絵画の鑑賞(複製について・02)
「複製としての楽曲(複製について・01)」の続きです。
オリジナル(原物)と複製がはっきりしている
楽曲と小説にくらべると、絵画ではオリジナルと複製がはっきりと分かれているイメージがあります。版画を除き、オリジナルは一枚しかないようです。
それに対し、複製は多数あります。今、多数と言いましたが、これは正確な言い方ではありません。複製が多数あるのは有名な絵画に限られるのです。
無名な絵画であれば、複製は少数どころか「無い」こともあるという厳然たる事実があることを忘れてはならないでしょう。
絵画では、有名であればあるほど複製の数が増え、無名であればあるほど複製されないという意味です。
「有名」であればあるほど複製は「無数」に近づき、「無名」であればあるほど複製は「有数」か「無い」ということになります。
有名、無数、無名、有数、無い――ややこしいと言えばややこしいです。こういうのを言葉の綾(あや)と言います。私は言葉の綾が好きです。
もし私の文章が読みにくいとすれば、誤字脱字に加えて、そのせいだと思いますが、言葉の綾取りはやめられません。申し訳ありません。
絵画の複製、楽曲の複製、小説の複製
くり返します。
絵画では、有名であればあるほど複製の数が増え、無名であればあるほど複製されない――。
楽曲と小説もそうでしょう。
確かにそうなのでしょうが、楽曲と小説では、この「有名であればあるほど複製の数が増え、無名であればあるほど複製されない」というのが、ぴんと来ません。
イメージしにくいのです。逆に言うと、絵画ではイメージしやすいです。これは、絵画が視覚芸術だからにほかなりません。
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「楽曲の複製」を頭に浮かべてみてください。「小説の複製」を思い描いてみてください。
そもそも、「楽曲の複製」とか「小説の複製」という言い方をするでしょうか? そんな言い方をしているのは、この記事くらいではないでしょうか?
今のは冗談ですけど、"楽曲の複製" と "小説の複製"というふうに、" "で括って一致検索をしてみると、著作権関連のサイトがヒットします。
つまり、一般的にというか、日常の会話では、あまりつかわない言い方だとわかります。
「複製」という言葉は、絵画とは大いに親和性があるけれど、楽曲と小説ではそうでもない、と言えそうです。ただし、あくまでも、日常会話の話です。
では、何と言うのかと言えば、楽曲なら、レコード、テープ、CD、配信された曲みたいに言う気がします。小説なら、本、文庫本、単行本、電子書籍(電子本)、雑誌に掲載された作品みたいに言うのではないでしょうか。
何を言いたいのかと申しますと、視覚芸術である絵画ではオリジナルと複製がはっきりと分かれているから、イメージしやすいということです。
これもある意味言葉の綾だと私は思います。「複製」と言うか言わないかの問題なのです。言葉として言うか言わないかが、事物のイメージを形成している、とも言えるでしょう。
(ひょっとして、自分の聞いている楽曲や、自分の読んでいる小説を複製として認めたくない心理が働いているのかもしれません。このことは、次回に書きたいと思います。)
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上で、言葉として言うか言わないかが、事物のイメージを形成している――と書きましたが、これは、人が「似ている」を基本とする印象とイメージの世界に生きているからです。
機械のように「同じ」かどうかを基本とする杓子定規な世界に住んでいるのではありません。
次に、そんなある意味適当(いい加減という意味です)な人が複製をどんなふうにつくり、どんなふうに扱っているかを見ていきます。
結論を先に言うと、オリジナルと「同じ」を目指して複製をつくろうにも、人は「同じ」ものがつくれないようです(機械をつかってもです)。「同じ」は人の手に負えないのかもしれません。
人にとって「同じ」とはまぼろしではないかと思うことがよくあります。「同じ」という言葉はあっても、たぶんつかめていないのです。
誰かから教わった知識や情報として知っていても(つまり言葉として知っていても)、「同じ」かどうかを体感も体験もできていないという意味です。
複製の複数性、複製の無数性、複製の多様性
絵画は視覚芸術です。「見る」ものであり「観る」ものであり「眺めるもの」であり、場合によっては「見過ごすもの」とか「無視するもの」なのです。そのため、絵画では複製が目立つことになります。
絵画の複製が目立つなんて、当たり前じゃないかと言われそうですが、「見えるもの」であるがゆえに、絵画では複製の粗(あら)が目立つ、質のいい悪いが目立つという話です。
私の好きな言い方だと、「複製の複数性」とか「複製の無数性」とか「複製の多様性」というイメージです。もちろん、有名な作品の話です。有名な作品であればあるほど複製がたくさん――複数であったり無数――ありますから。
複製が複数、あるいは無数にあれば、その出来具合に差が出るのは当然なのです。とりわけ、「見えるものである」絵画の場合には目立ちます。
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世界でいちばん有名な絵画はどれでしょう? いろいろな意見がありそうですが、ここではモナ・リザを例に取ります。
「モナ・リザ」をグーグルで画像検索してみてください(ただし、世界的レベルでの複製を考える場合には、Mona Lisa、La Gioconda、La Joconde、蒙娜丽莎、모나리자、მონა ლიზა……というバリエーションもあることを忘れてはならないでしょう)。
まず、非常にたくさんの複製がヒットして驚きます。次に、その複製の出来具合に違いがあることに、さらに驚くはずです。
さすが、モナ・リザです。たくさん複製されているだけでなく、その複製間に差があるということは、いろいろなところでいろいろな人によって複製されているという証左になります。
一目瞭然なのです。ここが大切なポイントですが、ちょっと見ただけで、ぱっと体感できるという意味です。
当たり前と言えば、当たり前、なかなか気づかないと言えば、なかなか気づかない。視覚というのは、意外と錯覚しやすいのです。
まちまち、ちまちま
あと、画像検索でヒットしたモナ・リザの複製は、どうやらどれもが小さそうだ、ということに気がつきます。
縮小された複製ですから、「ミニアチュア」とか「ミニチュア」と言っていいでしょう。
ということは、絵画の複製は「まちまち」なだけでなく、「ちまちま」しているのが普通だと考えられます、冗談ではなく。
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そう言えば、私が初めて見たモナ・リザの複製は、確か小学生のころに雑誌に載っていたものでした。粗悪なざらざらした紙の雑誌に掲載されていたものですから、小さくて、しかもモノクロでした。
「えっ、これが世界でいちばん有名な絵なの?」とがっかりしたのを覚えています。それくらい、しょぼい、名画モナ・リザの複製との出会いでした。
絵画の複製では、複製のサイズや色の再現だけでなく、媒体の肌触りとか手触りといったものも大切な要素ではないでしょうか。
媒体というのは、絵画の場合には、たいていは写真(複製のことです)が載る紙ですが、現在ではパソコンやスマホやタブレットといった広義の端末の画面になります。
複製である写真の解像度とか、ディスプレイの画素とかいうものと関係があるのでしょうか。私は詳しいことは知りません。曖昧な話で、申し訳ありません。
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とにもかくにも、一目瞭然なのです。
視覚芸術だからこそ、複製自体の多さと、複製の種類の多さとその出来具合までが、一目瞭然に確認できる、と言えるでしょう。
楽曲と小説で、こんなことがあるでしょうか?
楽曲は見えないし、小説は見るのには長すぎます。一目瞭然なんて無理なのです。
絵画における「複製の複数性」と「複製の多数性」と「複製の多様性」というのはそういう意味です。
ただし、もちろん、こうした現象は、複数、あるいは多数、あるいは無数に複製される有名な作品に限られます。何度もくり返してごめんなさい。それくらい忘れがちで大事なことなのです。
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オリジナル 対 複製
複製というと、オリジナルと同じく一様なイメージがありますが、その複数性、多数性、多様性を体感していただけたでしょうか。
複製とは、オリジナルとほぼ同じものが一様にあるというイメージがあるとすれば、それはまぼろしなのです。似たものが多様にあると言うべきでしょう。
人は「似ている」を基本とする印象とイメージの世界にいるからです。「同じ」かどうかは、人の手に負えないとしか考えられません。
「同じ」かどうかの判断を機械やシステムに外部委託したとしても、機械やシステムの出した結果の最終的な判断は、人が「似ている」の世界でします。
まとめ
このように、絵画と楽曲と小説とでは、そのオリジナル(原物)と複製のありようが大きく異なります。
大切な点なので、とりあえず、まとめます。
*絵画の複製:見える ⇒ 複製として目立つ
*楽曲の複製:見えない ⇒ 複製としてあまり意識されない
*小説の複製:見えるけど見ないで読む ⇒ 複製だと意識しながら読む人はまずいない
(※小説の複製が「見えるけど見ないで読む」ものだというのは、文字としては見えるけど、文字を見ることはなく、意味を読むものだという意味です。たとえば、小説に「猫」という文字があれば、「そこにある」文字を見るのではなく、「そこにはない」猫というものを頭に浮かべる、それが「読む」行為だと言えばわかりやすいかもしれません。)
作品の鑑賞のされ方
作品のオリジナルと複製のありようの違いは、鑑賞のされ方の違いを見るとよくわかります。作品は鑑賞されてなんぼですから、当然のことですけど。
当たり前の話ばかりをして、申し訳ありません。
今回の話の復習のために、くり返しますが、絵画の場合には、複製での鑑賞が一般的です。有名な作品であればあるほど、複製で鑑賞されることになります。
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小説と絵画と楽曲――。この三つを思い浮かべながら複製について考えるとよさそうです。
一口に「作品」と言っても、この三者では、それぞれがまったく異なっていることが、おわかりいただけたのではないでしょうか。
その違いは、鑑賞の仕方となって立ち現れます。そのため、三者を比較しながら考えると、三者それぞれの「作品」、そして三者それぞれの「複製」というものについて話しやすいようです。
そんなわけで、「小説の複製(複製でしかない小説)」を扱う次回の記事でも、この三者をくらべながらの話になると思います。
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