがあります。その土壌となるのが「信義」。
利己歴にではなく、社会的に考えるという約束が、「信義」なのである。「正しく考える」ということは、そういうことである。
「信義」とは、「会社」が社会的存在であることの証しである。
長い時間軸で考えると、どんな資産を持つことが、誰に託すのかが「社会的に善いか」、それを意識していくことが「信義」なのでしょう。
今の自分は「信義」を、いくらか多少は意識できているようにも思っていますが、この意識を保ち、磨くことが大事ですね。
Kindleのマーカーの箇所はまだまだたくさん
この本、Kindleで読みました。そのため、本のページを実際にめくる、重みを感じる、そんなactualityの無いまま読み進めました。actualityがあれば、さらに多くの付箋でいっぱいになっていたかもしれません。
たくさんの数のブックマークがあるだけに、また読み直すことでしょう。
読み応えたっぷり、重厚感あふれる、重厚感の塊みたいな一冊でした。
この本と出会うきっかけをくださった楠木さん、奥野さん、著者の石井さんに深く感謝です。ありがとうございます。
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