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王家の血統と大河の源流〜宝船と黒船が運んだもの

太古の昔より、土地を追われた王家が生き延びるには大きく二つの方法がありました。一つは武力で他国の支配者を滅ぼしその土地と臣民を征服すること。もう一つは自国と他国の皇子(天子)と皇女(巫女)が血縁を結ぶこと。洋の東西を問わず〝戦争〟か〝婚姻〟が、王家の高貴な血統を守り財産を流出させないための有効な戦略でした。

人類初の王家の争い「カインとアベル」

しかし、先祖代々受け継いだ土地と誇り高き高貴な血統を守るには、近親婚を繰り返したエジプトのプトレマイオス王朝やスペインのハプスブルク家のように劣勢遺伝による血脈断絶のリスクがつきものです。歴史ある英国王室の高貴なる継承においてはチューダー王朝とスコットランド王家の王冠連合(Union of the Crowns)や、フランス王室やドイツ王族との婚姻、果ては北欧バイキング王との混血もありました。当時のイギリスとフランスは、現在の我々が持つ国境の概念による別の国という認識でなく、たまたまヨーロッパ大陸とブリテン島にまたがった同族の親戚のような関係で、両国は15世紀の百年戦争までは同じ十字の盾紋章を使っていました。そして、そのような同じ王族同士で姻戚関係を結ぶのはごく自然なことでした。

プトレマイオス朝ファラオ「クレオパトラ」の最期

これは大陸の東の端の「分かれて百余国を成す」古代卑弥呼の時代や、70余りの律令国家が林立していた近世までの日本列島と大陸や半島との関係にも当てはまりそうです。同じユーラシア大陸の西の端、ブリテン島の王家と同じように、東の端の葦原中津国でも王家断絶の危機は幾度もあったはずです。古事記の国産みの際に伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれた水蛭子(ひるこ)は不具の皇子でした。また、記紀に登場する誉田別命(ホムタワケノミコト)=応神天皇は30歳になり胸までヒゲが伸びても言葉が話せず、泣く様子は子供のようだったと記録にあります(ホムタワケ=ほむ〝たわけ〟)。子供の生存率の低かった太古の時代、王族たちは貴重な輝石の翡翠を胎児の形に加工した勾玉を拝み、玉のような子孫を授かることを祈り願ったのです。

国産みの神に葦舟で流される水蛭子

王の血を引く皇子(王=玉)が王家(家=宀)に収まると「宝(=子宝)」となります。血脈断絶の危機と裏腹の王家にとってはまさにお宝。王子、王女を載せた帆船が欧州と英国とを結んだように、皇子(天子)と皇女(巫女)を載せた玉の輿(王の乗物)は大陸と倭国を結ぶべく日本海を渡りました。そして、この〝海上版玉の輿〟のことを「宝船」と呼んだのではないでしょうか。宝船の絵に描かれる大黒天と恵比寿天はいずれも出雲王家の大王と副王である大国主命と少彦名と同一の神さま。弁財天は家計(弁財)を与る母親で、寿老人と福禄寿は祖父とその兄弟。叔父の布袋尊の職業は僧侶(教師)で、従兄弟の毘沙門天は兵士(警察官)…と考えると、七福神は年齢も職業も様々な親戚一同に見えてきます。帆に大きく〝壽〟の文字を掲げる宝船の正体は、子孫の華燭の宴に赴く親族の船ではなかったでしょうか。

〝海上版玉の輿〟宝船

現在とは国境概念が違い人口も少ない太古の時代は、日本列島は一つの国家ではなく、誰の国でもない空き地もたくさんありました。大陸や半島から日本列島への往来は侵略でも占領でもなく、上陸した民族は同じ海上公園に遊びに来た別の家族のようなものです。宝船に乗って島根県石見国に渡来した天火明命(あめのほあかりのみこと)や、北九州の筑紫国に天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、半島の皇子として但馬国に侵入した天之日矛(あめのひぼこ)や、実名が〝大海を渡ってきた皇子(=大海人皇子 おおあまのみこ)〟と読める天武天皇など、王家の血統を繋いださまざまな神々はその時代ごとその土地に必要とされる恵み(稲作、土木、漢字、律令、機織など)と文化(祭祀、宗教、芸能、富本銭、徴税など)を土着の民族(縄文人)にもたらし、後の世まで神(守)と崇められたのです。

人間は恵みまたは災いをもたらすものを神と崇める

宝船がもたらす恵みと文化は時代と共に変わります。遣唐使という名の宝船は、大陸の漢民族の文字文化や新しい祭祀(密教)を運んできました。遣唐使と言いながら日本書紀によれば日本から中国への派遣が200〜500人規模なのに対し、中国から日本へは2000人規模で何度も渡来しています。最澄と共に海を渡った空海は流暢な中国語で唐の役人の言葉を通訳し、当初20年の予定だった留学期間を僅か2年という短期間のうちに、唐本土の弟子たちを差し置いて密教奥義の全てを伝授され、さらに景教ほか大陸の最先端技術を一気にマスターして帰国します。しかし、果たしてこんなに早く帰国した空海は、桓武天皇に送り出され最澄と共に渡航した空海と同一人物だったのでしょうか…

遣唐使よりも多かった〝遣日使〟こそ宝船だった

唐に渡る前は最澄より若く身分も遥かに格下だった空海が、帰国後に嵯峨天皇が実権を握ると突如都に招かれ単なる宗教家の域を超え、学校教育、薬学、かな文字創作、そして最新の土木建築技術を駆使しての灌漑工事や温泉の掘削など、国政の中枢で国家の近代化を推進します。しかし、共に中国に渡った最澄が何度面会を求めても、空海は漢文による手紙のやり取りはしても生涯にわたって一度も最澄と面会することはありませんでした。会えば別人であることが分かるからではないでしょうか。空海を阿吽の呼吸で重用した嵯峨天皇も空海と並ぶ「三筆」と謳われるほど漢字に達者でしたが、実は二人とも異国から宝船でやって来た漢人だとするとすべての辻褄が合います。実際、空海の周辺には徐福の子孫と言われる秦氏が多くいました。ちなみに「弘法も筆の誤り」と言われた空海の文字ですが素人の私には達筆には見えません。三筆とは能書の上手さではなく漢語のネイティブという意味ではなかったでしょうか。

最澄はすり替わった(?)空海に会えなかった

ある国の文化や文明をどこの国の宝船が運んできたかは、その国の言語の成り立ちを見れば分かります。英語の語彙の多くは、ラテン語(古代ローマ)、フランス語(ノルマンディ公)、ドイツ語(ゲルマン民族)、ノルド語(バイキング)に語源があります。フランスから英国プランタジネット王朝に入った〝獅子心王〟リチャード1世(Richard the Lionheart)は英国王なのに生涯フランス語で通しました。スチュアート王朝時代のスコットランド王ジェームズ1世は強い北欧訛りのスコットランド語を話し、ハノーバー朝ではドイツ人のジョージ1世が戴冠しています。ユーラシア大陸西の端のブリテン島の英語(King's English)は、さまざまな言語の混血なのです。

〝ライオンハート〟リチャード1世

かたやユーラシア大陸東の日本列島の出雲王朝旧家には、インダス文字らしき横書き(出雲文字?)で記された古文書が伝わっています。島根県松江地方の神事にはインドの黒人のように顔を墨で黒く塗るお祭りがあります。また、風土記の記述には兵庫県北部の但馬の国に、当時の日本海の往来に必須の外来語(朝鮮語)にネイティブな通訳の存在が記されています。紀元前18世紀にアーリア人の侵攻でインダス文明が崩壊した頃、大陸から日本列島に違う遺伝子の混入があったことが最新の遺伝子研究で解明されています。紀元前のこの頃既にモンゴロイド民族は貿易風に逆らって帆船で南太平洋のフィジー島まで到達しています。彼らにとってみれば紀元後の卑弥呼の時代に大陸の内海のような日本海を往来することなど、裏庭を通って母屋と離れを往き来する程度のことだったでしょう。

黒く塗るのはインド由来?

こうして日本海東岸の日本列島の北陸〜中国地方の海上公園で遊んでいた他民族たちは、欧州の地中海貿易のような「日本海貿易」で栄えました。戦国時代の前田利家の子孫が江戸時代に徳川家をも凌ぐ「加賀百万石」の財を成した加賀藩も、この地域の出雲王族が発祥です。越前、越中、越後など北陸地方の「越の国」は、紀元前3世紀に滅亡した「呉越同舟」の故事で有名な大陸沿岸部の「越」と同じ国名です。つまり、かつてアーリア人に追われたインダス文明の末裔が海を渡って出雲まで到達したように、中国の春秋戦国の戦乱によって圧迫された越の難民が、日本海を渡って北陸に築いたのが「越の国」だったのではないでしょうか。

呉越同舟の越からの移民が北陸の越の国を作ったのか

ちなみに「因幡の白兎」の神話で、多くの兄弟が誰一人助けなかった〝鰐に襲われた白兎〟を助けたのが大国主命でしたが、これは出雲王家の同盟国(兄弟)が見捨てたインドからの難民(白兎)を助け、土地(因幡地方)を与えたのが出雲王朝(大国主命)だったという史実が神話になったのではないでしょうか。この出雲王朝勢力圏にあった〝インド(印度)の旗(幡)〟とも読める「印幡(因幡)国」には、インダス由来の民族の旗が翻っていたのかもしれません。北陸、九州、東北の言葉に東京人が聞き取れないような方言があるのは、ブリテン島の英語(King's English)の成り立ちと同様、日本語形成過程において、中国語、朝鮮語、タミル語などさまざまな民族の言語が混淆した名残りなのかもしれません。ちなみに〝西のズーズー弁〟と言われる島根県東部の方言は、大彦一族ら古代出雲の落人たちによって関東北部から東北一帯に広がったのだと思います。

「印(因)幡」とは印度の旗のこと?

古代中国の陰陽五行説に基づく十干十二支の暦は〝植物の成長過程〟を表していると言われます。しかし、十干(木火土金水×陰陽)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の組合せによる60年(還暦)というサイクルは、実は植物の成長になぞらえた〝王家の子孫繁栄〟のガイドではないかと思うのです。この暦に従って還暦を一つの目安として、他の王家との間で新しい「宝」を贈答することが、王家の血脈の継承と財産散逸の絶妙なバランスを保つための、易学という最先端科学に基づいた王家の婚姻戦略だったのではないでしょうか。

陰陽五行は古代王家の婚姻戦略

古代出雲王朝では、西出雲王国の富家(登美家)と東出雲王国の郷戸家(神門家)が、交代で大王と副王を立てる穏便な政権交代で平和裡に国を治めていました。毎年神無月に縁結びの合議を行いながら、神武東征までの約500年のあいだに東西で合計8度の政権交代がありました。約500年で8回というのは、陰陽五行説の還暦や出雲大社の大遷宮の60年サイクルとピタリと符合します。毎年10月恒例の縁結び合議の決定を踏まえ、60年に一度、陰陽五行の科学的根拠に従って宝船を贈答したからこそ、古代出雲王朝は500年以上もの長きに亘って子孫が繁栄できたのだと思うのです。

八百万の神とは日本各地を治めていた支配者たちのこと

日本の風土記で年号が不明な出来事は、大陸の先進国の史書「東夷伝」や三国志「魏書」など年号の記述のある古史と照合すれば時代が特定できます。紀元前2世紀に山東省の港から秦王朝の宝船で筑紫へ渡来した徐福の子孫の物部家の船が、紀元2世紀に九州の港を出港し「神武東征」の名の下に出雲王朝の日本海貿易利権を狙いました。今回の彼らの船は「宝船」ではなく「黒船」だったので「倭国は大いに乱れ」ました。土着の「幸の神」を奉じる出雲王朝と、大陸の徐福由来の「道教(=鬼道)」を奉じる物部王朝は、宗教戦争を挟む二度にわたる出雲戦争を戦い、最終的に出雲の主筋は東国へと放逐されました。

渡来人(徐福)はいつも新しい宗教(道教)を持ち込んだ

第二次出雲戦争に敗北した西出雲の国玖流(くにくる)王(孝元天皇)の嫡子は富家を名乗れなくなり、宗教戦争の紛争地だった摂津の阿武山や伊賀の敢国(あへこく)に因んであべ姓を名乗り奥州の阿部一族の祖となりました。そして、東国の武蔵国を含む東日本を統一し、大和朝廷と並ぶ日高見王朝を開きました。奈良の正統な朝廷から見た時に都合の悪い対立国が「蝦夷」と呼ばれ、鬼門に封じられ歴史の表舞台から見えなくなるのは、エジプト王朝のファラオの名が王名表から抹消されるのと同じ世界標準の勝者の歴史です。後の時代に日高見国の末裔で東の新皇を宣言した平将門の次男将国は、のちに都に出て祖先の安倍姓を名乗り陰陽師として成功したと言われます。一方、出雲に残った王家の主筋は徐福の子孫をはじめ、尾張家、毛利家、徳川家などと婚姻を結び、戦国時代まで大和朝廷内に血脈を繋ぎました。

安倍晴明に流れる古代出雲王家の血

ちなみに安倍晴明の家紋〝五芒星〟は、平将門の乱の際に将門を裏切った将門の側室「桔梗姫」に因む〝桔梗紋〟の変形ですが、将門討伐の象徴とも取れる家紋と晴明の成功には何か関係でもあるのでしょうか。そして、出雲王家ゆかりの尾張の信長を討った明智光秀の家紋も桔梗紋でした。平将門の家紋は〝九曜星〟で、その将門を射った将門の異祖母従兄弟の平貞盛の子孫の平清盛は〝揚羽蝶紋〟でした。保元の乱でその清盛側についた〝笹竜胆(ささりんどう)紋〟の源氏の義朝と異母兄弟の為朝(鎮西八郎)は対立しています。その後の平治の乱で平家は隆盛を極めましたが、のちの源平合戦で滅ぼされたのは清盛の祖先に討たれた将門の怨念だったのかもしれません。さらに時代が下った幕末に、桔梗紋の坂本龍馬を討った人物は果たして信長や将門に繋がる血脈の家紋だったのでしょうか。源氏や平家といった氏(うじ)や姓(かばね)だけでなく、宝船という玉の輿に乗ってやってきた〝家紋〟の源流を辿るとこれまでとは違う歴史の対立構図が浮かび上がりそうです。

(左上)五芒星 (右上)桔梗 (左下)笹竜胆 (右下)揚羽蝶

宝船は子宝や宗教や家紋のみならず、異国から最先端の都市開発やインフラ整備、最新軍事情報も運んできます。古代出雲王朝に繋がる尾張王国の革命家織田信長に革新をもたらしたのも、まさにこの異国からの宝船でした。関所を撤廃した信長は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世(BC550-BC486)の馳道に遅れること千有余年、秦の始皇帝(BC247-210)の皇帝道路やローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(BC63-AD14)のローマ街道に倣った京へと続く街道を整備します。最新兵器(鉄砲)による兵法の革新、西欧の築城技術による安土城、ローマ兵のごとき兵農分離、楽市楽座による行政改革などと中央集権化を推進できたのは、当時世界の植民地支配をスペインと二分していたポルトガル船でイエズス軍事顧問により運ばれた世界標準のお宝にほかなりません。

大国は宝船の最新兵器と先端技術で非文明国を支配する

豊臣政権の石田三成ら新興勢力を相手に、伝統の出雲の血統を継ぐ浅野行長や細川忠興らと共に関ヶ原を勝ち抜いた徳川家康の元に渡来した宝船には、スペイン独立戦争に勝利したオランダから払い下げられたキャノン砲が積載されていました。信長が手にしたお宝である鉄砲の威力を遥かに凌ぐ大砲の破壊力を手に入れた家康は、大坂夏の陣で豊臣王朝を秒殺します。家康は植民地支配を狙うカトリックのポルトガルの黒船は排除しつつ、穏健なプロテスタントのオランダの宝船は受け入れます。1529年にスペインとポルトガルで地球を分割した「サラゴサ条約」の東経133度線は岡山付近で日本列島を二分しますが、日本ではインド航路を使うポルトガルのために開かれた長崎が、幕末にアメリカの黒船が浦賀に来航するまで長く宝船の寄港地だったのです。

大坂夏の陣のキャノン砲はオランダ独立戦争のお下がり

太古の昔から日本史の大河の流れを変えたのは、いつの時代も海を越えてやって来る宝船に積まれた先進文化と最新兵器でした。幕末には英国の宝船で運ばれた船一杯の産業革命のお宝を前に、それまで反目し合っていた薩摩と長州はあっさり手を結びます。戊辰戦争で幕府軍や抵抗勢力を北の最果てまで駆逐したお宝は、南北戦争が終わり米国で不要になった英国製アームストロング長距離ミサイルと、戦国時代の戦場でポルトガル製のマントを颯爽と翻した信長のごとく、南北戦争北軍の軍服と金髪のかつらを身につけ、マーチングバンド(鼓笛隊)で颯爽と行進し、まるで白人のように顔に白粉を塗った天皇を奉じた、倒幕維新軍の近代的な西洋式軍事作戦でした。

グラバー商会ら武器商人が明治維新の推進力

邪馬台国論争、桶狭間の奇襲、比叡山焼き討ち、本能寺の変、利休の切腹、龍馬暗殺、明治維新…歴史学者が何十年も堂々巡りを続ける終わらない〝歴史の謎〟を解明するには、王家の血統を古代の源流まで遡り、そこに異次元の推進力を与えた異国の宝船の積荷を検証することです。「英国史」「フランス史」「ドイツ史」「中国史」「日本史」という現在の国境で区切られた細く小さな支流に囚われることなく、宝船がはるばる航海してきたもっと大きな「地球史」という大海を俯瞰(Cross-reference)しない限り、小さな小川の〝歴史の謎〟は永遠に解明されることはないでしょう。〝真実の歴史〟とはほど遠い小説や伝記の英雄譚など、単なる子供騙しのフィクションに過ぎません。

黒船は紀元前より何度も日本列島に来航していた

そしてさらには、私たちの宇宙船地球号とも呼べるこの惑星が航海する果てしない銀河の広がる大宇宙には、惑星という境界線で区切られたたった一つの「地球史」という大河だけでなく、数多の「銀河史」という大河が次元を超えて流れているに違いありません。それら異次元の大河を結ぶ〝銀河版玉の輿(宝船=宇宙船)〟が往来する多次元の大海原を高次の視座から俯瞰しない限り、この地球の〝真実の歴史〟は解明できないのかも知れません゚・:,。☆

プレアデス星団から宇宙の大海原を飛来して運ばれた「九曜星」は平将門、細川家、九鬼家、安部家などの家紋に継承されています

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