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我が友、毛沢東

 YouTubeで『開国大典』という映画を見た。
 中華人民共和国建国40周年を祝って製作された映画だという。

 どうやら一昨年、「建国72周年」を祝して、公式からの無料配信がスタートしたらしい(中国語がまったくできないので、概要欄を見てもよくわからなかった・・・ごめんなさい)。

 中国共産党のいわゆるプロパガンダ映画であることは明白だが、まず、恥ずかしながら、この映画のあるシーンを見て涙を流したことを白状したい。

 それは映画の終盤で、古月(毛沢東のソックリさん俳優として一世を風靡した方らしい)演じる毛沢東が、人々の「毛主席万歳!」の声に応えて、天安門の楼上から「人民万歳!」と、数度にわたって叫ぶ場面を見ていた時のことだった。
 喜びに沸く人民の晴れやかな笑顔と、毛沢東をはじめとする、天安門楼上の中共幹部らの誇らし気な表情を見比べているうちに、ふいに涙が込み上げてきた。
 ハリソン・E・ソールズベリーの記述を思い出したからだ。

1949年10月1日。喜びに沸き立つ民衆の前で、毛沢東が「中国は立ち上がった」と宣言したあの日、天安門の空はどこまでも青く晴れわたっていた。しかし中華人民共和国建国40周年に当たる今年、1989年10月1日の国慶節はあの6月4日の事件のために暗雲たれこめる中で祝われることは確実となった。

『天安門に立つ 新中国40年の軌跡』

 ——1949年10月1日、誕生間もない共和国の未来に、無限の期待を寄せた人たちがいた。

 外国人に侮られ、地主にいじめ抜かれ、金持ちに足蹴にされ、流行り病にかかった我が子を、ちゃんとした医者に診せてやることすらできず、怪しげな民間薬を吞ませた挙句に、己が両腕の中で冷たくなっていく子供の顔を、泣きはらした目で見つめることしかできなかった人々が、この日、毛沢東という指導者を得て立ち上がったのだ・・・。

 ——それから40年後、毛沢東と人民が共に新国家の成立を祝した天安門広場は、民主化を願う若者たちの墓場と化してしまった。

 私たちは、その事実を知っている。

 今もなお、世界のどこかで、この事件のもたらした痛みと闘っている人がいるという事実も、知っている。

 だから、悲しい。

 毛沢東が英雄として輝いた日があったことも事実だし、彼の創始した中華人民共和国が、天安門事件をはじめとする横暴なふるまいによって、「専制国家」として非難されていることも事実なのだ。

 この二つの相反する事実をどう捉えればいいのか?

 毛沢東は、1927年に発表した論文で、次のように述べている。

革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうしたりすることでもない。そんなにお上品で、そんなにおっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかでおとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえめのものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうちたおす激烈な行動である

「湖南省における農民暴動の視察報告」

 この主張を「毛沢東の暴力性・残忍性を象徴するもの」として切り捨てるのは容易い。

 実際、1966年に始まった文化大革命では、良識的な知識人や技術者を排撃する大義名分として、紅衛兵の間で、好んでこの文章が引用されたという。

 だが少なくとも、1949年以前の段階では、まるで劇薬を思わせるようなこの主張に、ある程度の「正しさ」が含まれていたのも事実だ。

 こんなことを書くと、「正しい歴史」を追求する保守派の皆様から怒られてしまうに違いない。
 しかし、よく勉強すれば、「保守」の対極にある劇薬のような変革もまた、歴史における重要な現象の一つだということが理解できるはずだ。

 当時の中国には、旧時代の理不尽な思想や習慣が、辛亥革命を経てもなお根強く巣食い続けて、人々を苦しめていた。
 普段は温厚な紳士だった魯迅すら、それらを根絶やしにすることの意義を大衆に説くために「水に落ちた犬は打て」という過酷な言辞まで用いなければならなかった。
 それらの事情を考慮に入れれば、「革命は暴動である」という毛沢東の怒りのこもった主張にも、それなりの根拠がある——と、私にはそう思われてならない・・・。

 毛を怒らせ、革命へと駆り立てた当時の中国人の苦しみに思いをいたすたびに、私はしみじみと、ブレヒトの警句を思い出す。

 英雄不在の時代は不幸だが、英雄を必要とする時代は、もっと不幸だ。

「ガリレイの生涯」

 ところが、その「英雄」は、新国家が誕生してもなお、怒りを忘れることはなかった。
 結果的にはそれが、文化大革命の悲劇を招来してしまった。

 ひと頃、文革は「人民の魂に触れる革命」として賛美されたという。
 だがその実態は、毛の逆鱗に触れた人々を粛清するための、単なる権力闘争に過ぎなかった。

 ゆえに、私は毛沢東を軽蔑する。

 馬鹿げた騒乱を巻き起こし、劉少奇をはじめ、誠実な愛国者たちを次々と闇へと葬ったこの男に、手放しの賛辞を贈ることなんか、いったい誰にできようか?

 現在の中国共産党は、毛の時代のそれとは、かなり様相を異にしている。
 しかし、その遺産は脈々と受け継がれている。
 毛沢東的な「怒り」が、圧政者や侵略者に向けられているうちはまだ良い。
 問題は、それが体制を揺るがす不満分子や、罪なき異民族に向けられてしまうことだ。

 ——今日の中国を覆う「不自由さ」は、確実に毛沢東にその責任の一端がある。

 だがその一方、生きづらい現代社会の中で窒息しかかっている人々、そしてそういう人々の苦しみなんか知ったことじゃないとでも言わんばかりに、我が世の春を謳歌する連中を目の当たりにすると、私の中でふつふつと、「毛沢東的怒り」が沸き上がってくることも、白状しなければならない。

藤子不二雄A『劇画毛沢東伝』より

 恥ずかしい話だが、1、2年前までは、世の不条理に対する怒りが抑えきれないところまで来ると、本棚から『毛沢東語録』を引っ張り出して、例の「革命とは暴動であり・・・」という文章を音読したりなんかしていた(よく今まで逮捕されなかったなぁと思う)。

『劇画毛沢東伝』より、農民を虐殺した地主の横暴に怒る少年毛沢東

 でも、怒りのあまりに行使される暴力では、世の中は何も変わらない。
 21世紀の日本は、毛沢東が生きた20世紀の中国とは違う。
 暴力で何もかも解決できるほど、単純な世の中ではなくなってしまった。

 今の私たちに出来るのは、暴力を排し、対話によってより良い世の中を創造する努力を続けることだ。

 「そんなことは不可能だ」と、毛沢東なら言うだろう。
 「権力は銃口から生まれる」という名言(迷言?)を遺した彼のことだ。
 武力を伴わない革命など、絵空事だと断ずるに違いない。

 だが、それしか方法はないのだ。
 それが、文革をはじめとする20世紀の悲劇を経験してきた現代人の採るべき唯一の道だと、私は信じている。

 毛沢東については、書きたいエピソードがほかに2つ3つあるのだけれど、今日はここまでにしておこう。

 最後に、こんな人目をはばかるテーマについて書かれた記事を、最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を申し上げます。
 ありがとうございました。

【5/16追記・・・内容を一部改めました】

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