「自分」が先。「情報」が後。
「もっと気楽に、ハーブを楽しんでくれたらいいのに。わたしの伝えたい事はそういうことなの。」
わたしにはとても気に入っているハーブティーのお店があって、オリジナルブレンドを作ってもらいにアトリエにお邪魔させてもらうことがある。
魔女の宅急便のキキのお母さんが薬を作っているシーンのような、秘密の隠れ家みたいなアトリエ。
そこでオーナーのNさん(小学生2人のママで、ふんわりとした雰囲気でいろんなものを受け止めてくれる素敵な方。わたしはおしゃべりするのが楽しみで通っているの。)が、ふとそんなことを言っていた。
「1日に何杯飲んだらいいのかとか、いつ飲むといいかとか、そういうことを聞かれることも多いの。わたしも過去にハーブに助けてもらったから熱く語ってしまうこともあるけれど、そうやって頭でっかちに飲むものではないような気がするんだよね。」
「ハーブティはもっと生活に寄り添えるもので、楽しんでほしくて。」と。
そこから、きまりでガチガチになってしまう生き方は窮屈だよねというような話になったの。
自分の気持ちや感覚を信じていくって「自分」という軸がないとできない。
だから周りの情報にたよってしまって楽しめなくなるのかなと感じたので、ちょっとそこを紐解いていきます。
楽しむって、自分の気持ちをみつめること
「一日に何杯飲めばいいのか」「いつ飲むといいのか」みたいな用法容量を欲する世界と反対の飲み方ってどんな感じかというと、
「美味しいから飲む」
「飲みたいなと思った時に飲む」
「その時の気分で味を選ぶ」
こんなふうに自分の気持ちを大事にすることかな。
臨機応変で、楽しい・満たされる世界なんだと思います。
もちろん、熱いお湯を使うとか、5分蒸らしてから飲むとか、ハーブティーをよりおいしく味わえたり、成分をとりやすい飲み方というのはあるのね。
だけど、その「飲み方」が先にくるんじゃなくて、「自分の気持ち」で選んだあとに「飲み方」という情報を使うといいんだと思うの。
順番が違う。
自分の基準(気持ち)が先で、まわりからの情報は後。
日常のあらゆる場面で同じこと起こっている
これって、実生活のいろんなところで同じようなことが起こっているなあと思います。
例えば、子育ての場面。
オムツは何歳までにとらなきゃいけないの?
子どもに習い事をさせたほうがいいのかしら?
転勤族だったらこんな感じ。
家族は一緒にいたほうがいいのかな?
転校はかわいそうってみんな言うからどうしよう?
まわりからの情報が先にきちゃっていて、自分や家族はどうしたいかが後になっちゃっている。
子どもの習い事だったら、子どものやりたい!これが好き!という気持ちが先にあって、じゃあ幼稚園ではそれはできないから教室に通ってみようか、どんな教室があるか調べてみようか、となるのがいいんじゃないかな。
スマホを開けばどんなこともすぐ調べられて情報を得やすい世の中になったけれど、だからこそ窮屈になってしまったこともあるよね。
「自分」が先。「情報」が後。
これを意識すると、楽しいことが増えると感じています。