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【時間割の作り方から学ばせる】

世の中のコトやモノを有限か無限かに分けた時、「時間」という概念は有限にカウントされます。限られた生涯の中でどのように時間を使っていくかというのは、生きる上での考えるべきこととして上位にくる優先事項だと思います。

今は見えてなくとも、確実に未来には最期があるわけですから、時間の使い方を考えるということは人生の生き方を考えるということと同義で大切だと思います。

それでも僕たちはそんな時間の使い方を学ばずして、誰かが作った型にハマりながらスクスクと育ち、社会という荒波に飛び出していきます。それまで自分で舵をとるという訓練をしてこなかったもんですから、無条件に誰かの船に乗って波が落ち着くのを待つというのが常態化しています。

人を大きく二種類に分けるとするなら、「自分の船で舵を切る人」「誰かの船に乗ってそれを手伝う人」に分かれます。どちらを選ぶかに良し悪しはなくて、それ自体人生の選択なので好きな方を選ぶべきです。

ただ、最初から前者(自分の船で舵を切る人)になるという選択肢を持たずして(知らずして)社会に出るのは少し不条理だとも思えてきます。

つまるところ、”自ら”時間を操縦するということが自分で舵を切るということの根本にあるのならば、その訓練は早々にした方が良いです。


▼「自分だけの時間割を考える」という授業

そんなこんなで、僕がこれを学校教育に取り入れたらいいんじゃないかという授業について。原則として、学校教育には時間割というのが必ずあり、児童・生徒はそれに沿って学びます。皆が同じ時間を同じコトに割くというのが当たり前化しているので疑問にすらなりませんが、ここから考え直していった方が良さそうな気がしています。

時間割を作って一同に同じコトを学ぶ時のメリットの多くは教育者側にあって、学び手にとってはそこまで大きなメリットはありそうにありません。「教えやすい」というコトに焦点を当て過ぎてしまうと、教育の肝である「学びを育む」というダーツの的に刺さりません。

人は皆それぞれ別の趣味嗜好があって、学習到達度というのもそれぞれ違ってきます。算数が抜群にできる人がいても不思議ではないし、楽器を弾くことに長けている人がいて当たり前です。

それぞれに長所にあう形で学びを施していくことが必要で、そうするには時間割から自分で考えさせないと始まらないと思います。

僕たちは生まれながらにしてモチベーションの塊であって、これはヨチヨチ歩きのキッズたちがリスクを考えずにプラスチックを口に加えるところに見て取れます。関心の思う向くままに歩き回り1日を過ごす彼らに、教育というツールを施すと間も無くそのモチベーションは削ぎ落とされます。

受動的な学びにはもはや意味がなくて、自分から学びに行こうとする姿勢に価値があるとするなら、時間割なんてものは一定の年齢からは廃止すべきで、そこからは自分でデザインする力を養わせることに意味が見出せると思います。

ある程度の知の基盤を作った後は、それを軸にして自ら学んでいくスタイルが必要です。受動的な学びから能動的な学びに消化させる訓練をしないと、高度経済成長期に必要だったロボット型のテンプレ人間を今後も輩出し続けます。

自分の限りある青年期をどのように使うかはその当人に委ねるべきで、その時間の使い方そのものには他者が口出しをして良い領域ではないはずです。


▼学びたい時に適切なモノを

となると、教育者の役割は何なのか、少し空洞化しているようにも見えます。が、きちんとあって、それは児童・生徒の個々のサポートです。これまでの教育のシステムだと、皆が横並びになって学ばざるを得ないところが欠点です。これによって、算数ができない人ができる人に対して、「僕はあの人より馬鹿なんだ」と自己肯定感を消失します。

そんな人が、他のクラスメイトよりも長けている分野があるのであればそこに自己肯定感が生まれ、もっとそこを伸ばしたいと知のサイクルに拍車がかかります。

ネットがコモディティとなり、日本中どこにいても知のアクセスができるとんでもない時代にあるからこそ、教育者の存在意義は「知を与える」ではなく「知を育む」というところにあります。上手く時間割をデザインできない児童・生徒に対してどうすればより良くなるのかということを近い距離感で寄り添って考えることが一番の意味です。

例えば、算数ができる子はどんどんその興味の向くままにある程度ほったらかしにして良くて、絵を描くことに挑戦したい子には上手くできるような環境の補助輪となってあげることです。

子供はその国の未来であることは間違い無いからこそ、彼らに寄り添うべきです。寄り添うとは必ずしも密着して教育するということではなく、自己肯定感を高められる距離感で接し、場合によっては干渉し過ぎないことが重要だと思います。


▼もし明日自由に時間が使えるなら?

今年の世界中な騒動によって、大人達は混乱に混乱しました。もちろん未曾有の時代なので、混乱して当たり前です。しかしながら、時間の使い方という点に関してその訓練をしてこなかった現代の大人達は、突然明日暇になって、「何をしようか」ということを考え出しました。

ここでのポイントは「どのように時間を使うのか」の前に「何に時間を使うか」という下位の事象で考えてしまっているということです。

ここ半年くらいの世界的な大混乱が明らかにしたことは、僕たち(少なくとも日本人)にとって必要なのは「時間」ではなく「デザイン力」です。どのような時間割にするかという構成力に乏しいからこそ、他力本願にならざるを得ず、ネットを見れば罵詈雑言で埋め尽くされます。

今の大人達が苦しんでいるこうした問題を、未来の大人達が同じ道を通らなくても良いように解決していくことが、発展ということであり、成長ということであると思います。

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僕の地元中学校に大きく「自ら育つ」という校訓が掲げられている中学があります。母校ではありませんが、「自ら育つ」と「じらそだつ」と読んでしまうくらいに幼かった頃から、この標語を目にしていました。

校訓を文字面だけで終わらせてしまっては、それはマニフェストを守らないその辺の政治屋と同じです。「自ら学ぶ」というのはその中学校だけでなく、社会に出てから全く学ばなくなると言われている日本人全てにとっての国訓であり、ここに重きを置くことできっと近い将来日本にもまた光が差し込むと思うのです。

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