自分の方言について

フランス生活が始まってもうすぐ1年が経とうとしているが、ホームシックになったことは一度もない。しかし、ここ最近、自分が育った地元の方言がものすごく恋しくなる。

私は、鹿児島県の農村部に生まれ、そこで上京するまでの20年間を過ごした。私の家の周りは、山と畑が広がっており、超高齢地区だった。出会う人のほとんどは鹿児島弁を話す高齢者ばかりだった。小さい頃から、方言ばかりに触れてきたので、私は生まれた時から日本語と鹿児島弁のバイリンガルであった。

このような表現は大げさに聞こえるかもしれないが、鹿児島弁は標準語とはかけ離れた言語のひとつである。語彙、発音、文法規則がまるで違う言語だ。あまりの難しさにスパイ活動のために作られた人工方言だなどと言われたりもする。実際、第二次世界大戦中、連合国からの盗聴を防ぐために、日本軍の間では暗号として鹿児島弁がコミュニケーションに利用された。

現在では、鹿児島弁(薩隅方言)は鹿児島県民にとっても難しい言語になっている。戦後、テレビやラジオの普及とともに鹿児島にも標準語が浸透し始めた。本来の鹿児島弁を操れる年齢層は次第に高まっており、今では70歳以上の世代くらいしか本来の鹿児島弁を日常的に話す人はいないのでないかと思う。鹿児島弁は、それ自体と近しい方言があまりないので、他県に行くと珍しがられる。それゆえ、鹿児島の人は自分が話す言葉を恥ずかしいものとして隠す人も少なくない。クールでかわいい博多弁や、話が面白く聞こえてしまう関西弁とはわけが違うのだ。

「本来の」鹿児島弁という言い方をしたのは、そうでない鹿児島弁が存在するからである。その話し方は「からいも標準語」と鹿児島の間では呼ばれている。鹿児島県民が無理に標準語に適応しようとした結果、イントネーションは鹿児島弁そのままに表記だけ標準語になってしまったものである。「からいも」は「唐芋」と書く。唐の国から伝わった芋、すなわちサツマイモのことだ。日本全国で考えればサツマイモは薩摩の国から伝わったものであるが薩摩の国から見れば、サツマイモはそれを日本に伝えた唐の国の名を関している。アメリカでフライドポテトのことをFrench Friesと呼ぶようなものであろう。

では、それほどにまで難しい鹿児島弁の難しさについて少し述べることにする。そのためには、まず日本語がどのような言語であるかを知る必要がある。

日本語はモーラ言語である。モーラ(mora)とは音の単位である。「サツマイモ」なら5モーラ。「あいみょん」なら4モーラである。日本語にはこのモーラという概念があるおかげで言葉を指を折って数えることができる。五・七・五などが成立するのもモーラ言語の特性である。

モーラ言語には、他にハワイ語などがある。「ワイキキ」や「アロハ」、「キラウエア」などハワイの言語をそのまま日本語表記にしやすいのは、互いにモーラ言語だからであろう。逆に日本語化した英語をネイティブスピーカーに行っても伝わらないのは、モーラによる音の捉え方が邪魔をしているからだといえる。「アイスクリーム」は7モーラであるが、「ice cream」は7モーラではない。そもそも、英語の音はモーラという単位では数え上げられない。その代わり、英語や他のヨーロッパの言語には「音節(syllable)」という概念がある。「ice cream」は2音節だ。

実は、日本語の方言でありながら鹿児島弁はモーラ言語ではない。音節言語である。それゆえ、「行ってくる」は「いてくる」と同じ音数になる。「短い」は鹿児島弁で「みひけ」という。しかし、実際に音を聞いてみると真ん中の「ひ」は子音としてしか発音されておらず、「みhけ」と聞こえるだろう。つまり、「みひけ」は2音節なのだ。

特に会話の中では意識されないが、音が繋がるリエゾンのような現象や、単語の音が潰れる短縮化の現象がしばしばみられる。例えば、「墓参りに」という標準語は「ハカメ」になる。この「ハカメ」の中には「墓参り」という名詞と「に」という助詞の意味が含まれている。すなわち、名詞を変形させ副詞や形容詞のように利用することができるのだ。もしくは、助詞を脱落させたとも考えられる。また、音の短縮の例としては「だいこん」が「デコン」になったり、「犬(いぬ)」が「いん」となったりする。「灰(はい)」は「へ」なるが、「蠅(はえ)」も「へ」と発音されるので、従来の日本語以上に文脈への依存が高まる。

これが、非鹿児島弁話者が鹿児島弁を聞き取ることすらできなくなる理由である。

私は、自分と同世代の中では、かなり鹿児島弁が話せるほうだと思う。リスニングはほぼ完ぺきに聞き取れるし、話すうえでもボキャブラリーは多い。また、鹿児島弁が音節言語であったせいか、英語やフランス語などヨーロッパ言語の習得にも苦労しなかった。

鹿児島弁で話しているときは、本当の自分でいられるような気がする。標準語やそれ以外の言語で話すときは、相手に伝わるかどうかを常に考えて、自分を相対化しながら話しているような気がする。

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