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【主婦勉!】神社のあれこれについて知りたい~出雲編~

4月から調べてきたこの神社シリーズ。
何度も投げ出してラン活に走ったり、
夏休みを口実にサボりまくったり、
最近では日常生活で
結構しんどいことが続いたりして
noteから離れてしまっていたので
まだまだ調べてない神社が
たーくさんあるんだけど、
今回、出雲大社を調べて
このシリーズは一旦完結しようと思う。

神社シリーズの一番初めにも書いたけれど
出雲大社は私の心のベスト10 第1位の神社だ。

いつどんな状態の私で行っても、
居心地がいいし、しっくり来る。
そして、島根からは遠く離れた所に
住んでいるにも関わらず、
何かっていうと
訪れるチャンスがやってくる。
なので、きっとここが私のホーム的な
神社なんだろうと勝手に自分で決めている。

そんな出雲大社の成り立ちは
実はもう”簡単日本神話編③”で
調べてしまっているので、
詳細は割愛するけれど、
ものすごく簡潔に書くと、

・むかーしむかし、
  オオクニヌシという神様(以下ぬー様)あり

→80人ものお兄さんに嫉妬される中
   誰もがうらやむ女性と結婚、
   更に妬まれて
   何度か殺されたりもしたんだけど、
   母に悉く助けられたりしながら
   6代前のご先祖スサノオが治める国に一時避難

→そこで嫁のいる身ながらスサノオの娘と熱愛
   パパ・スサノオ激怒でやいのやいのの逃亡劇

→なんとか地上に戻ってまた恋愛三昧も
   次第に落ち着き国造り開始
   出会いや別れもあったけれど
   頑張って"いい国"造りました

→その後アマ姉による、
   その"いい国”横取り計画がスタート
   アマ姉は建御雷之神(以下雷君)を派遣 
   直接交渉の末、すったもんだありつつ、
   条件付きで、アマ姉に国を譲ることで決着   
   
その条件が
「私オオクニヌシが住める、
もうそれはそれは天にも届きそうな
めちゃデカ宮殿建てて!
そうすればもう天の神様の言う通りにする!」

というもので、これが意外にもあっさりOK、
めでたく”無血国譲り”でフィニッシュ。
(実際は無血じゃなかったのかもだけど…)

それで建てられたのが
この出雲大社だという訳だ。

今は「出雲大社」だが、
これは明治4年に改称した名前であり、
それまでは「杵築(キズキ)大社」,
と呼ばれていたそうだ。

「杵築」という名は、
神社があった近辺の地名に因むとか、
たくさんの神様がぬー様のために
”築いた社”だから、とか諸説あるらしいが、
とにかく「出雲大社」になったのは、
2021年の今でいうとちょうど150年前とかで、

1500年近くは確実にあるであろう
長い長いこの神社の歴史の中で、
「出雲大社」と呼ばれているのは、
まだたったの150年なのだ…そうだ。

しかも創建時&現在のご祭神は
ぬー様なのだけれど、
どうやら中世~江戸中初期?くらいまでは
スサノオがご祭神とされていた時も
あったらしい。

詳しくはまた神仏習合が関わってくるので
ごめんなさい、
正直全くわからないんだけど、
(ブン投げ大事よ!時には!笑)

どうやら鰐淵寺(ガクエンジ)という、
今の出雲大社から車で30分くらいの所にある
天台宗のお寺との関係による、
というのが有力説らしい。
稲佐の浜を「浄土の入口」とみなした
鰐淵寺とともに出雲大社もさらに発展し、
ここは出雲大社の別当寺になっていた
時期もあったらしい。

でもそもそも天台宗って
あんまりスサノオと関係なかったような…
というかどちらかというと
ぬー様寄りっつうか…
薄調べによると、この時代鰐淵寺では
出雲の国造りはスサノオによるもの、と
していた、という説があるそうなので、
まぁそのあたりが理由なんでしょう。
ほんとごめんなさい、うっすらで。

なんだけれど、
結局時代の状況からも
仏教の方が力が強くなって、
気づいたら
神社に仏塔とか仏堂とかが出来たりして、
あれ?なんか…結構浸食されてきてね?
杵築大社、神社なのになんか神社感弱くね?
このままだと杵築寺とかになっちまわね?
やっぱ神社としてちゃんとしたくね?
となったかどうかはわからないけど、
1667年の神社遷宮の時に
鰐淵寺との共存?を見直し、独立?して、
ご祭神も、元のぬー様に戻したそうだ。
これもハテナだらけですみません。
たぶん概要はこんな感じだと思います。

あと、
出雲大社で語っておきたいこととしては
代々ここで祭祀を担ってきたのは、
”出雲国造家”と言われる方々で、
始祖はアマ姉の子である
天穂日命(アメノホヒ、以下天さん)とされている。
細かく言うと、国造と言われ始めたのは
12代からとか17代からとか伝承によって
いろいろあるらしい。
お名前は千家(センゲ)家。

創建からずっと
千家家が担ってきていたのだが、
南北朝時代、56代の時に後継者問題から
千家家は北島家との両家に分裂。
とはいえ、明治維新までは、
交代で神官を務めたらしい。
※奇数月は千家家、偶数月は北島家が
神事を担当していたとか。

その後明治時代に入ってから
千家家が出雲大社教を興し、
北島家が出雲教を興す形となる。
違い…はよくわからないんだけど、
教団としては一応全く異なるものらしい。
でも北島家の出雲教の総本院は
出雲大社内の北島国造館に置かれてたりするので
たぶん私みたいな一般人?からすると
どこが…違うの…かな…?
うむむむむー??って感じではある。

両教団ともぬー様をご祭神として
祀っている訳だから、
似て非なるものではあるけれど、
似て似ているものでもある(なんだそれ笑)
んだろうなという気もする。
すみません、まぁ違うよ、ってことで。
(またぶん投げてるっ!)

出雲大社と言えば、
縁結びの神様として有名だけれど、
これの理由としては2つ有力説がある。
一つは、ぬー様がとにかく
めちゃくちゃモテたこと。
とにかくいろんな所で女性とくっついて
いろんな所で子供を作ってる。生命力!

あとは有名な、
「10月の神無月には
神様がみんな出雲に集まる」ってやつですね。
出雲では「神在月」と呼ばれて、
そこでお供えされてた”神在餅”が
”じんざいもち”→いろいろ訛って
→”ぜんざい”になって、
それが今のぜんざいの元祖です、
とかいうやつのアレです。
この時に神様同士がいろいろと
「あいつとこいつを引き合わそうぜ」とか
相談するとかしないとかからも
縁結びと言われているらしい。

出雲大社教と言えば、
年始にテレビなどで時々歌われる
「年のは~じめの ためし~とて~」
という歌、聞いたことないだろうか。
あれは出雲大社教を設立した
千家尊福(タカトミ)氏が作詞したものだ。

この尊福氏、結構すごい人で、
明治維新後、
神仏判然令(神仏習合を無くす令)が出たり
国家神道(いわゆる国家宗教的な)という
宗教的にも激動な時代の中で、
神道大社教(後の出雲大社教)という教団を設立。

その後出雲大社の管長を経て
元老院の議員、貴族院議員を経験後、
埼玉・静岡・東京の府知事に次々と就任、
西園寺内閣の大臣まで務めた上に、
今の都電の社長になるなど、
宗教人の枠を大きく越えて活躍した、
時の寵児的な人だったそうだ。

あと出雲と言えば、熊野との関係だ。
出雲にも熊野大社という大きな神社があり、
御祭神は実際はすごい長い名前なんだけど、
要するにスサノオだ。

スサノオ=熊野と言えば、
伊勢の熊野三山を調べた時にも書いたが、
スサノオを祀る熊野本宮大社だ。
現状お互いが「こっちがそっちに勧請した」
と言い合っているようだけれど、
素人目には総合的に考えても
出雲熊野→伊勢熊野に勧請ではないかと
勝手に想像している。

この出雲の熊野大社には
「亀太夫神事」という神事がある。

その神事では、
出雲大社のそれなりに偉い人が
熊野大社の下級職の太夫から
いろいろ難癖つけられたりするくだりがある。
(難癖つけることが神事の目的ではないが、
結果的に毎回難癖つけられる)
これを見ても
出雲熊野はかつて出雲大社と同等、
もしくはそれ以上の力を持っていたと
考えるのが妥当ではないかと思う。

とか、いろいろ探っていくと
出雲大社も歴史が長いだけに
やはりいろいろ面白い。
またおいおい時間があれば(あるけど)
調べてみようかなと思う。

この世(顕界)を照らす太陽神である
アマ姉を祀る伊勢神宮と、
目に見えない世界(幽界)を守る
ぬー様を祀る出雲大社の両社は
”日本のトップof 陰陽”であるという印象を
私は勝手に持っているんだけれど、

私はなんせ、
陽より陰、光より影、太陽より月、
にどうしても惹かれる人間なので、
そういう意味でも自分が
伊勢系より出雲系が好きなのも納得だし、
こうやって神様やその経緯などを知った上で
神社を巡ってみると、
また新たな発見や
神社と自分の心のつながりみたいなのが
出来るんじゃないかと思っている。

みなさんの神社巡りの御参考になれば
いいなと思っています。

★出雲大社の成り立ちの詳細はこちら
※前半はスサノオの話ですが、
 後半からぬー様の話になります。

★熊野大社の亀太夫神事の詳細はこちら

※あくまで何者でもない素人主婦の
ちょい調べですので、
間違っているところもあると思います。
ざっとこんな感じかな程度でお楽しみください。

※神様のお名前を略したりしてけしからん、
とかあるかと思いますが、
長い名前による知識吸収の挫折を避けたく
このような形にしています。
悪しからず…





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