前書き的なもの -自分という存在-

 自己紹介する時、年齢や肩書きから語るのが一般的なんだろう。それはある意味で客観的であり、正確ではあると思う。

 けれどそれは本当の意味で自分を説明しているだろうか?

 自分という存在そして個性を相手に知ってもらおうと思った時、それは果たして適切なのだろうか?

 それ以上に誰かに適切に自分という人間を語れるほど、私は自分の事を“知っている”のだろうか?

 灯台下暗し、という言葉がある。

 身近な存在であればあるほどその本質について分かったつもりでいるものではないだろうか?


 Q.では自分という存在を正確に認識する為にはどうすればいいか?

 A.それは己という人間を知ること


 Q.自分という人間を知るにはどうすればいいか?

 A.他者と接触することにより、他者との違いを認識する


 では最も手軽に他者を認識するツールとして本や動画を使ってみるのはどうか?

 そういう結論に達した。


 深夜テンションなので考えとしてはずいぶんふわふわしている自覚はある。

 が、わざわざ時間をかけて読んだり視聴した“作品”を一度きりの娯楽として忘れ去ってしまうのはもったいないのではないか。

 日々の生活の中で一晩明けたら記憶からそのほとんどが抜け落ちてしまうようでは“身”にならないのではないか。

 そう考えた次第だ。

 ただの勿体ない症候群ではあると思うのだが、それも私の個性ということでひとつ。


 そしてここまで読んでうっすらもらったらわかると思うが、私とはこういう人間である。

 “普通”とか“協調”といった言葉からはかけ離れた感性をもっているので、私が作品に対してもつ感想はあなたやあなたの友人が抱く感想とは違うかもしれない。

 逆に意外なところでリンクして驚くかもしれない。

 自分の考えとはあまりにもかけ離れすぎて気持ち悪くなるかもしれないし、逆にだからこそ面白いと感じられるかもしれない。

 いずれであったとしても、それは紛れもなく私という一人の人間がもった感想である。

 だから“こんな考え方の人間もいるんだな”と聞き流してくれたら幸いである。


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