人種について

留学を通じて自分の中で変わったことの一つに人種(問題)に対する考え方の変化がある。

第一に、初めて出会う人を見て最初に意識することが「その人がどのような人種か」ではなくなった。その人が親切かどうか、その人が笑顔で話してるかどうか、そのようなその人個人の特性を一通り判断した後に、「そういえばこの人は黒人だったな」「白人だったな」と思い出すのである。

第二に、自分の中に埋め込まれた白人至上主義がなくなったことである。日本にいると、白人と日本人のハーフ中でも容姿が整ったタレントやモデルがもてはやされるせいで、どうしても白人の顔立ちや体形に憧れを抱いていしまう。小さい顔、長い脚、男性ならガタイの良さ、女性なら胸やお尻の丸みが美の基準として敷かれている。美しさを語るとき、白人の美形の人を思い浮かべてしまうのは、白人至上主義が内在化されている証拠だ。たとえその人が人種差別主義者ではなかったとしても、アジア人としてのコンプレックスはあったりするのではなかろうか。しかし、ありとあらゆる人種の中に身を置くと、白人、黒人、アジア人の身体的特徴の違いは、序列ではなく単なる相違でしかないことに気付く。動物界に巨大なゾウがいたり、体の小さなネズミがいたり、もしくは背骨の無いタコのような動物がいたりする程度のことに思えている。誰もネズミがゾウより劣った動物だとは言わない。実は人種の差異もその程度のことなのである。

第三に、人種や国籍に関するジョークへの感度の習得である。人種差別問題に疎い日本では、アメリカの人種問題関連のデモや暴動が断片的な映像として報道されるが、どうしても身近な問題として意識されない。多くの人にとっては「遠くの国で苦しんでいる人がいる、可哀そう」程度であろう。最近では、マイクロアグレッション(micro-agression)という言葉が注目を集め、人種間の問題は今まで以上に敏感になっている。マイクロアグレッションは、ヘイトスピーチのように相手を傷つけるために発せられたわけではないが相手を不快にさせてしまう発言のことである。有名なものでは「アジア人は数学ができる」や「女の子なのに力持ちだね」などがある。仮にそれが相手を褒めることを意図した発言だとしてもマイクロアグレッションになる可能性がある。すべては聞き手の受け取り方次第である。実は日本人が普段お笑いなどのエンターテインメントとして消費しているものには多くのマイクロアグレッションが隠れている。一時期一世を風靡した「欧米か!」という突っ込みや「WHY JAPANESE PEOPLE!!!」という決め台詞もマイクロアグレッションかもしれないのだ。海外にいると、私は常に「自分が無意識に(面白いと思って)言った言葉が相手の人種には失礼なことだったらどうしよう」という不安が付きまとう。人種差別とは、そのレベルにまで来ている問題なのだ。

最後に、アジア人としての自覚について話す。2020年の前半はBLM運動が盛んに報道されたが、しばらくすると差別の対象は黒人からアジア人への飛び火した。道を歩いていたアジア人が顔に硫酸をかけられたり、ナイフで切り裂かれたりしたニュースを耳にしただろう。他人ごとだった人種差別問題が一気に自分のとして迫ってくる。私が住むフランスでもアジア人が何者かに刺された事件の後は、アジア人に外出を控えさせるメッセージが拡散した。「将来はヨーロッパに住みたい」「コロナが終わって早く海外旅行したい」などと言っている人は、自分がどのような待遇を受ける人種なのかを理解した上でそのような発言をすべきだ。

もちろん、私は人種差別を肯定しているわけではない。しかし、人種差別をなくしたいという理想主義と現状として差別がある中でどう行動するかの現実主義の狭間で自分の採るべきスタンスを確立する必要があるといっているのだ。

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