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個展『未知への追憶』から、落合陽一さんが実装したい『21世紀の思想』を考察してみる。

だいぶ前ですが、落合陽一さんの個展『未知への追憶』をみてきました。個展に行った方やデジタルネイチャーなどの落合陽一さんの著作を読んだ方はコメントいただけるとありがたいです。

『落合陽一』さんって結局何がしたいの?と疑問に思う方に向けて、勝手に説明してみたいと思います。

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落合さんの主著(だと思っている)書籍『魔法の世紀』『デジタルネイチャー』は何度も詠んだ。
彼の思考の足跡を追いかけて追いかけて、でもその背中すら見えなかった。しかし僕の心の中でその言葉は光り続けている

個展を見て、彼の頭の中を少し覗けたような。
その個展の解釈を綴ってみる

・『霊性』についてーそのモノに触れた生命の痕跡ー

僕たちは何か写真を見たとき、風景を見たとき、ものを見たとき、そこに誰かの『想い』が宿っていたかのような感覚に遭遇する。

おばあちゃんが使い古した食器を見て、確かにその食器はおばあちゃんが使っていたのだという痕跡をそこに見出す。

道路に花がたくさん置かれていたら、そこで亡くなった人を想う誰かの温かい心が、僕に流れ込んでくる。
その人を想う誰かの心の痕跡を感じるのだろう

今生きている人、もしくは時間軸的に近くに生きていた人の『情念』そこにが宿っていて、それによって僕たちは情念が宿った物質からそれが生きているような『霊性』を感じるのだろう

この情念・霊性は僕らに生活のどこに宿っているのか?そしてこの感覚はなぜ生じるのだろうか?そんな問いが落合さんの中にあるのだと感じた。

個展のセクション3の情念と霊性ではそんな探求を垣間見た。。
『桟橋の記憶』や『枯れ木と霊性』からは、上記の意味での『霊性』を強く感じたからだ。

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枯れて死んでいるような枯れ木から、確かにそこに生命が宿っていた痕跡を感じ取れるのではないだろうか?

・物質の記憶ー自然の演算規則が物化されるとは何か?ー

『霊性を宿す』という意味で、物質は何かを記憶する。
物質は他の物質と交わった時の記憶を、『霊性』という形で蓄積するのだろう。

その物質は確かに今は生命を持っていないかもしれない。しかし、過去に相互作用をした記憶を、そしてその物質に自然が働きかけた記憶を宿している。

前者は前項の通りだが後者についてもう少し深ぼろう。

『その物質に自然が働きかけた記憶を宿している』とはどういう意味だろうか?

その物質は。。。
『風』によってついた傷があるかもしれないし『水』の流れによって削られた痕跡をもつかもしれない。『地震』によって大きな変形を受けた痕跡を持つかもしれない。

そしてそれらは、『自然選択の進化過程を経て受けてきた計算の痕跡』かもしれない。

セクション2の『物質と記憶』はその表現だと思った。

例えば、『対数螺旋の自然計算』の、巻貝では上記の一番最後の痕跡である、
『自然選択の進化過程を経て受けてきた計算の痕跡』が色濃く感じられる。

オウムガイの殻は綺麗な対数螺旋になっている。

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巻貝という生命体は、進化の過程の中でその螺旋を要求する『自然と共存し続けた』ことによって美しい螺旋構造を持つに至った。

しかしそれは巻貝が勝手に生み出したものではない。

『巻貝』と『自然』その相互の関係が生み出してきたものだ。その相互のやり取りの計算の結果が、あの美しい『螺旋構造』なのだろう

だからあの巻貝は『自然の計算を記憶』している。そのことを物質と記憶のセクションはその探求を垣間見た。

『歯鯨と波と白金と』
では、クジラの巨大な歯が映し出されていた。

あの鯨の歯の美しい形状も、その鯨が住む『海』という自然環境全体や鯨の捕食者、鯨が食べるものとの長い長いやり取りの計算の末の形なのだろう。

それ故に『物化した物体』は全て、自然の『計算』による彫刻といえるのだろう。

・僕たちは『ありのままの風景』を見ていない。二重演算の結果をみている。

これまでは『物質』という極めて限定的な時空間の範囲に限定してきたが、ここからはその物質が織りなす『風景』について考えていく。

僕たちが当たり前に見ているこの世界の『風景』や『自然』の構成要素が全て上記で述べたような『自然の計算の記憶』を持っているし、『情念が生んだ霊性』を纏っている。

なぜならほどんどの物質が急に今の瞬間にそこに現れたわけではないからだ。その物質は全て、誰かとのやりとりや、自然とのやりとりを経て、今の姿を作り出したのだ。

そしてさらにいうと、僕が見ている視覚情報は僕の眼、そして脳による計算結果にすぎず、風景を『ありのまま』『そのまま』でみることはできない。

その物質にも自然の計算機の計算の結果が組み込まれているし、さらに僕たちが見ているものも僕の眼、そして脳の、計算が組み込まれている。そんな二重の計算を経たものが、人間の視覚情報である。

さらに僕たちは様々な風景をみるが、そこから感じることは『視覚情報』だけではない。

僕たちが風景から感じるものは、先に述べた『霊性』から感じる、時空を超えた繋がりかもしれないし、食器から感じる、生きていたおばあちゃんの暖かさかもしれない。

『記憶、イメージ、知覚、時間と空間、知能、環世界、様々な名前で呼ばれる自分の断片を様々な装置を使って拾い集めることで世界とつながっている』
(セクション4『風景論』のキャプションから引用)

まさにその通りだろう。
僕は眼に見える風景を含めた様々な『風景』から、時空間の繋がり・生命間の繋がりを感じる。そしてそれを可能にするのは、僕らの眼や脳、さらには人間が生み出した『映像』や『写真』というメディア装置であるのだ。

・境界線の越境、更新するー落合陽一が見据える境界線の昇華ー

僕たちはあらゆる境界線を人為的に措定する。その境界線はあらゆる世界を二分し対立項として措定する。

しかしその対立を超えて、一体化した世界はどんな世界なのだろう?

境界線を人為的に措定することなく、全てが一つの『風景』のなかに溶け込んだ世界は、どんな世界なのだろう?

デカルトが生んだ精神vs身体の二元論も、日常に溢れている、生命vs非生命の対立の捉えからも解放された世界とは、どんな世界なのだろう?その世界で見る風景は、人間の目にどのように映るのだろう?

全てその境界線が消え溶け込んだ世界とはどんな世界なのだろう?
そんな越境・更新への探求を、落合さんの作品から感じ取った


その境界線・対立は全て人間が人為的に措定したものに過ぎない。
自然という巨大な生態系、自然という巨大な『計算機』にとっては『ウチとソト』の対立もその中に存在するものの『価値に上下』もない。

自然にとって僕たち人間も、アフリカの像も植物も、海も、川も、森も全て等価値の『自然』という巨大な『全体』の『部分』である。

全ては自然という巨大な存在と、その中の部分である物質との相互の変換の過程に過ぎず、あらゆるものはその過程の発現にすぎないのだろう。

巻貝も、鯨の歯も、僕たち知覚も、体も、そして全ての風景も。
本来は全て『別のもの』であるのではなくて連なり合う生態系の中での計算の結果であり過程である。

その深い認知が起きれば、あらゆる境界線は消えうせ、全てが同次元で変換可能な世界が立ち現れるのだろうか?

・最後:『未知』への『追憶』の解釈

僕たちは未知のもの、見たことないものを見たときに、なぜか感動を覚える。
富士山の頂上に登った時、何が美しいのかはわからないが、なぜか『美しい』と感じる。(三年前に登った富士山山頂からの写真)

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これはなんて美しいんだ!と感じた時、しかしどこかで、『見たことがある気がする』。こう想うときはないだろうか?

見たことがあるような、感じたことがあるような、暖かい感情や悲しい感情を思う時がある。

知らないはずのことを知っていると思うことがあるのはなぜだろう?
覚えていたはずのいことを忘れているのか、記憶の中に記憶していない未知なるなにかが潜んでいるのか?

その不思議な感覚を『追憶』と名付けているだと思う。

『未知』なもののはずなのに、なぜかそこに『追憶』であるかのように感じるのはなぜか?

実はそれは、あらゆる生命にとって『未知』なものではないからではないだろうか?僕はそう解釈した。


そしてなぜ僕たちが未知なものに追憶を感じるのか?

その理由は、あらゆる風景がそしてその中の物質が、質量が、全ては同じ『計算機自然』の計算の結果・そして永遠に過程であり、それぞれの物質、生命、質量がその計算の痕跡を『記憶している』もしくは『感じとる』からではないだろうか?

それが落合陽一さんの今の時点の『答え』なのだろうと思った。

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この個展はこの作品が最後にきている。この作品の名は『未知への追憶』

この写真は何を写しているのかもよくわからないし、視界もグワングワンと揺れているし、いわゆる『解像度』も低く感じる。

この作品をどう解釈するか?

『未知への追憶』という知覚は、僕らが通常行う眼や脳が行うような視覚情報を通してではないかもしれない。『未知への追憶』という知覚は眼で見る風景のように慣れ親しんだ風景ではないのかもしれない。
そしてその探求は『これが分かったら、その答えがわかる』というような単純な探究ではないかもしれないが、その未知の探究の中でも進み続ける。

落合陽一さんのそんな意志を感じた。

『未知への追憶』はどこからやってくるのだろうか?
そしてそれをもたらす全てが溶け合った風景はどこにあるのだろう?

記憶と混ざり合う外世界の刺激
そうやって自分の精神と物質的世界の間が溶けた領域に
まだ見ぬ風景の姿を探している
それを未知への追憶と呼んで心のどこかで愛でている自分がいる

その探求のいく末に僕は興味津々だ。

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こんばんは
僕は言うなれば、落合陽一さんのファンで、デジタルネイチャーや魔法の世紀という現代の新しい思想書に触発された人の一人です。
正直彼の言ってることをほとんど理解できていない可能性が高いので、いつかお話ししてみたい。質問しまくってみたい。
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れんてん

ただ、ありがとうございます。 きっとまた、「なにか」を届けます。