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ロマン主義時代の群像Ⅰ:ウィーン体制の光と影

 ナポレオン没落後の数十年間を、文化史の世界では「ロマン主義時代」と呼んでいる。
 この時期に出現した天才には不思議と夭折した者が多い。
 それはなぜだろうか。

 例えば、当時はまだ「決闘」という野蛮な風習が、血気にはやる青年たちの間で、大いにもてはやされていた。

レールモントフ『現代の英雄』の決闘シーン

 私の知る限り、そのために夭折した天才は三人ほど存在する。
 ロシア文学の旗手プーシキン、その後継者レールモントフ、そして数学の革命児ガロアである。

 人はその早すぎる死を惜しんでこう言う。
 「もし彼らが決闘とは無縁のつつましい人柄の持ち主であったなら」と。
 「仮にそうだったならば、彼らはもっと長生きして、より素晴らしい業績を挙げることができただろうに…」

 しかし私にはそうは思えない。
 もしも彼らがそんな、おしとやかでおだやかな、ありふれた人間であったなら、彼らはかえって何も生み出さなかっただろう。
 そもそも彼らだって、何も好き好んで破綻した生活を送っていた訳ではなかった。

 彼らは皆、怒っていた。矛盾に満ちた当時の社会と、それを目の当たりにしながら、何もできない自分自身に対して。
 そういう行き場のない感情が、彼らの生き方を破滅的なものにした。
 それでも、なまじ長生きをして絶望を深め、理想を忘れてニヒリズムに染まってしまうよりは、よほどマシだったかもしれない。
 そして皮肉なことに、人間とは破局の道を歩みつつある時にこそ、創作意欲を燃え立たせる生き物である。
 自分が生きた証を後世に遺したいという、無意識の衝動が働くのだろう。

 夭折したロマン主義時代の天才たちが、短い生涯のうちに瞠目すべき業績を挙げることができたのは、つまりはこういう理由からではないだろうか。

では、青年たちを怒りへと駆り立てた当時の社会とはどういうものだったのか。
 それを説明するにはまず、時計の針を1789年にまで巻き戻さねばならない。フランス大革命勃発の年である。

バスティーユ攻撃(1789)

 フランス革命の世界史的意義は二つある。
 一つ目は、民衆がブルボン家の王政をひっくり返したこと。
 二つ目は、社会の矛盾は決して是正不可能でないという事実を、世界中の人々に知らしめたこと。

 当時のヨーロッパでは、未だに封建時代の理不尽な制度や慣習が各所に巣食っていた。
 プロイセンではユンカーと呼ばれる地方貴族が専権の限りを尽くし、ロシアでは農奴が牛馬のごとき生活を強いられていた。
 こうした旧弊を是正しようとする権力者は皆無だった。

 プロイセンのフリードリヒ大王は自らを「人民の下僕」と称し、人民に対して数々の恩恵を施したが、人民の上に重くのしかかるユンカーを解体しようとは、夢にも思わなかった。

フリードリヒ2世(大王)

 ロシアのエカチェリーナ女帝は哲学を愛好し、学問・芸術を奨励して、それまで無粋な尚武の国に過ぎなかったロシアに、芳醇な文化の香りを添えたが、農奴を解放し、人民に貴族と同等の権利を与えることこそが、野蛮国と蔑まれたロシアを真の文明国たらしめる最善の施策であるという事実から、生涯目を背け続けた。

女帝エカチェリーナ2世

 「啓蒙君主」と呼ばれた彼らにも限界があった。
 「上からの改革」を期待できない人民に残された道は、自ら立ち上がることだった。
 フランス革命はその輝かしい範を諸国民に向かって示したのである。
 続いて「革命の申し子」ナポレオンの時代が到来した。「コルシカの食人鬼」と呼ばれた彼は、諸外国を征服の刃にかけたが、同時に、人々に自由への希望を与えることも忘れてはいなかった。

若き日のナポレオン

 その侵略行為は責められて然るべきだが、彼なくしては、革命の理念が全ヨーロッパに波及することもなかっただろう。
 歴史はそういう矛盾で満ちている。

 だが、ナポレオンの没落後、人々が直面した矛盾はもっと深刻なものだった。
 1815年、ナポレオンはワーテルローの大敗で退位を余儀なくされた。
ここにおいて彼の夢見た帝国は崩壊する。各国の人民がやっとの思いでつかみ取った勝利だった。

 「食人鬼」を孤島への流刑に処してほっと息をついた王侯貴族らは、「ウィーン体制」と呼ばれる、新たな国際秩序の成立を高らかに謳い上げた。
 平和の回復成る!——なるほど、確かにそれは喜ばしいことだった。列国会議の舞台となったウィーンでは連日、戦争の終結を祝う宴が張られた。
 ダンスに興じ、酒と女に酔った列席者の耳には、楽師の奏でる優雅な調べがさぞ心地よく響いたことだろう。
 民衆が発する怒りと哀しみの不協和音は、それにかき消されてしまった。

 ——我々は何のためにナポレオンの軍隊に対して立ち上がったのか?
 ——自由で平等な社会を創造するためではなかったのか?
 ——王侯貴族の逸楽を取り戻してやるためではない!

ウィーン会議(1814-1815)

 結局のところ、キッシンジャーや高坂正堯ら、国際政治学の権威たちが激賞したウィーン体制というのは、フランス革命以前の、旧い社会への回帰を目指すものでしかなかった。
 その証拠に、革命の大元たるフランスは再びブルボン家の支配するところとなり、一時期は、凄惨な粛清の嵐がこの国を覆い尽くした。
 元革命家、ナポレオン時代の軍人、そして「自由・平等・友愛」の理想に共感した者の全てがその標的だった。
 とりわけ、ナポレオンの最も信頼した部下の一人であり、「勇者中の勇者」の異名をとったネイ元帥の処刑は、フランス社会に大きな衝撃を与えた。
 その朴訥な人柄は、党派を問わず、多くの人々に愛されていたのだ。

ネイ元帥の処刑(1815)

 元帥の処刑に快哉を上げたのは「ユルトラ」と呼ばれる反動貴族だった。  
 彼らの考えでは、革命に関係した者の全てを抹殺すれば、国王が忠良な臣民をしろしめす「良き時代」が戻ってくるはずであった。
 だが、そんなものはすでに彼らの夢想の中にしか存在していない。
 ユルトラも、ウィーン体制の推進者たちも、誰もそのことには気付いていなかった。
 全ては動き始めていたのだ。

 最初に反抗の烽火を上げたのは青年たちだった。ドイツでは大学生が、ロシアでは開明的な青年貴族によって構成されたデカブリスト(十二月党員)たちが、そしてイタリアでは、カルボナリ党のような秘密結社に属する青年たちが、続々と、叫びを発し始めた。

 彼らのうち、ある者は重税を課される農民の窮乏に泣き、ある者は統一国家樹立の必要を説き、そしてまたある者は、大国の軛(くびき)の下に虐げられた祖国の解放を夢見た。

 彼らは総じて怒っていた。何に?——代り映えのしない社会体制に。民衆の苦しみを理解しようとしない王侯貴族に。
 だが、封建制の残滓にすがりつく権力者たちは、彼らの怒りの根源にあるものを理解しなかったし、しようともしなかった。
 ——かくして、抵抗と弾圧の時代が幕を開ける。

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