見出し画像

90代で再起した戦国武将について

はじめに

皆様、いつも読んでいただき、ありがとうございます。先週、下記の祝福画像が出ていました。「合計400回のスキ」をされたとのことです。皆様、いつも「スキ」「フォロー」ありがとうございます。
さて、今回は、歴史の話を書いていきます。何を書こうかと考えたときに、前々から紹介したいと思っていた戦国武将、「龍造寺家兼」を書きたいと思います。人は何歳でも再起できると思える人物です。

龍造寺家兼を知ったきっかけ

龍造寺家兼、一般的には、ほとんどの方がご存知ないと思います。この武将のポイントは、93歳で再起し、戦場に立ち、龍造寺家の再興を果たしたことです。しかし、書籍を調べてみましたが、彼を取り扱ったものが見当たらず、ネットの情報を中心に書きたいと思います。Wikipediaには記事がありましたので、気になる方は下記のリンクをご覧ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/龍造寺家兼

私が知ったきっかけは、当時中学生だったと思いますが、某歴史シュミレーションゲームで登場し、武将列伝の項目に上記内容が記載されていました。非常に驚き、かつ印象に残ったため、今でも覚えています。

龍造寺家兼の生涯

彼の生涯をざっくりまとめてみました。享徳3年(1454年)肥前(現在の佐賀県)の国人、龍造寺康家の五男として誕生しました。分家の水ヶ江龍造寺家を興しましたが、実力があった彼は、本家の実権を掌握し、さらには、主家の少弐氏の実権を握ったようです。享禄3年(1530年)、大内義隆の家臣、杉興連による侵攻がありましたが、家兼が撃退したようです。この時、家兼77歳です。この時点で驚きです。

しかし、その後の大内氏による少弐氏への攻撃に際し、積極的に救援しなかったため、天文14年(1545年)少弐氏家臣の馬場頼周によって二人の息子と四人の孫を殺されてしまいました。彼はかろうじて逃れ、筑後の蒲池氏の保護を受けます。そして、蒲池氏の支援を受けて再起し、これに鍋島清房が呼応し、馬場頼周を滅ぼすことができました。そして、龍造寺氏の再興を果たしたのです。その後、曾孫の龍造寺胤信(のちの隆信)を還俗させて、後事を託すとまもなく亡くなりました。

龍造寺隆信は、ご存知の方も多いのではないでしょうか。「肥前の熊」と呼ばれた人物です。龍造寺家最大の版図を築きました。しかし、南九州、薩摩から進出してきた島津家と激突し、沖田畷の戦いで討ち取られてしまいました。その後、龍造寺家は、鍋島家(鍋島直茂、清房の子)に乗っ取られていきます。

まとめ

他にも高齢でも活躍した武将は数多くおります。毛利元就(厳島合戦時が59歳)はその代表格でしょうか。

龍造寺家兼も優秀な武将であり、バイテリティ溢れる武将であったと思います。しかし、92歳で長男と孫を殺されてしまい、そこから再起する気力の強さが強烈に印象に残ります。90代で挫折して、再起した人物は、なかなかいないのではないでしょうか。おそらく、家兼としては、自分の家を再興したい一心だったと思います。人は、何歳からでも再起できることを認識させられる人物です。


この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?