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『Westmead公立病院入院回顧録 ⑥』

月曜日は早朝から準備に取り掛かる。

自分が心臓の手術をするところを想像できるだろうか。

できるのはせいぜい擦りむいた膝小僧にマキロンをふりかけるところくらいだ。

夜が明ける前からシャワーを浴び、髭剃りのためにもらっていた剃刀で毛の処理もきちんとしておく。物事を成功に導くには十分な準備が必要だ。できるかぎりストレスなく手術を行って無事成功して欲しいと願うのは人情だろう。

例によって専門職のベッド運び人のお兄さんが来て、ガラガラゴロゴロと俺を運んでいく。ベビーカーに乗った覚えもないし、スーパーのショッピングカートにも人力車にも乗ったことがないと記憶しているから誰かから人力で移動させてもらうとちょっと楽しい。うん?ちょっと待て。今ちらっと、台車に乗って積んだ段ボールに激突して遊んでいる光景が脳裏に浮かんだが、きっとそれは俺ではなかろう。良い子の俺がそんなことをしてそのあと大目玉を食らうなんてことがあるわけない。

ベッドは直接手術室に運ばれ(たと思う)、俺は促されるまま手術台に移る。そしてまたペタペタとコードを体中に貼り付けられる。貼り付け担当の人がその仕事を全うするべく、間髪入れずに作業に入るのだ。客がそばを口に入れた瞬間に次のそばを椀に入れる椀子そばの店員さんの店員魂と似ているのか似ていないのか…。たぶん椀子そばを食べたことがないだろうその貼り付け担当の人には答えられまいが、食べたことのある俺が代わりに答えてあげるとしたら、まあ似てはいないだろう。

担当のドクターが挨拶にきたり、書類にサインしたり(すでに手術台の上に乗っているのにサインしないというわけにもいかない)していたのだが、何もないときは仰向けで天井を見ているしかない。仮面ライダーがショッカーから改造人間にされたときはこんなんだったかなあ、とか思わないでもなかったが、俺はバイクの免許を持っていないので「ライダー」にはなれない。

中年の女性のドクターが自己紹介しながらやってきて、手術の方法について好まないものはあるか?というようなことを質問した。俺はちょっと「???」となったが、死なないように処置してくれることが何より大事だから、その方法については選択の余地はないと思って「NO」と答える。

彼女が去ってしまった後はまた手術台の上で仰向けで待機だった。ドクターたちは何やらデータを見ながら(だと思う)俺の頭が指している方向の向こうの方で話し合いをしていた。そんなのは手術に入る前に別室でやっておくことじゃないんかい、とTVドラマしか知らない俺は思ってしまうが、現場は案外こんなものなのかもしれない。

どのくらい時間が経ったのか、実はそんなに経ってはいないのかもしれない(布でカバーがしてあるものの、意識のある状態で全裸で手術台に仰向けになったまま時を過ごした経験のある人か、まな板の上の鯉にしかこの感覚は分かるまい)が、最初の男の担当ドクターがやってきて話し合いの結果を俺に報告してくれた。

話し合いの結果、ここにいるドクター全員が開胸手術をしてバイパスを通したほうがいいという意見で一致した。あとはお前の担当医の意見を聞かねばならないが、とにかくそういうことだから今日の手術は中止にすることにする。

大まかに言えばそんな感じで、その日の早朝からの俺の準備と、コード貼り付け担当の人がすでに成し遂げていた俺の体中に貼り付けられたコードは全て無用になってしまった。彼は「やれやれ」という顔をしながらコードを外し、俺は手術台からきれいに整えられたベッドに移った。そしてベッド動かし職人の人ではなく、現場にいたドクター男女二人のドクターによってまたもや元居た病室に戻された。「出戻り」という言葉が否が応でも頭に浮かんだが、ナースの人たちも笑っていたのでまあいいやと思えた。そして図々しい「出戻り」の俺は、「俺のランチあるよね?」と早々に看護婦さんに確認するのであった。

『Westmead公立病院入院回顧録 ⑥』

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