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フランスの浦島太郎

 「革命以前を生きたものでなければ、人生の甘美さは分からぬ」とは、ナポレオン政権の外務大臣を長く勤め、欧州屈指の外交官として名をはせたタレーラン公爵の言葉だが、実際、ブーヴェやフラゴナールの絵画を見てもわかるとおり、フランス革命前夜の社会には、享楽的な雰囲気が横溢していた。
 もっとも、その恩恵を享受できたのは、タレーランのような特権身分に属する人々だけだったことが、民衆を怒らせ、革命の勃発を早めたとも言えるのだが……。

フラゴナール「ぶらんこ」

 ともかく、そんな「良き時代」が、あと2年ほどで終わろうとしていたころ——正確には1787年2月中旬のある夜、王妃マリー・アントワネットは、趣味の観劇のために、パリのオペラ座を訪れた。
 満座の会場に姿を現した王妃は、観衆の拍手喝采によって迎えられた。彼女の方もまた、通例どおり、三度の会釈によってこれに応える。
 するとその時、ふいに「ヒュウッ!」という短い口笛の音が、場内に響きわたった。
 誰かが王妃をからかって吹いたのだ。
 6年後には民衆の嘲笑を浴びながら断頭台上に果てる運命にある王妃も、この時にはまだこういう類の不敬には慣れていなかった。たちまちショックを受けて、貴賓席にへたり込んでしまう。

 犯人はすぐに見つかった。サン・ペルヌという20歳の侯爵だった。
 「このヤロウ、王妃様を侮辱しやがって」
 街頭に引き出された彼は、警官に小突かれながら護送されていった。
 実のところ、こういう無鉄砲に走る若者は、当時の貴族社会ではさほど珍しくなかった。体制に対して漠然とした不満を抱きはするが、さりとて何不自由ない生活を捨ててまで、世の中を良くするために働くという気概を持たない青年貴族らは、時々こんなバカをやって、憂さを晴らしていたのだ。
 だが、王妃を侮辱したのはさすがにやりすぎだった。
 サン・ペルヌは裁判にかけられ、数年間の懲役刑に処せられることが決まった。

 とはいえ獄中生活も、まんざら捨てたものではなかった。少なくとも現代の刑務所暮らしに比べれば、何倍も良い待遇だったろう。
 「ヒマだし、何かやることはないかなぁ」
 そこでサン・ペルヌは、かねてから研鑽に努めていた古典学の研究に打ち込むことにした。幸い、彼が収監された施設には、何百冊もの蔵書をおさめる大きな図書室が設置されていたから、研究に支障が出ることはまずあり得なかった。

 彼は日夜、ギリシア・ローマ時代の歴史書の分析に打ち込んだ。
 その間に、王妃に口笛を吹きかけた狼藉者の存在は、次第に世間から忘れられていった。
 他方、彼の一族はというと、2年間は獄中生活に必要な費用を払い続けていたが、やがてそれどころではなくなって、彼を残して国外に亡命してしまった。フランス革命が勃発したのである。費用の方は誕生間もない革命政府が代わりに負担してくれることになった。

 そのうちに王政が倒れて共和国が成立し、やがてナポレオンの帝国がこれに代わった。政局の混乱が続いたため、サン・ペルヌの罪状を詳らかに知る獄吏もいなくなってしまい、数年で終わるはずだった懲役年数は、どんどん延長されていった。

 どうやらある時から彼は重度の精神病患者と勘違いされていたらしい。

 「精神療養医学」などという言葉が存在さえしていなかった当時は、手に負えなくなった患者を死ぬまで監禁するという野蛮な処置法がまかり通っていたから、サン・ペルヌが生きて出獄できる可能性は、もはや皆無に等しかった。もともと彼には厭世的で偏屈なところがあったので、誤解を受けやすかったということもあるが、それにしても理不尽な話だ。
 だが、当の本人は自分の置かれた状況に満足している。
 「俗世を離れて研究に打ち込めるのだから、ここにずっといるのも悪くないな」
 だから、髪に白いものが混じるようになっても、彼は黙々とペンを走らせて、その生涯の集大成である著作の執筆に全力を注いだ。

 そしてある日、遂に彼はそれを書き上げたのであった。
 この時、彼の頭の中で、何十年かぶりに、外界への興味が沸き上がった。    
 「そうだ、世間はこの本はどう評価するんだろうか?」
 出獄は許されなかったが、面会人を呼び寄せることはあっさり許可されたとみえて、さっそく、とある出版業者を獄中に招いて、その批評を仰ぐことにした。

***

 原稿を読み終えた業者は、相手の機嫌を損ねないよう、そっと顔をしかめた。細々した事物については、さすがに何十年もかけて調べたものだけによく書けていたが、全体として見れば、今では誰も見向きもしないような、古臭くて退屈な内容だった。
 だが、一応相手は貴族だ。面と向かってそんなことを言ってのけるわけにもいかない。そこで彼は、核心には触れずに、別の他愛もない部分の粗を探して、それとなくダメ出しすることにした。
 彼は、冒頭の「献辞」の部分をサン・ペルヌに示した。そこにはこう書かれていた。

“フランスおよびナヴァラの王、ルイ16世陛下に。いと貧しくいと忠実なる一臣下より…”

 「侯爵、ここは『ルイ16世陛下の思い出に』とされたほうがよろしいかと…」
 「なに、すると陛下は亡くなられたのか。いつだね?最近のことかね?」
 業者は面食らって、相手の顔を見つめた。ルイ16世が革命さなかの1793年に処刑されたことは、その頃の人なら誰でも知っていたからだ。
 一方のサン・ペルヌは平然として
 「では、『ルイ17世陛下に』としたほうがいいだろうか…」
 などと呟いている。
 業者は恐る恐る尋ねた。
 「あの…侯爵はいつごろからこちらに…」
 「うむ。もうずっと前の話だからな、忘れてしまったよ。今の国王はどんな方だね?」
 「ルイ・フィリップ王という方で…王位に就かれてもう7年にもなります」
 「ほう。で、今は何年だね?」
 「1837年です」
 「フーン…もうそんなに時が経ったのか。じゃあそのルイ・フィリップ陛下というのは、ルイ16世のお孫さんかね?」
 「いえ、それがいろいろありまして………革命が二回あって、その間にナポレオンという人が出てきて…」
 「ほう、それは全然知らなかったよ。ひとつそれを話して聞かせてくれたまえ」
 業者は、サン・ペルヌが外界と縁を切ってから今日までの、半世紀にも及ぶ激動の歴史を彼に語り聞かせた。

 小一時間ばかりして、業者が語り終えたときには、相手は驚愕するどころか、もとの無関心に戻ってしまっていて、そんなものよりも、ヘロドトスやトゥキディデスの記録した歴史の方が大事だ、とでも言いたげな顔をしていた。
 ——だが、この半世紀の間に、当の歴史は、サン・ペルヌのあずかり知らぬところで、大いなる変革を経験してきていた。そして彼がやっとその流れに追いつきかけた時には、ルイ16世も、マリー・アントワネットも、綺羅星のような大革命の英雄たちも、そしてナポレオンとその麾下にあって帝国の創業に貢献した将軍たちもみんな、すでに墓の下で永い眠りに就いていたのだった……。

 サン・ペルヌはその後すぐに精神鑑定にかけられて釈放された。浦島太郎よろしく、50年ぶりに現世への帰還を果たした。
 それからの彼は、亡命先から帰国してきていた子孫たちによる後見のもと、「自分の著述の補遺を書き加えることに短い余生を捧げた」との由である。

***

 以上、フランスのジャーナリストであるL・ポーウェルが書いた「歴史からはぐれた男」(G・ブルトン、L・ポーウェル編著(有田忠郎訳)『西洋歴史奇譚』白水社、1982に収録)というエッセイの内容を略述してみた(僕なりの潤色が多分に含まれていることをご了承願いたい)。
 ポーウェルはこの話を正真正銘の史実だと主張しているが、信憑性には疑問符を付けた方が無難だろう。しかし、仮にサン・ペルヌが実在の人物であるなら、あまりにも不憫な生涯だ。

 フランス革命の勃発からナポレオン帝政の崩壊という世界史的過渡期のさなか、何も知らずに、ひとり獄に籠ってギリシア・ローマ期の古典と格闘している彼の姿を想像すると、滑稽でもあるし、「歴史や古典を学ぶ意義とはなんだろう」とも思わされずにはいられない。

 獄窓のすぐ外では、今まさに歴史が変わろうとしているというのに、それには目もくれず、埃っぽい書物からひたすら2000年前の歴史を学ぶことに熱中するという矛盾。
 実はそういう矛盾はサン・ペルヌだけに当てはまるものではない。歴史を愛する者なら誰でも直面する矛盾なのだ。

 日本人は歴史好きな国民だと言われることが多い。巷には、歴史に関する教養書や小説の類があふれ、ことに大河ドラマの題材となった時代を取り上げる書物は、毎年のように出版されている。
 それ自体は別に悪いことではない。問題は、古い時代の歴史を愛好するあまりに、「現在もまた歴史の延長線上にある」という基本的な事実を忘れてしまう人が、少なからず存在することだ。

 あなたの身近に、現在のものごとにはあまり興味を示さないが、ある特定の時代や人物(たとえば三国時代や戦国武将の誰それ)についてはやたら詳しいという人はいないだろうか。
 もしそういう人がいるなら、このサン・ペルヌのお話を教えてあげて欲しい。
 獄に入れられているわけでもないのに、古い時代のことにばかり詳しくなって、現代史の転換を見逃してしまうのはもったいない。

 反対に、現在の事象のみを追っていても、ものごとの本質は見えてこない。過去と現在を自由に行き来しながら、自分なりの見解を形作っていくのが歴史学という学問の真髄ではないだろうか。

 差し当たって僕も、自分がサン・ペルヌのようになっていないかどうか、胸に手を当ててよく考えてみることにしよう。

歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

E・H・カー『歴史とは何か』より

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