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イベントnote 「見当識と素材を取り戻すための自主ゼミ」 @早稲田大

昨日は仕事終わりに早稲田大であった自主ゼミに参加してきた。前々から贅沢貧乏という劇団に興味があったのと、「弱さの意味」を「弱いい派」と呼ばれる劇団の方を毎回呼んで話をするというところにそそられた。とりあえずメモをまとめておく。

全体の大きなテーマ

大衆と個人、もっと個別であるべきだ

気になったところ

・人らしさ?生活の中での尺度?としてDoingとBeingという大きな分け方がある

・Doing:行為や肩書きなどにとらわれる。マジョリティーの規範にとらわれる。
◦資本主義的で今までDoingをもって幸せとしてきた。例:物を買う、出世するなど
・Being:ある、いるなど存在そのもの。マジョリティーの規範にとらわれない。
◦こちらにもっと重きを置くべき。
◦やまゆり園の事件や「子どもを産む機械」という発言はDoing(何ができるか)のみで人を評価した結果。存在そのものを否定している。

・今の解釈としての幸せ(Doing:働き方、物の所有)には無理がきている→幸せの再定義が必要
・「別々に一緒にいる」- 無関心、それぞれが衝動を抑えない。それぞれがそのことを否定せず存在を認める→平和
  ・100%はわからないことを前提にコミュニケーションをする
日本人は主語をなしに喋る。そのことで世の中の意見というニュアンスが発生するのでは
 ◦「夫婦別姓が良い」:世の中のニュアンスが入る。反対意見の人からの反感をかうことがある。主語は実態のないWe
 ◦「私は夫婦別姓が良い」:私の意見。比較的無関心でいてくれる。
マジックワード(メンヘラ、自己肯定感が低いなど)で説明してしまう怖さ。本当はそれぞれが固有の体験をしているはず。曖昧さが削り落とされる。(例:コンパスの円も手書きの円も同じ円と表現されるように)

その他気になったキーワード、メモ

・カスパーハウザー:監禁され18まで言葉を知らなかった。徐々に言葉を覚えるが、それにつれて不思議な能力(昼にも星が見える、透視能力など)が失われた。実在の人物。
・アーセナルミラーのセールスマンの死:「What I am」というフレーズがBeingを象徴している
・「自分固有の肩書きを持とう」圧力も最近存在している。How toになりつつある。

気づき

・マジョリティーの規範にとらわれないことの大切さは確かに最近強く感じる。一方で、とても難しいようにも感じる。それは今までの価値基準をがらっと変えることで、ある種これまでを否定することになるから。
・社会全体として幸せの再定義をしようという圧力もあるように感じる。例えば、みんな絶対に定時で帰ろうという働き方改革など。少し残って仕事したい人もいるはずで、本来個別で再定義すべきなのかも。
・主語についての指摘は納得感があった。個人としての意見が社会一般の意見に聞こえたり、言ってる側もいつのまにか個人の意見が社会一般の意見であるようにすり替えてしまうことがある。主語をつけて発言することでニュアンスが正しく伝わるのかもしれない。
◦前にツイッターでおじさんを小馬鹿にして炎上した高校生がいた。そのあとのツイートで謝った後に「けれど私が思ったのは事実」と言っていた。その時上手く言えない感動があったんだけれど、この主語の問題が理由の1つなのかもしれない。
・「100%はわからないことを前提にコミュニケーションをする」というのは先日行ったマイノリティー関連のイベントでも話に出ていた。適切な距離や干渉しないことがこれからのコミュニケーションに共通して必要なのかもしれない。
・マジックワードで語ることで安心してしまう部分もあるように感じた。昔友だちが「どこのカテゴリにも属さないことがツラい」と言っていたことを思い出した。マジックワードに自分を当てはめることで仲間を見つけることができる。けれど100%同じ人はいないからどこかいづらさを感じるのかも。

これから生かすこと

・主語を明確にして会話する。特に意見を言う時。

#日記 #エッセイ #コラム #イベント #演劇

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