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『Westmead公立病院入院回顧録 ⑤』

手術は週明け、ということに決まったようだった。つまりそれまで入院状態も継続されるということが決定したということのようだった。

「一旦家に帰るより病院に居た方が安全よ。」とナースの人も言った。「外でコロナに感染して予定した手術を受けられなくなっても困るし、ハートアタックが起きないとも限らないし。」

「確かに…」とその言葉に深く納得しはしたが、別の解決せねばならない沢山の問題の発生に気持ちが焦りに焦った。

パンツがない…。

入院すると思って病院に来ていない俺は、夜をどこかで迎えるための何の準備もしていなかった。つっかけこそ履いてはいなかったが、「ちょっとそこまで…」の勢いで出掛けて来ていたのだ。

そこで俺はIさんに連絡をしてパンツの差し入れを懇願することにした。ただチャツウッドのあるノースショアから病院のあるウエストミードまでは結構な距離がある。頼みごとをするのは本当はとっても心苦しい。しかし思ってもみなかったピンチには、正義の味方を呼ぶしかない。日本人はむかしからTVでそう学んでいる。

さて、生まれてこの方他人に(自分が履くための)パンツをよこせと要求したことはない。少なくとも俺はそう記憶しているが、長く生きていると色んな経験をするものであるものである。いや、どうなのだろう、俺が誰かに言われたことがないから知らないだけかもしれないが、人間は生きていると誰かにパンツをくれよと言っているものなのだろうか?事あるごとに「おい、パンツくれ」と言い合っているものなのだろうか。勉強が足りずにこれまで一度も目にしていなかったが、Please give me tiger-patterned pants. とかなんとか教科書の英訳にもでちゃってるほど古来から伝統的に言っているものなのだろうか。

Iさんは他人からのパンツの要求に慣れているのか、快く承諾、すなわち快諾をしてくださった。さすがは正義の味方だ。これでパンツを後ろ前に履いて、裏返して履いて、それをまた後ろ前にして履いて…という行為をせずに済んだ。何かの文献で読んだ(たぶんマンガ)ことがあっても未だに実行したことがなかったのだが、できればこの先もやりたくないことのひとつである。

またIさんは親切にも文庫本とお菓子も差し入れてくれた。料金がかかる病室のTVが役立たずなので長い夜を共に過ごす文庫本はとても助かる。

そして別の正義の味方のYさんにはまずスマホのチャージャーを、そして教室のノートパソコンを持ってきてくれるようにお願いした。このしちメンドクサイ頼みをYさんも快く承諾、つまり快諾してくれた。パソコンやスマホも現代生活では生命線なのでこれもこの上なく助かった。

俺はIさんのくれた新品のパンツを履き、Yさんの準備してくれたチャージャーで満たしたスマホで教室のお休みを会員のみなさんに連絡することができた。世界は正義の味方によって救われるということが分かった。

金曜日、土曜日、日曜日。

朝昼晩と出される飯を食い、午前中と夕食のあととに出されるティタイムを断ることなく全部いただき、あとはベッドで寝ているだけの毎日を過ごす。ヘッドスライディングも騎馬戦も、シンクロナイズドスイミングも、餅つきもしない。

ロックダウン中にどこにも行けなかったが、思わぬ休暇をもらったようだった。ただ病室からは一歩も外には出られなかった。

血は毎日のように有無も言わさず抜かれた。特に週末は研修医っぽい若いドクターが当直で来るのが習わしなのか、血を抜くのがみんな殴りたいほど下手糞だった。口では偉そうに言ってはいるが、本当にみんな下手糞だった。この借りてきた猫よりおとなしい俺が「やったことあるの?」と問いただしたほどだった。

誰かを練習台にして上手くなっていくものだろうから、その被検体としてわが身を差し出すことにやぶさかではないにしても、あんまり痛いと文句のひとつ、嫌味の一つも言いたくなるものだ。それも夜中の2時だの3時だのにやってきて、寝ている俺をわざわざ起して血を採っていくのである。すんなり片づけて欲しいと思うのが世界共通の人情だろう。それを煌々と電気をつけて、キットをテーブルに右から順番に並べ、「教科書通りに今からやってみます!」みたいに「ええっと、まずこれをこうして…」なんつってやり始める若いドクターには自然にため息が出た。

左手の甲に採血用の針を刺していったヤツ(←こう言ってしまいたい)もいた。自分が腕からの採血に2回も失敗したから「うん、ここから採ってみよう」なんつって胡麻化したのだ。これがまた邪魔だし、何かに触れるごとにいちいち痛い。シャワーを浴びるときにも不便なこと不便なこと。結局他の誰もそこから採血することはなく、ただただ不快で痛かっただけだ。

それに引き換え、と言うと話が脱線してしまうが、採血がめちゃくちゃ上手い陽気なアジア人のおじさん、いやおじいさんもいた。昼間にしか来ないが、あっという間に血を抜いていく。ちっとも痛くない。いや痛くないと言えばウソだが、他の人に比べればなんでもないくらいの痛みでささっと血を抜くのだ。これぞプロフェッショナルだ。あの若造ドクターたちに、この陽気なおじいさんの右足の親指の爪に1か月溜まった垢でも煎じて飲ませたい。足りなければ左のもどうぞ。(ただ、俺はそれをさわりたくも煎じたくはないからどうか修行だと思って自分でやってほしい。)

突然機械が騒ぎ始めることもあった。

これはもう「びっくり」しかしない。こんな夜更けにわが身に何が起こったかと恐ろしくしかならない。ただ驚くのは俺のような素人だけで、玄人であるナースの人たちはこんなことでは全く動じることはない。ティユンティユンと鳴り続けていてもお構いなしで、やるべき仕事のかたがつくまで(←予想。本当に当直のナースの人は忙しそうなのだ)病室にやってくることはない。

次の手術は週明け月曜日のリスト1番で行われることになった。

『Westmead公立病院入院回顧録 ⑤』

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