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生きるという事

世界には色々な人生があり、生き方がある。自らそう望みそれを真っ直ぐに歩める者。自らの望みとは正反対に歩んでしまう者。自らの意思とは関係なく、そう歩まざる得ない者。そしてそれぞれがそれぞれの人生を精一杯に生きている。この自ら求めたわけではない「生」を。しがらみや葛藤を抱えながら。

最近思う。生きるとは何と苦しい事なのだろうかと。世の中には病気で苦しむ人も環境に振り回され苦しむ人もいる。しかし、そうで無くても、何も無いただ平凡な日々がとてつもなく、途方もなく苦しいと思う事があると思う。それはたぶん誰にでも必ずあると思う。ゴーダマ・シッダールタが「生」を「苦」と説いたその意味が何となく分かるような気がする。

この途方もない旅を自分は何処に向かっているのだろうか?分からなくなる。

自死や自殺を肯定するわけではないが、人は誰しも「死にたい」と思う事があるのだろうと思う。もちろん全くそういう感情が湧かない人もいるだろう。しかし、思った事がある人の方が多数派だろう。ただ一般的に死なないし、死ねない。それは「死」が恐怖を感じるもので、それを恐怖と感じる踏み留まれる何かがあるからだと思う。

逆にそれが無い人は死を選択してしまうという事になる。人間誰しも死にたくはない。できることなら生き続けたい。それは死後、自分がどうなるのか分からないから。誰も経験した事はないし、見た事もないから。だから人間は死を恐怖する。そういう事を考えられる、思考できる高度な知能を持つ人間だからこそ、死を恐怖し、恐れる。しかし、人は必ず死ぬ。永遠に生き続ける事など不可能だ。

ただ、それくらい死は人間にとって恐怖を感じる概念で、「今の苦」と「死への恐怖」を天秤に掛けた時、今の苦が死への恐怖に勝ってしまう、死を選択させてしまうような苦はなかなか感じる事は無いし、それを感じている人の心情をそれを感じた事の無い人が理解する事はたぶんできない。

死にたいと思う事自体は、誰にでもある事でそれ自体は決しておかしな事ではないし、悪でも無いと思う。ただ、命は自ら創造したものでは無い。自らの意思に関係なく自然の摂理の中で与えられているものだ。故に自分の「もの」ではない。ただ用いる事を許されているに過ぎない。であるなら、何人もそれを奪う事は許されないし、罪であると思う。たとえそれが自分自身であっても。

命は尊い。それはその起源に生物の意思が関与していないからだと思う。だからこそ、その尊さを冒涜するような事をしてはならない。その起源に関与して無いものが命の価値や長さを決める権利は無いと僕は思う。

まだまだ生きられるのに死にたい人はいるし、間近に死が迫ってきていても死にたく無い人もいる。この二つは性質が異なるので安易に比較し、批評する事はできない。ただ、どちらも「苦」である事は確かだ。

生きる事に感謝するという考え方には、生きる事が善であるという前提があるし、生きる事を楽しむというのは生きる事が楽しい事という前提がある。ただ、本当に生きる事は善で楽しい事なのか?

生きる事に善の要素を見出せない人に感謝という感情が湧くわけはないし、生きる事が苦しくてしょうがない人にそれを楽しむ事はできない。結局のところこういう価値観はその人が生きてきた人生の善と悪の要素の比率で決まるのだと思う。

今までの自分の人生に善の要素が多い人は、生きる事を善として感謝する事も楽しむ事もできるし、悪の要素が多い人は、感謝する事も楽しむ事もできない。そしてその比率を決める要素は自分の努力で何とかなる部分と自分ではどうする事もできない部分があって、その部分的な比率も人によって違う。要するに生きる事に充実感のある人は、自分の関与できない部分が恵まれているのだ。その中で苦を感じる事があったとしても結局トータル的に善の要素が上回るようになっているという事だと思う。

しかしこういう要素を嘆き、僻んだところで、それらが変わるわけではないし、結局それぞれがそれなりの人生を送るしかない。恵まれた人は恵まれたように、恵まれ無い人は恵まれ無いように生きていくしか無いのだと思う。

生きる事が善とは限らないし、もし悪であるなら、生きる事は「苦」なのかもしれない。生きていかなければならないという「苦」を科されているのかもしれない。

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