多様性の罠
最近よく聞く言葉「多様性」
日常生活の何気ないところにも「多様性」は潜んでいます。
しかし、私達が目にしているそれは真の「多様性」なのでしょうか?
たとえば、欧米諸国においてドラマの役者に有色人種を起用すること。
単純に考えれば様々な種類の人間に対して理解があるのだということになりますが……そこまで簡単なことではありませんよね。
ここ数年の映像作品は上記のような「そういうものを気にして作りました」という、あからさまなものが多いように感じます。
有色人種を起用することが良しとされ、白人が主人公だと差別だとか理解がないとか否定されるのでしょう。
「多様性」という言葉の意味は「様々な個性がそこに存在する」ということであって、肯定をしろということではありません。
ただそこにある、いるという状態が「多様性」なのです。
簡単に言うと「全否定はしないほうがいいよね〜」という話です。
それを過大解釈して、「多様性の時代だから!認めてあげないと!」というのはどう考えても上から目線ではありませんか。
最近の「多様性」ブームは基本的に全てを肯定しないと悪というような風潮に感じます。
このキャラクターは色白の役者さんが良かったかもと言うだけで時代にそぐわないと否定されてしまうような。
しかし一度考えてみてほしいのです。
それ自体が「多様性ではない状態」だと思いませんか。
これは人種の話だけでなく、性別の問題の話や国ごとの宗教的な問題など、全てに当てはまることです。
人間どうしたって生理的に受け入れられないものは必ずあると思いますが、そういう場合は「そういう考え方もあるんだな〜」と流せれば色んな人が生きやすいよね、いうことです。
お互いのリスペクトが大事という話なのです。
少なくとも私の考える「多様性」はそういうものです。
少し解釈が違えば、「多様性」を考えない人間は悪であり現在の風潮からズレているといった考えに至るのです。
私は、今世界中に溢れているそれが全くもって違うと思っています。
明らかに原作では肌が白いキャラを有色人種に演じさせる、わざわざ警鐘を鳴らしているつもりで今まで一度も気にしていなかったLGBTQを題材に作品を描く、他にも沢山溢れている「多様性」ですが、これらは本当に「多様性」と言えるでしょうか。
私達の求めている「多様性」とはどのようなものなのか、いま一度それぞれが考える必要があるのではないでしょうか。
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