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長髄彦は忠臣だった

 長髄彦が好きな理由【その一】について書きます。

 ひとことで言えば「不器用だけど信用できる人」だからですね。

 長髄彦は古代の奈良・生駒山の麓で勢力をふるった豪族の長です。『古事記』では登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記されます。

 前回書いたように、長髄彦は神武東征の際に最後まで抵抗し、味方のはずの大和王・饒速日(にぎはやひ)に殺されます。その理由も「こいつは心がねじ曲がってて素直に降伏しそうもない。邪魔なので殺した」というものです。
 つまり長髄彦自身は、大和とその王・饒速日に最後まで忠義を尽くそうとしていたのに殺されたのです。

 作家の黒岩重吾氏は『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』の中で、「饒速日は片腕でもあり、妻の兄でもある長髄彦を殺し、神武に降服した」「忠臣の長髄彦を裏切った饒速日」と繰り返し書いています。
 これはあくまで小説の中のエピソードですが、この構図は明治維新の戦いに敗れた徳川幕府の末路に似ています。
 徳川十五代将軍徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦で旧幕府軍が新政府軍に敗れたことを知ると、さっさと江戸に逃げ帰り新政府に恭順を示しました。
 それに対し最後まで抵抗したのが、近藤勇率いる新選組や彰義隊です。
 しかしとっとと降伏したい慶喜や幕府の高官にとって、新選組はもはや邪魔な存在でした。近藤勇は幕府に厄介払いされた挙句、捕らえられて斬首されます。

 近藤勇と最期と、長髄彦のそれが重なります。

 ちなみに作家の森見登美彦さんは生駒市出身で、ペンネームは本名の姓に出身地にゆかりの深い登美彦(登美長髄彦)を合わせたものだそうです。
 郷土の英雄(!?)に対する愛を感じますね。

★見出しのイラストは、みんなのフォトギャラリーから、 motokidsさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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