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敏感すぎると損するよねという話

こんにちは。
カレーにハマって毎食のように食べているのですが、今度はカツカレーにハマってしまった松木蓮です。
#トンカツは簡単に作れることがわかりました

(2756文字 / 約5分半で読めます)

今日はタイトルの通り、「敏感すぎると損するよね」ということについて書いていこうと思います。色んなことにセンサーを向けて、細部にまでこだわるのは一見すると良さそうですが、実は損しているんじゃないかっていう感じの結論です。


▼日に日に敏感になる僕たち

社会には色んな人がいて、敏感な人もいればそうでなく鈍感な人もいます。そのセンサーは両極端に機能するのではなくて、局所的にこだわりセンサーが作動するみたいな感じだと思ってます。

敏感も鈍感も、その程度は人それぞれですが、いずれにせよ僕たちは日々敏感に近づいているものだと思います。

少なくとも500年も前の日本人よりも何かにつけて反応してしまうのが現代人です。

じゃあなぜそうなったのか?ということを考える必要があるのですが、答えは「サイエンス」と「シェア」です。

一つ目のポイントであるサイエンス。これはいわゆる科学をさし、自然科学であろうが社会科学であろうと、知識や経験を体系化していく作業です。物理法則も科学ですし、生や性について考えることも科学であると思います。

そんなわけで、今って相対的に科学が成熟している時代です。近世ヨーロッパの科学の発展と宗教の矛盾から、一気に時代が変わり万物を科学的に考えるようになりました。

結果、全てとは言わないまでもありとあらゆることが説明できるようになりました。天気の仕組みも、物の動き、体の作用などなど。もちろん脳科学や人類の進化の歴史などまだまだ解明できてない部分も沢山あります。そういう意味で相対的なわけです。

対して、「シェア」という点からするとどうでしょうか。メディアといえばかつては新聞やラジオが主流で、後からテレビがやってきて、現在はネットという形で変遷を遂げています。

で、これも相対的な話になると思うのですが、今ってシェアが飛躍的に簡単になりました。スマホで逐一情報をチェックできる便利な時代です。そこには距離は介在せず、数千キロ離れた人ともキャッチアップができる異様にデジタルな時代なんです。
#半径0km圏内に世界が広がっている

かつては、制限の中でのシェアでしたが、今は際限なく共有でき、知識の価値が下がっているのが今なわけですね。


▼なぜ僕たちは敏感になるのか?

そんなわけで、「サイエンス」と「シェア」が加速していることを確認しましたが、じゃあどういう風に「敏感」と相関性があるのかという議論が必要です。

結論で言うと、「サイエンス」によりあらゆるものを説明できるようになり、それらを「シェア」できるようになったからです。もう少し踏み込むと、例えば、科学技術が発達する前って人権について考えることって少なかったはずです。だからこそ、奴隷(ある意味で今も存在しているのですが)が貿易商材として存在していたわけです。もちろん、考えていた人は沢山いたはずなのですが、当時はそれを拡散する術がなかった。

となると、地球のどこかには奴隷という存在を知らずに呑気に生活をしている人がいて、社会の下層で虐げられている人たちの恩恵を受けつつも、そんなことに目もくれずに豪華絢爛な暮らしを楽しんでいた上流階級の人々が時代を謳歌していました。

環境問題も全くのその典型だと思います。かつて(科学発達前)は汚染なんかそこまで問題視されていなかったはずです。が、それが地球環境に甚大な影響を与えている(ここは科学的に微妙なところなのかもしれませんが)と言うことをみんな知るようになる。

なので、今の時代にプラスチックストローを使っているカフェを見つけるとネットに書き込まれたりして、シェアされていきます。

つまるところ、知識というのは自身を「敏感」にする武器のようなもので、皮肉なことにその武器を身につければつけるほど、裸に近づき、敏感な体になってしまう。これはある種トレードオフなのかなと思います。

ジェンダーについても同じだと思うのですが、もちろん人間は等しく平等であるべきであるというのには賛成なわけですが、誰かが忌避ワードを言おうものなら一部層によってピラニアのように根絶やしにされてしまうという側面も持ち合わせています。これによって全体的に各人の発信が鈍化していきます。
#この言葉使っていいのかな
#何か言われるんじゃないかな
#みたいな

「知識」が増えることによってそれまで気にもしなかったことが目に見えて、色んな情報がより入りやすくなっているのです。いわば、知識とは視力のようなもので、僕たちのかつての知識量が視力0.01だとすれば、現在は視力2.0くらいに格段に上がっていて、一気に見える世界が広がりより鮮明になっているのです。
#200倍ってえげつないですね

あくまでもこれは良い悪いの議論ではなくて、知識にはそういう側面があるよねという話です。知らなくても良い知識でいうなら、スマホって便器並に不潔だと言われているのですが、これを知ってしまったら、なんとなく触りたくなくなるじゃないですか。知らなくても体には影響がなかったのならそこまで神経質になる必要のない知識だと思います。こういうことが色んなところに落ちているんですね。
#スマホは定期的に掃除した方が良い


▼情報の交通整理をすると良いかも

僕の例を挙げてみます。僕は現在デンマーク在住なのですが、これまでスウェーデン、ノルウェーと転々としてきて差別を受けた経験がないんですね。でも、これはおそらく主観的な問題で、僕が単に鈍感なだけでもしかしたら差別発言をされているのかもしれません。デンマーク語がわからないので仮に罵詈雑言を言われていたとしても僕的には「差別はない」になるんです。知り合いで差別を経験した人を知っているので北欧にもあることはわかっているのですが、、

という感じで、僕たちは全体の傾向として日進月歩、物事に敏感な生き物になっています。その進度を止めようとすると、時代(科学)の恩恵を受けないこと、そして周りからの疎外感をむしろ感じてしまったりするので、難しいところですが、ひとまず知識偏重主義は危険かも、といったところです。

ただ、けんすうさん曰く「知らないと嫌いは極めて近い距離にある」のでやっぱり難しいです。

解決策があるとすれば、自分に入ってくる情報に制限をかけると言ったところでしょうか。例えば、Twitterであれば、誰かが「いいね」をしたものは「〇〇さんがいいねしました」みたいな感じで、自分のタイムラインにも流れてしまいます。RTも同じです。

なので、その辺は設定かそもそも自分にとってメリットにならない拡散を(意図せず)する人はフォローを外すなどすると自分に入る情報の交通整理ができて良さそうです。

ということで、今日は「敏感すぎるとかえって損することになるかも」というテーマで書いてみました。

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