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僕と彼女の東北工程


 好きな女の子が初めて自分の部屋に来てくれた。このためにわざわざ有給を使って、約2000km離れた南方から飛行機に乗って、まだ肌寒い北の大地まで。
 
 彼女の冬服姿を見るのは初めてだった。やたらと体格がでかい人の多い北方に似合わない華奢な身体をもこもこのセーターと帽子に包んだ彼女の姿は愛らしく、空港の到着出口から出てきた瞬間に思わず抱きしめてしまった。春になっても最低気温が氷点下になる寒い地域で彼女の体温を感じると、心の内側から温まる感じがした。空間も時間も肉体も、溶けていくようだった。

 朝目が覚めると、彼女がスマホのスピーカーで曲を流していた。この女の子が朝いつも聴いている曲を今自分も聴いているんだ。そう思うと、なんだかすごくいい曲に聴こえた。もともと彼女とは音楽の趣味が合うのだが、余計にその曲を気に入った。

 「じゃあ、君が作ったパスタ食べたい。」
この100均で売ってる容器を使えばレンジで簡単にパスタが作れるんだよ。だから自分はそれをよく食べているんだ。自炊の話になって、私は彼女にそう言うと、じゃあ今日の夕飯はそれにしてよと彼女は言った。自炊と言っても、レンジでパスタを茹でて、出来合いのソースを混ぜて茹でた残り湯で味噌汁を作るだけの、カップ麺の延長のような簡単なものだ。それでも、ペペロンチーノと味噌汁を用意すると、彼女はとても喜んでくれた。

「昔働いていたお店のペペロンチーノがすごく美味しかったの。だから、君にも食べてみてほしいんだ。」
「初めて味噌汁を飲んだ時は、ただしょっぱいだけの水に感じて正直まずいと思った。でも日本の職場の食堂にはそれしかなくて、仕方なく毎日飲んでいるうちにいつの間にか好きになっていったんだよね。今、君が用意してくれた味噌汁を飲むと、とっても美味しくて、すごく懐かしく感じるよ。」

 今まで、いわゆる「サラダ記念日」のことは、なんだか相手に対する依存心が強くて気持ち悪い詩だなと感じていた。だけれども、こんな彼女の反応を見て、今日は「味噌汁記念日」でもいいかもしれない、もっとちゃんと料理を勉強して食べさせてあげたいと、心の中で手のひらを返した。

 ある夜、私は彼女に自分の過去について話した。これまでにも、何度か聞いてくれていた。環境に恵まれなかった中学高校時代、それに起因するコンプレックスや精神疾患など、それを話しては、彼女を困らせていた。私はただ、今まで抱えていた気持ちを吐き出す場がなくて、彼女に精神的に依存していた。今回もまた、答えの存在しない問いを彼女に投げかけて困惑させていた。
「周りからの排斥を受けるのが苦しかったって言うけど」
 彼女は続ける。
「それって考えようによってはいいことなんじゃないかな?」
 どういう意味?
「そんな人達と関わる理由ないから。君の良さがわからないだけじゃなくて、君のことを攻撃してくる。君の人生の中に、彼らの存在は必要ないから。」
 でも、その時はどうしようもなかったんだよ。制限された環境の中で、どうにかして一人で活路を切り開くしかなかった、昼休みでもずっとトイレに隠れて怯えながら食事を取って、ただ耐え忍ぶしかなかったんだ。
「確かにどうしようもなかったのかもしれない。だけどそれって、君の責任じゃないからさ。文字通り君にはどうしようもなかったことだから。もう、いいんだよ。納得できないかもしれないけど、終わったことなんだよ。」
「自分にはどうしようもないことを考えて、今までどれだけの時間を無駄にしたの?今でさえ、こんな夜中に君のことを諭して、私と過ごせたはずの楽しい時間を潰してる。そんなくだらない連中との過去なんかよりも、私はただ君に、自分の今の幸せについて、もっと正直に向き合ってほしいんだ。」

 彼女と過ごした時間は夢のようだった。夢のように、現実に過ぎた時間と身体で感じた時間がまるで一致しなかった。彼女が帰ってから、今回のために用意した二個目のマグカップを洗っているとき、いつも寝ているベッドで仰向けになっているとき、彼女は確かにここにいたのだと、初めて感じた。

 まだ、洗剤やボディーソープのものではない、甘酸っぱくて透き通った匂いの残るパジャマを抱きしめながら思う。彼女が見た景色を一緒に見たい。今まで、彼女の地元にも行ったし、彼女が昔働いていた職場の近くにも見に行った。思い出の場所に行って、痕跡を感じたかったから。でも、そういうのはもう十分だな、と思う。これからは、一緒に思い出の場所を作りたい。一緒に国内でも外国でもいろいろなところに行って、地球を二人の記憶で染め上げたい。ようやく交われた互いの道を、資源の尽きるまで建設していきたい。二人だけの歴史を作りたい。ずっと、それができる女性を待ち望んていたから。
 もしこれからも彼女と同じ道を歩けるのなら、彼女との未来を選択できるのなら、それってどれほど素晴らしいだろう。


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