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徳川家康の40代 関東への転勤編① 豊臣家の大名として

はじめに

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豊臣秀吉への臣従

それでは、徳川家康の話を始めていきたいと思います。
家康は天正14年(1586年)10月に上洛し、大坂城で豊臣秀吉と対面し、臣従を誓いました。この時、家康は、45歳になります。この際に家康は秀吉に対して、領土存立保護と自身の身の安全を求めました。また、この交渉の中で、家康から離反した真田昌幸・小笠原貞慶ら信濃国衆を与力小名として家康が従えることを秀吉は認めています。さらに秀吉は、自分の妹である朝日姫を嫁がせ、家康を義弟とし、さらには、実母である大政所を人質として送った経緯がありました。

天正14年(1586年)9月には既に新しい本拠地として決めていた駿府城へ戻り、「豊臣家の大名」として5カ国の領国運営に乗り出します。

天正15年(1587年)徳川氏への帰属を命じられて真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌が3月に家康の元へ出頭し、与力小名としての立場を確認しました。これにより信濃国の情勢が安定するとともに5カ国の領主として安定を成し遂げることができました。失った信濃国の領域を取り戻すことができたのです。

豊臣家の大名として領国の経営

しかし、豊臣政権のもとでの活動は、豊臣政権へ奉公する必要があるため、支出を増大させることになりました。さらにはこれまでの災害や合戦により疲弊もありました。これらが財政が重くのしかかってきました。
そこで、家康は財政補填の一環として「五十分一役」を賦課しています。これは、本領国(駿河・遠江・三河)を中心に五十分一(2%)を徴収した税になります。ただし、自治が認められていた従属国衆領や支城領は対象外です。

ただ、補填だけではなく財源の確保も図っています。本領国では、検地を行い、税賦課額を算出するなどを行いました。こうして、家康は豊臣大名としての活動基盤を確立していったのです。しかし、家康の改革は本領国のみになります。おそらく、従属国や支城領への支配力が強固でなかったためと推測されます。
このような領国経緯を安定させている取り組みの中で北条氏の征伐そして、関東への移封が行われたのです。
つづく

日光東照宮について

今回の記事を書くにあたり、夏休みを利用して家康の40代の本拠地である駿府城に行こうと思い、計画していました。しかし、台風や大雨で東海道新幹線が止まり、行けなくなってしまいました。機会があれば、静岡に行き、改めて記事としてまとめてみたいと思います。

少し前に日光東照宮に参拝してきました。小学生の時に行って以来なので、30年ぶりくらいです。陽明門、眠り猫など定番も見てきましたが、下記の逆柱が印象に残りました。陽明門の13本の柱のうち、1本だけ紋様(ぐり紋)が逆になっているらしいです。物事は、完璧だとよくないことが発生すると考えられていたため、わざと紋様を逆にして、未完成の状態にしているらしいです。

私のこれまでの経験でもそうですが、だいたい、トラブルや失敗は予想だにしない方向から飛んできていることが多いものです(学生時代からその傾向があります)。かといって、しつこく仕事を準備したり追い込んだりするタイプではないのですが、一応心がけとして持つようにしています。

この逆柱を見て、物事が完成したと考えることは危険なことで、思わぬトラブルや失敗を招くという先人の考えを建築物に表していることに納得感と面白さを感じました。


日光東照宮 陽明門の逆柱

記事を作成する時に参考にした書籍は、以下の文献です。

小川雄・柴裕之編著,「図説 徳川家康と家臣団」,
戎光祥出版株式会社, 2022年11月
長屋良行, 「家康の10大危機, ゆいぽおと, 2023年3月
中村孝也, 「徳川家康公傳」新装版, 吉川弘文館, 2019年9月
笠谷和比古, 徳川家康, ミネルヴァ書房, 2016年12月

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