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続・近江の土器 ~弥生人のアウトドアギア~


前回、近江の土器が海を渡った話を書きました。↓

そこで書き忘れたことがあるので、続編を書きます。

ネットや新聞などで、「〇〇遺跡で吉備や東海地方の土器が発見された」といった記事を目にした方もいると思います。
つまりこれは、「他の地域との交流が盛んだった」という証明になるわけですが、”土器を輸出していた”という意味ではありません。
(ごく稀にそうした例はあるかもしれませんが…)

弥生時代の交通手段は、陸上なら徒歩オンリー。
そして旅館などもあるはずがないので、旅先での宿泊は当然野宿だったでしょう。
さらに、旅の間どうやって食事をしたかといえば、食堂やレストランもむろんないので、もっぱら自炊です。
最初のうちは携行食の干し飯やドングリの粉などが食べられたかもしれませんが、手持ちの食料が尽きたらあとは「現地調達」あるのみ。
旅先で食べ物が見つからなければ、飢えて死ぬよりありません。
見知らぬ野や山で、食べられそうな野草や木の実、果実、イモ、キノコなどを手当たり次第採って、必死で飢えをしのいだことでしょう。
シカやウサギ、野鳥、魚などが獲れれば、もうバンザイです。

ただし、たとえ食べられる草や木の根が採れたとしても、生で食べたわけではないでしょう。いくら古代人とはいえ、煮たり焼いたりしたはず。
そのとき炊事用の鍋釜はどうしたのか?
金属製のものはまだありません。
なので、ふだん使っている愛用の土器を持って旅に出たのです。
キャッチコピーをつけるならば、
「旅に出よう、my土器を持って!」です(笑)。

土器があれば、水と一緒に木の芽や茎、根や葉っぱを放り込んで、火をおこし、ぐつぐつ煮込んで食べることができます。
喉が渇いたら、水筒・コップ代わりにも使えます。
その意味で土器は、唯一無二の食器兼調理器具だったのです。
まさに【究極のアウトドアギア】です!

冒頭で紹介した「〇〇遺跡で吉備や東海地方の土器が発見された」のココロは、吉備や東海地方の人々が、自分用の土器を持って〇〇遺跡を訪れていた、という意味なのです。
(※「その場で土器を作ればいいじゃないか」という考えは×。粘土がなければ作れませんし、成型・乾燥・焼成で少なくとも2週間はかかります)

そして、前回紹介した韓国・金海(キメ)で近江の土器が見つかった話の続き…。
近江の弥生人は、おそらく何日も何十日もかけて山や谷を越え、さらには危険を冒して日本海を渡り、それ以外にもさまざまな苦難を乗り越えて朝鮮半島まで行ったのでしょう。

金海で近江土器が見つかったということは、近江の人間が無事に現地に辿り着いたということです。
さらに深読みすれば、土器が見つかったことの意味は、その持ち主は持ち帰ることができなかった(彼の地で死んだ?)のかもしれません。
むろん、壊れてもいいように複数持って行った可能性や、現地で新品を調達したというシナリオも十分考えられますが…。

弥生人が命の危険を賭してまで旅をした理由は、稲作をはじめ大陸の先進技術を導入するためか、はたまた貴重な鉄素材・鉄製品を持ち帰るためなのか…。

彼らの遠い子孫である我々は、古代の人々がグレートジャーニーの末に成し遂げたさまざまなことを、たまに思い返すのもいいかなと思った次第です。


★見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、 syuheiinoueさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。



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