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性別の明示は必要か考えてみる


最近、noteで見つけた文章に、
"性別と年代が分からない人が書いたエッセイには感情移入できない"というのをみつけて、
"たしかにっ。"と思いました。

と、同時にモヤっともしたので、
性別と年齢を明らかにせずにエッセイのようなもの?を書いている身として、これに反論してみようと思います。

元々のnoteを見失ってしまい、
うろ覚えなので、何に対して反論しているのか読んでいる方は分からないかも知れませんが、
一応書いてみます。


恐らく、そのnoteにあった"書き手の性別と年代がわかったほうが、読みやすくなる"というのは、マジョリティには肯定されやすい説だと思うので、マイノリティの立場に立って否定してみるという試みです。
保身のためではなく、こういう反論もできるんじゃないかという、提案のようなものです。

前置きが長いか。。
ではひとまず、


SNSの匿名性は必要か?

iPhone歴は8年ほどになるのに、SNSをちゃんと使い始めたのはここ数ヶ月という、不思議な生き方をしています。

Twitterとnoteについては、今年の1月から始めて、アカウントというものを人生で初めて作りました。

呟くことが特にないので、文章を書いて発信するのはnoteくらいですが、そこにひとつだけルールを自分に設けています。

性別を明らかにしないこと
です。


ニックネームも、プロフィール写真も謎。
文章にも性別を想像できる要素を極力排除してみました。

なぜそうしたのかというと、
身元を特定できる情報がNGな訳ではなく、
恥ずかしいからでもなく、、

自分を構成する要素はそこに無いのに、
(と自分は思っているのに)
他人(ひと)からは、その要素によって勝手に自分が色付されて見られることに、飽きてしまったからです。

うんざりしたとか、正しく理解してもらうことに疲れたとかではなく、あくまで
飽きてしまったから、です。

実際にnoteを書き始めてみると、年齢はある程度分からないと理解が難しいネタとかもあるので、なんとなくの年代には触れますが、性別は明示しなくても今のところ書けています。
実際のところ、性別を明示した方が書きたいことをかけたりして書きすすめやすいんですが。。

性別を意識せずに文章を書くことの楽しさは、
性別が特定される要素を排除する面倒を上回りました。

そこでやっと
"自分の発言には性別によるフィルターが勝手にかけられて読まれるんじゃないか?"
という意識にいままで自身が支配されていたことに気づきました。

匿名性によって、
勝手にかけられるフィルターをすべて外してフリーな発言ができるという気持ちよさを初めて知ったのです。

匿名で発言できるSNSのデメリットも、ある程度理解しているつもりですが、
ただ発信したいことをそのまま伝える分には特に支障がないと、少なくとも今のところは思ってます。

そして、匿名で投稿できることによって、いろんな雑音をシャットアウトできるというメリットは何ものにも代えがたいのです。


アイデンティティとは?

"identity"という単語を知ったのは高校生の時でした。
比較的、教えられたことをそのまま鵜呑みにするタイプの、素直な(おバカともいう)学生だったので、
そのとき先生が言った通り、
性別、出身地、家族、学校が自分のアイデンティティなんだと、何の疑いも持たずに理解しました。

自分を構成している要素は、そこにあるのだという刷り込みにも特には疑問を持ちませんでした。


自己紹介の時は、名前と出身と所属(学校なら学科やクラス、会社なら事業部など)を言うこと。
履歴書などの書面は、最初に名前と男女のどちらかに◯をつける欄に記入すること、
それを当たり前のことだと受け入れたまま大学生になり、社会人になりました。

でも、その情報がその人を知るために必要な情報かというと、本質的な意味ではNOだと思っています。

そこに意味を持たせたい人と、そうでない人で別れると思います。

例えば"30代独身男性・アニメが好き"というようなプロフィールを書く人は、それが自分を理解してもらう上で一番有効な情報だと思って書いているのかも知れません。
でも、実際にそんな人は日本だけで数十万、数百万以上いるかも知れなくて、その人たちの特性は掴みきれないはずです。
それでも、敢えて自分がそういう属性であることを書くからには"きっとこういう人だと思われるだろうな。そうなんです、実際そういう人なんです。"か、"きっと意外に思われると思うけど、実は料理上手いんです。"(実際に意外かどうかは不明)みたいに、ステレオタイプなイメージを相手に持たせた上で、自分の文章を読んで欲しいという意図があるのだと勝手に想像しています。

ただひとつ断っておくと、そういうプロフィールを書いた上で発言したり作品を発表する人はその人の意図もあったりするし、それぞれのアイデンティティの持ち方もあるので、それを否定するわけでは全くありません。

対して、自分はアイデンティティをどこに持つのかは人それぞれなので、極論"自分は自分"だと思っています。(ヒップホップ風にいえば、"レペゼン自分")
それでいいんじゃないかと。


プロフィールとは

恐らくエッセイに限らず、小説も、記事も、漫画も、論文も誰が書いたかで読み方が変わるであろうと思っています。

(タイムリーに、鬼滅の刃の作者が女性だったことでザワついているのを知って、ずっと下書きに放置していたこのnoteを1ヶ月ぶりに引っ張り出して書き始めたんですが。。)

もしかすると、肯定的に読めるか、否定的に読むのかすら変わる可能性があるかも知れません。


確かに、性別・年齢・出身地・職業・肩書きがかいてあるプロフィールがあったり、なんなら顔写真も付いている人の書く文章は読みやすい。
この事実は、否定しません。

本を読んだあとに必ず筆者の写真とプロフィールを見て、"なるほど"とか"マジか。。"と、作品を全く別の次元で評価している自分も実際にいました。(高校生くらいのころ)

でも、いうまでもなく本当はそこ(プロフィール)にその人の本質は書かれてなくて、その人の書く文章こそがその人の本質なわけです。

プロフィールによって、その人の作品に勝手に色付けしてしまっている可能性に警鐘を鳴らしたいのです。


マイノリティに属する人の方が、恐らくプロフィールによって判断される被害が大きく、
女性である、LGBTQ +である、障がい者である、外国人であるとプロフィールに書けば、
レペゼン女性、レペゼンLGBT、レペゼン障がい者、レペゼン外国人として文章が読まれることにすごく違和感を持ちます。
"別にレペゼンしてねーし!"ってことです。
たとえもしラップでレペゼンしても、人生全てでレペゼンしませんよ、さすがに。。

"40代主婦=料理と子どもが好き"ではないし、"IT企業社長=金持ち・女好きの男性"でないのと同レベルの話だと思います。


最後に。

ということで、今後もしばらくは性別を明かさずに文章を書き続けてみようと思っています。

大学のゼミで、"一目では男性か女性か分からない人がいたら確認したくなるか?"という質問に、1人を除いてみんな"確認する!"と答えたことを思い出しました。
ちなみに、私も"確認したくなる"うちの1人でした。少なくともその時は。
なぜひとは相手の性別を知りたいのか、というその時の疑問には、未だに答えが見つかりません。性別を知ることで何を判別したいと思うのか、とても興味深いところです。
相手が異性であれば、恋愛に発展する可能性を必ず秘めている訳でもないのに。
というか、そもそも性別は男性・女性の二択ですらないのに。

同様にプロフィール欄の性別や年齢を確認したい人は、それを知ることで何を得るのでしょう?
それを知るためにも、実験的にプロフィールには性別を書かないことをしばらく徹底してみようかと思います。

最初に前置きしたように、これはもしかするとマイノリティ側にしか支持されない意見かも知れません。

でも、
"マジョリティに属するひとが、マイノリティの存在を認める"という構図は本来のダイバーシティではなく、
《すべての個人が同等に扱われる権利を持つことがダイバーシティだとすれば、
マイノリティが一括りで語られる現在は、ダイバーシティからかけ離れていると気づくこと》に、一石を投じるアクションのひとつとなることを願っています。


"この文章書いてるひとLGBTかなと思ってたけど、やっぱそうなんだ。なるほどね。"というような読み方をする人が少しでも減っていきますように。。

ちなみに、自分がLGBTかどうかも明示するつもりはありません。
ただの、noteを書いている人間です。


以上、読みづらい長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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