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焦燥の赤い糸③

焦燥

私たちが次に会うことになったのは、出会ってから2週間目の事だった。インターネットの発展のなんとありがたいことだろう。大人になれば、独身でも週末に予定があって期間が開いてしまうことなんてよくある話だ。そして大人になってよかったことは、2週間という期間が、あっという間に過ぎて行く事。その間にも、私たちはラインや電話で少しずつ距離を埋めていけていた。
 着信が鳴るたびに気になるスマホ、入浴後に着信がないか見る癖がつくなんて、私には考えられないことだった。30代になってから、彼氏らしい彼氏がいたのは確か一人だけ。32歳の誕生日の前日に突然別れを告げてきたあの男は、結婚を焦っていた私にとんでもない呪いを受けたに違いない。今となっては現在の私の人生の踏み台としか思えなくなっているが。

 地下から潮風が流れてくる。駅構内にあるベンチに座りながら、この電車を待っていた。日曜日の地下街はいつもとは違う様相を見せていて、真っ黒に染まる人の波も、今日は鮮やかだ。ここまでの緊張感は、もう何年も経験していない。穏やかに私に笑いかけた彼は、スーツ姿の時よりもずっと近くに感じられて、私の足を前に進めさせる。一度は結婚を諦めたのだ。相変わらずまっすぐに伸びた有明への赤い糸は、どこにも寄り道なんてさせないくらいにきれいなままで、どこも弛むことはない。
 それなら今日一日くらい、そんなこと忘れさせてくれたっていいじゃないか。今まで互い違いに伸びていた糸をほくそ笑んでいたことは棚に上げて、自分が届かない幸せに苦しむ様は、自分で見ても滑稽で泣きたくなる。

 「どうかしたんですか?」
 「え?」
 「思いつめてました。凄く」

 映画館の飲み物を買いに行っていた彼が、心配そうにのぞき込む。少し彫りの深い顔立ちに長いまつ毛で影がかった黒い瞳が、私をとらえている。受け取った飲み物のカップに着いた水滴が、手を濡らして滴り落ちた。

 「大丈夫です」
 「本当に?」
 「本当に」

 無理に作った笑顔を、彼はどう見ていただろう。信じてくれるはずがない運命の赤い糸なんて、言ってもヤバいおばさん扱いにしかならない。『運命の赤い糸』……なんて歯の浮く言葉なのか。
 こんなことなら、見えない時の方がよっぽど楽しい出会いになったはずなのだ。本当なら見えないはずの人生を縛るような糸で、一喜一憂する必要はないのに。映画の内容はお互いに期待外れで、苦笑いをしながら感想を言い合う。せめて彼が悲しまないように、不要な心配をさせないように、その後のデートを目いっぱい楽しんでいた。

 「あの……観覧車乗りませんか?」
 
 デートの終わり、彼に私は悩みながらも提案をする。

 「ありきたりかもしれないですけど、でも私、光ってる時の観覧車って乗ってみたかったんです」
 「あ、いいですね。言われてみれば、俺も日中の観覧車にしか乗ったことなかったかも」

 唐突に出した提案に、彼は無邪気に賛成してくれた。私の糸と彼の糸は、どこに繋がってるのか、高いところから見れば終着点が見えるような気がした。屈託なく笑って賛成する彼に、私もつられて子供みたいな笑顔になる。近くに行けばまぶしいくらいに輝いている観覧車は、目まぐるしく姿を変えて私たちを出迎えた。とっくに日が沈んでいるから、かえって色彩の毒々しさが際立っている。少しずつ上昇するゴンドラの中に2人きりの状況は、緊張をより強くさせる。観覧車の光に合わせて、2つの赤い糸はキラキラ反射して光っているが、向かい合っている彼には見えていないだろう。穏やかで複雑な沈黙が続いている。
 私の糸の先は、やはり果てしなく遠い海の向こうで、地平線のはるか向こうに続いていた。彼の小指からは程遠く、対してその持ち主から伸びた糸は私の腹部を突きさして、駅に向かうように長く進んでいく。街の光を反射させながら少しずつ暗くなっていく糸を見た。

 「夜の海ってきれいですね。真っ暗で何もないかと思ってました」
 「何も反射するものがない真っ暗な海も、私は実は好きです」
 「何も見えないんじゃないの?」
 「見えないから好きなんです。余計なもの見なくて済むじゃないですか。海の音だけが聞こえて後は何も見えないって不思議な感覚になります」
 「真っ暗な海に一人で行くって、結構勇者だと思いますよ」
 
 次の日から、いつもと変わらない日々が流れていく。彼とはあれから何度かデートを重ねて、いつもそばに感じられることが自然になった。糸は相変わらず短くならないまま、私の指に絡みついている。絡みついているのは、小指だけにとどまっていないのかもしれない。少しずつ触手を私に伸ばしてくるように、実は体中に巻き付いているのではないだろうか。彼と糸への執着や葛藤は、私の精神を激しく上下させてくる。
 なぜ見えることになったのか分からないまま、縦横無尽に伸び続ける糸を会社の窓から眺めていると、突然課長に声をかけられた。

「ちょっと時間いい?今とりあえず簡単に話すだけでいいんだけど」
「はい、大丈夫です」
「前回やったプロジェクト、前任降りたでしょ?君がやって欲しいんだよね。好評でステップアップしたものがA社で欲しいって言うんだよ」
「ありがとうございます。お受けさせていただきます」

 物事は、私の憂いよりも前に前進している。強くなりだした太陽までも、私を後押ししていた。

 休日誰もいない部屋で、ため息をつきながらベッドに入ったままだらだらと私と誰かの糸で戯れている。彼は少し忙しいようで、連絡はしばらくない。私自身、休日はあるものの、これから起きる仕事のプロジェクトの計画が始まることで、忙しくはなるだろう。
 この糸さえなければ、子供じみた焼きもちや不安に襲われることなく、自身の時間を楽しんで待つことができたのに。この糸さえ見えなければ、その不安そのものだって楽しむことができたかもしれない。この糸さえなければ、この糸さえ見えなければ。焦燥にかられた気持ちは徐々に大きくなっていく。見れば見るほど狂ってしまいそうだ。
 彼に初めて会った時から、結ばれないことはわかっていた。この糸さえなければ彼とも結ばれる?海の先の相手に会えることがないのなら、糸なんてない方がいい。身もだえるような苦しみは、頼んでもないのにあるとき突然降りかかったのだ。本来なら気にする必要さえない人生のネタばれは、私を苦しみで押しつぶす。

 
 ……頼んでもないのに、見えるようになったのなら、切ってしまったっていいんじゃないだろうか。

 
 海の向こうの誰かが結婚できなくたって、私は知ったことではないのだ。大体、相手が36歳の私の事を知ったところで靡くはずがない。とっくに結婚して、幸せに暮らしているのかもしれない。結婚なんて考えていないかもしれないし、結婚の文化そのものが違っているかもしれない。もしかしたら、もうこの世にはいないのかもしれない。海の向こうの事なんてわかるはずもない。それならこんな糸、切ってしまえばいい。
 私は引き出しからはさみを取り出すと、糸に刃を当て断ち切った。あっけなく糸は切れて、窓の外にもう片方の切り口は消えて行った。どこか安堵したような抜け殻のような気持ちでいると、彼から電話が届いた。

 「話がしたくて」
 「久しぶりに声が聞けたから嬉しい。仕事はひと段落着いたの?」
 「……あのカフェで待ち合わせしないか」
 
 いつもより少し疲れたように感じるのは、気のせいだろうか。いつもならこまめに来ていた連絡も、最近は全くなかったほどだ、当然かもしれない。心配になりながらも、待ち合わせのカフェに向かう。彼と初めて会った日の事を思い出しながら。
 カウベルを鳴らすとコーヒーの香りを鼻に感じた。夕方のこの時間は、カフェよりもレストランの方が混みがちだ。彼はもう来ていて、あの日の私は彼にこんな風に映っていたのだと思わせた。いつもとは違った雰囲気の彼に、私は少し緊張する。他愛もない話ではないことは、それだけでよく伝わった。

 「何かあったの?」
 「どうして?」
 「いつもと違うから」
 「うん」

 短い会話に、一抹の不安を募らせる。反比例するかのように、長い沈黙が続く。覚悟を決めたような、彼のため息が漏れる。

 「転勤するよ、俺。こんな時期だけど、異例の昇進なんだ」
 「……」
 「多分、もう帰ってこれない。ずっと憧れていた地での仕事なんだ」
 
 彼の言葉とは思えないほどの一方的な言葉は、思っていたこととはかけ離れていた。私の事は連れて行ってくれないの?なんて言うことは私にはできない。長く会えない間の中で、これからの仕事のプロジェクトをさも楽しく話していたのだから。指先が冷たく、血の気が引いていく。何も考えられない中に1つだけ浮かんだ言葉は、願わくば、どうか行かないで……。

 「おめでとう」
 「本当は、君を連れて行きたかった。膨大な時間を割かせてしまって申し訳ない。」

 瞼を閉じて謝罪した彼は、苦しそうにも見え、また悲しく微笑み私を見つめる。「元気で」と小さく添えて、席を立つ彼の指から糸が伸びる。どこまでも続く長い糸を、手の上に乗せて辿って行った。するすると音を立てるようにして、糸は流れていく。いつもより弛んでいる糸は、きっと誰かのもとに向かっているのだろう。何を思いあがっていたのか、私に彼が向くことなんてあるはずがない。この糸は他の誰かのもとにたどり着く。
 そう思っていた時だった。糸は突然終わりになった。彼の糸は、誰とも繋がっていない。ただ長い糸を這わせているだけの男で、ずっと独身で過ごす運命だったのか。

 糸はすべて手から離れ、私は息を吐く。終わってしまった恋に、思いを馳せていたからではない。店内BGMが頭に響いて、冷えたコーヒーに涙が落ちる。あの糸さえなければ。あの糸さえ見えなければ。頼んだわけでもない能力は、何かの呪いでもあった。左の小指に残った糸を見る。私が切った糸の端は、彼の糸の先の切り口にきれいに合わさって消えていったのだ。
 
 

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