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「概説 静岡県史」第141回:「戦時下における「行」と「錬成」の教育」

 GWも過ぎ、やや休みボケの1週間でしたが、カレンダーを見ると、この先7月まで祝日が無いんですね。その事実を認識した時点で、すっかり気力を失いましたが、まぁ仕方がないですね。なんとか、ごまかしながら、残りの5月と、6月を乗り切るしかないですね。
 幸いなことに、とりあえず今週掲載できる原稿は出来たのですが、週末以外に休みが無いと、原稿を書く時間がなかなか無いので、しばらくはまた自転車操業でいかざるを得ないという、大変厳しい状況です。
 それでは「概説 静岡県史」第141回のテキストを掲載します。

第141回:「戦時下における「行」と「錬成」の教育」


 今回は、「戦時下における「行」と「錬成」の教育」というテーマでお話します。
 1931年(昭和6年)の満州事変の発生は15年戦争の幕開けであり、そのような非常事態に現今教育は「国体観念の動揺、日本精神に対する認識の不足」が感じられる、明治維新以来のヨーロッパ文化の輸入とそれへの模倣は、伝統的日本精神を忘れ切っており、今後世界人類の文化に寄与しようとするならば、東洋文化を益々切磋し琢磨しなければならない、そこから真の日本独特の日本精神がつくられると、水窪尋常高等小学校の『非常時を背景とした我校道徳教育』では、述べられています。
 日本精神を鍛える方法は、「行」の立場に立つことです。「行」とは実践するという意味ですが、特に修行を体験させることを意図しています。その「行」を行う場所が「道場」で、「行」のタイプとしては「祭式作法の実習、拝神行、禊(みそぎ)行、静坐、食事行、清掃行、起居動作」などがあげられます。
 戦時下における教育は、従来の教育が知識教育を中心とした知育偏重に陥っていると批判し、心身一如の教育の推進を企図していました。そこから「知」に対する「行」が構想され、「学校」に対する「道場」が設定されました。
 37年(昭和12年)7月、日中戦争が起こり、12月の南京攻略は県民を熱狂させました。14日、清水市内の小学校は旗行列の大行進を行い、夜には市民が辻、入江、清水、不二見、三保の各小学校に集まり、「天皇陛下万歳」、「皇軍万歳」を三唱した後、提灯行列に移り、全市挙げて灯の海、人の海となりました。
 その1年後、「支那事変」発生一周年記念行事が各学校で取り組まれました。磐田郡井通(いどおり)村、旧豊田町、現在磐田市の井通小学校では、一菜(いっさい)主義と勤労奉仕を実践し、武運を祈願し、戦没者慰霊祭を執り行いました。一菜主義とは、おかずを一種類だけにするということです。また10月からは銃後後援強化週間として、「各学校に於ては、本週実施の趣旨に関し、訓話を行ふの外、修身・習字・作文等の教材に之を採取し、戦没軍人及傷痍軍人に対する尊敬、感謝の念を涵養せしむると共に、戦没軍人の遺族の名誉に対する認識を深からしめ、以て少国民の強化、徹底を図ること」と、特に少国民の強化が図られました。
 8月には、県は地方物価委員会の答申に基づいて決定された「本県内最高標準販売価格」を告示し、物価統制に入ります。そのため、39年4月1日には学用品のノート、鉛筆、絵具、クレヨン、インク、墨汁、のり、消しゴム、そろばん、ランドセルなども最高販売価格が指定されました。
 1937年(昭和12年)、鎌倉の円覚寺において「行」を中心とする教員講習会が開かれると、それを契機に国民訓育連盟を結成しようという動きが高まり、翌年10月、東京の教育会館において国民訓育連盟創立総会が開催されました。趣意書には、
  日本教育の新理念は、訓育教育の本道を邁進することに依り、教化の真
 価を発揮せんとなすに到れりと断じられる。即ち知育、徳育、錬成に於て
 闡明(せんめい)にし、皇民としての訓育は、正しく日本精神に立つ具体
 的全体的な生命創造の教育を通じて実践され、よって以て知行合一、雄渾
 闊達(ゆうこんかったつ)なる新時代の道義人は生産せられるのである。
と述べられており、「訓育即教育」という考え方を基本的立場とし、訓育を通して「錬成」を積極的に取り入れていくとされています。
 国民訓育連盟は、国民学校発足以前における取り組みとして注目される実践校を多く擁していました。なかでも注目されたのは、千葉県の東金小学校と浜名郡神久呂(かくろ)村、現在浜松市の大久保小学校の2校です。
 国民訓育連盟は京都帝国大学教授の小西重直を顧問、青山師範学校教諭の草場弘が理事長で、特に草場は中心的指導者として、オーガナイザーかつアジテーターとして非常に活躍していました。その草場が激賞し、全国に名を売ったのが大久保小学校でした。子どもたちの一日の行動形態が事細かに訓育中心に様式化され、分刻みに動作化されていました。
 1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まる半年前、「国民学校令」が公布されました。「国民学校令」は「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」と明示され、「錬成」が教育の目的とされました。「錬成」とは「錬磨育成」の意味で、児童の全能力を練磨し、体力、思想、感情、意思など児童の全精神および身体を全一的に育成することであると説明されます。
 「錬成」は「皇国の道」という目的を不可分のものとして持つ教育方法の形態でもありました。従って「錬成」とは、皇国民たるに必要な資質を練磨育成するということになります。日本の学校史の中で、学校が「錬成」を目的とする機関とされたのはこの時期だけです。
 「国民学校令」の精神を個別具体化した一例が、磐田郡敷地(しきじ)村、旧豊岡村、現在磐田市の敷地国民学校の『決戦農村国民学校教育』に見ることができます。「皇国の道を修練せしめ」という目的や、「心身を一体として教育し、教授、訓練、養護の分離を避く」という方法、「教科外教育施設との連繋を密にし」という教科と教科外活動との一体化など、全国的に見られた実践形式です。
 引佐郡井伊谷(いいのや)村、旧引佐町、現在浜松市の井伊谷尋常小学校では、官幣大社の井伊谷宮があることから、1934年(昭和9年)、静岡県教育研究会の研究委託校として神祇尊重の教育を推進し、その成果は36年の『静岡県教育』臨時号にまとめられました。それによると、神祇思想とは「絶対天子と平等平民との間柄は直治直属の一体関係をなし、而して直治関係をなす所のものは神祇思想で、直属関係を示す所のものは武士道精神である」とされています。日々の生活では、後醍醐天皇の皇子宗良(むなよし)親王の和歌「君のため世のため何か惜しからむ 捨ててかひある命なりせば」を、4年生以上の各教室に掲示し、毎朝吟詠を行わせ、村内の各神社の崇敬を深めたりしました。
 折しも井伊谷宮では、建武中興600年記念祭が行われ、学校の研究は盛り上がりを見せました。翌35年の研究発表会には、満州事変後、軍部と結んで革新を唱え、ファシズム体制を確立していく新官僚に多大な影響を与えた安岡正篤や、新官僚グループ国維会の香坂昌康、吉村岳城が講師として招かれました。国体観念の強まりのなかで、一地方の小学校に、このようなそうそうたるメンバーが集まるのは異例です。
 38年、県学務部では敬神思想普及のため、学校や家庭の神棚設置状況を調査し、奉祭神や神宮大麻の奉祭状況も調べました。さらに34年11月15日付け「静岡新報」には、「浜名郡中瀬小学校では、千余名の児童に敬神崇祖の念を涵養し、以て理想の講学を期すため「校内神社」を校庭の西隅に建設することに決定し、工事を急いでいる」と報じされています。県内で修学旅行が伊勢神宮参拝に統一されていくようになるのも、この神祇尊重の教育と無関係ではありません。
 1937年(昭和12年)10月、国民精神総動員運動が組織され、銃後の奉仕の一環として、興亜奉公日、銃後奉公日などの勤労奉仕日が定められ、児童は勤労奉仕に動員されるようになりました。稲刈りや草取り、イナゴ捕獲などの軽易な労働に子どもたちは従事しました。
 戦況も行き詰まり、資材も食糧も絶対的に不足していく中で、30年代に不況を克服していくシンボルとして各地の学校に建造された二宮金次郎像は、石造は別として、金属類回収運動の一環として学校から撤収されました。そして45年に、県は「学校校庭の農場化に関する件通牒」を出すに至ります。しかし、校庭の農場化は既に実現しつつあり、通牒は最後の断末魔に等しいものでした。既に40年に、庵原郡袖師村、旧清水市、現在静岡市の袖師国民学校では、4反(40アール)の運動用地を増産畑とし、学童は鍬を振るいました。米20俵の大収穫で、翌年には裏作としてジャガイモ、玉ネギ、サツマイモなどの雑穀類を生産し、大成果を挙げました。
 次回は、「学童疎開」というテーマでお話しようと思います。

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