実録詳伝・ピストル楊
台湾・伝説のアウトローを追う
1980年代中頃の台湾では、上のような文句から始まる粗い印刷のおかしな小冊子を手に入れる事が出来た。
題目は「東瀛大煞星楊雙五」、訳すと「日本の脅威、楊雙五」と言ったところか。どうやら「楊雙五」なる人物への中傷を目的として書かれたらしい。文中では「楊雙伍」の悪行が時系列に沿って列挙され、どこから引っ張って来たのか顔写真も載っており、発行人の並々ならぬ執念が窺える。日本でも台湾でも、この手の冊子が出回る事は別に珍しい事ではない。ばら撒く側も政敵、ストーカー、精神異常者と幅広いのだが、今回に限ってその出所はすぐに割れた。台湾の暗黒面に息づく黒社会(マフィアの大陸での呼び方)だ。楊雙五はその筋で広く知られた悪党だった。16歳で殺人を犯したというのも半分は本当である。彼はバーで喧嘩になった船員にナイフを突き立て、裏街道のスタートを切った。相手は結局半殺しで済んだが、この出来事は大きな話題となり、まだ高校に通う歳で彼は黒社会の住人となったのである。
そんな楊がこの冊子を見る事はついぞなかった。冊子の出回った頃には、彼は既に「日本の脅威」と化していた。その足跡は'83年7月21日付の読売新聞紙上に唐突に現れている。
「殺し屋」楊の日本での仕事は、日夜おしかけるマスコミ連中の相手をする事から始まった。
1.羊の皮を被った...
21日の報道から2日後、読売新聞はさらに詳しい情報を掴んでいる。情報源は他ならぬ楊本人だ。自分の顔を明かさぬ事を条件に取材に応じた彼は、記者を前にはじめソワソワと落ち着きがなかったが、日本語の喋れる母親(これも匿名)の補助を受けて自らのこれまでを語るうち、「次第に言葉にも力がこもり、台湾に残した家族のことを思い出すのか、時々目に涙を浮かべ、声をつまらせ」た。
ここまで書くと、楊が自分をどのように見せたがっていたのかが分かって来る。彼は自分を悲劇の主人公として書かれたがった。自国での悪評の原因はひとえに台湾政府にあり、自分は独裁的な当局の方針に異議を唱えた結果国を追われた「政治犯」であると弁明した。
彼は自らが「日本人」である事を強調しているフシがある。実は、日本語が話せるという彼の母親は日本から台湾に渡った正真正銘の日本人であった。台湾で現地の男と結婚し成した3人の子の長男が楊である。彼が割とすんなり日本国籍を取得できた理由も此処にあった。更に言えば、彼が己の道を踏み外した理由もひとつには此処に原因があるのだが、詳しくは後で述べよう。取り敢えず、あの手この手を使って世論を味方につけようとした楊の目論見に反して、警視庁は「そのまま信用できぬ」と冷静に事の真贋を見極める方向に動き、台湾当局を通じて彼の犯罪に関する資料を取り寄せ捜査を開始した。
既に楊の渡航発覚直後から、台湾より身柄引き渡しの要請は届いていた。しかし、日本はある慎重さを要する問題故に、これに素直に応じられずにいたのだった。前述の通り楊は日本と台湾2つの国籍を持つ二重国籍者である。台湾国籍ならば入国の時点で出入国管理令違反でしょっぴく事が出来たものの、日本国籍を保持しているとなるとそうはいかない。いくら片言とは言えそれは単なる帰国となり、国民を守る義務がある以上、当局としてもおいそれと彼を引き渡す訳にはいかなかったのだ。その渡航方法についても、貨物船の船室に隠れてやって来た、いや日本行きのアシアナ航空にパスポートを使って潜り込んだと諸説芬々であり、如何にもこうにも書類が届かぬ限りは指を咥えて見ている事しか出来ないのが現状であった。
事態はここから益々悪い方向へと向かって行くのだが、一旦話を切り上げて、彼の犯罪に関するさまざまな資料から、一足お先に楊雙伍という男の過去を洗い出してみる事としよう。
2.鬼子哀歌
─「日本鬼子」(リーベングイズ)
その言葉を知る人が、今どれほど居るか分からないが、かつては少なくとも1人の少年の将来を歪めてしまうほどの力を持っていた言葉である。文字面からも窺えるように、これは日本軍の大陸侵攻時、風紀を紊乱する日本兵を鬼に擬えて呼んだもので、戦争終結後は日本人全般を指す差別用語として定着していった。
太平洋戦争終結後、100年近く続いた日本の統治が終わり、新生台湾の誕生から7年が過ぎた1952年9月5日、台湾南部の高雄市六亀区に楊雙伍は一男二女の長男として生を受けた。その行く末を見ると奇妙な事だが、父・楊水木は法の番人たる警察の幹部だった。「雙伍」(双五)という名は、長男誕生時55歳だった父親にあやかって付けられた物である。彼の妻・加藤延子は祖父母の代から台湾に居を構えてきた入植者の家庭に生まれた娘で、高雄市の料理店「招風閣酒家」の芸妓として働いていた所を見染められて結婚し、三兄弟を産んだ。彼女の一族は終戦後、他の入植者と同じく帰国ラッシュに乗って日本へ帰って行ったが、延子はただ1人台湾に残り、名前も張延秋に変えて夫と3人の子供と共に生きる道を選んだ。雙伍5歳の時父がこの世を去ると、都市部の前金区で彼女は再び芸妓の道に戻り、その稼ぎで3人の子供達を育て上げた。
中国・台湾残留邦人の歴史はそのまま差別との戦いの歴史でもある。父を失い、前金区へと移り住んだ楊一家にも差別は容赦なく襲いかかった。街の不良は彼を無遠慮に「日本鬼子」の言葉で嘲り、時には暴力まで振るったという。しかしそんな時、彼らは決まって楊によるより強大な暴力でのやり返しを被る羽目になった。小柄な彼の体にはしかし誰よりも沸る血が流れていた。荒んだ環境が楊を力の信奉者へと変え、彼は既に不良の世界の掟、つまり舐められる事が即己の命取りとなることを理解していた。
とは楊の談である。こういう筋の通った暴力の行く末というのは限られてくるものだ。彼は中でも最もオーソドックスな道を進んだ。さらに深く深く社会の裏側へ落ち込んで行くのだ。楊は高校を中退し、日がな一日街の盛り場に入り浸った。其処では黒社会がぽっかりと底の見えない口を開けて彼を誘っていた。
ここで簡単に、台湾における黒社会の発展を振り返ってみよう。彼の地にはもともと伝統的に受け継がれてきた「幇」と呼ばれる互助グループ、秘密結社が存在していたが、楊が接点を持ったのは更に時代を下って戦後10年かそこらの間に生まれた新興の不良少年グループである。
'40年代の後半、台北で最も勢力を広げたギャング団「十二支」が勢力を弱めると、1950年、台北の某公立高校の生徒、通称「龍虎将軍」とあだ名された1人のワルの下で、それまで別々に活動していた「小九龍」と「四霸天」が合併し、「十三太保」が組織された。喧嘩自慢の構成員たちがあちこちで騒ぎを起こすにつれて、彼らに習った他の不良学生の間でも次々と徒党を組む輩が出現し、これが現代台湾黒社会の礎となっていった。
'55年、台湾大学に在学していた馮祖語が旗揚げした「四海幇」は、みるみる内に急成長を遂げて台北の長の位置に収まり、黒社会はますます賑やかに発展を遂げていく。四海幇がやがて多くの勢力を敵に回し、特に不良少年グループ「中和幇」を前身とする「竹聯幇」との間で頻繁な衝突を繰り返すようになると、度重なる抗争が当局の知るところとなり、四海幇はついに警察の介入によって’62年に壊滅。のちに再結成がなされるが、その時にはすでに戦いを征した竹聯幇が台湾の各地に点在した角頭(地方マフィアのボスを意味する)の殆どを統率する巨大組織へと変貌を遂げていた。
楊の暮らした高雄にも統合の波は来ていたが、彼が属したのはこうした竹聯幇系の組織ではない。当時、高雄でワルの吹き溜まる場所といえば映画館の暗がりだった。この時期の幇の中には映画館の仲間同士からスタートした物が多くある。'69年に高校を中退した後、楊は北宋時代の僧を祀る前金萬興宮の辺りで放蕩の限りを尽くし、また隣の新興区にある映画館「萬龍戲院」や「西北戲院」で仲間とつるんで遊んでいた。警察によれば、彼が「西北幇」と接触を持ったのはこの時期であるという。上の西北戯院で発起した、タガの外れた暴力と内部紛争で有名だった組織だ。元々相対する2つの幇、「斧头帮」と「猪灶帮」が合併して出来たこの組織は、その成り立ち故に内部での小競り合いが絶えず起こり、時に死者まで出すほどの大規模な抗争を頻発させていた。特に幹部格で後に幇主となった李慧昌という男が凄まじく、黒社会では渾名を「狂った殺人鬼」と言ったこの男と出くわすより、警官の方がまだマシと囁かれた程の傑物だった。「頭の中の腫瘍が脳を圧迫していて自分のコントロールが出来ていない」とまで噂されたその狼藉ぶりは今でも語り草となっている。
西北幇と関係を持ったのと時を同じくして、楊は前述した船員に対する殺人未遂事件を起こし、7ヶ月の懲役を食らった。
組織に所属してから、彼はあたかも李の生き様をなぞるように次々と凶悪犯罪に手を染めはじめ、裏街道を駆け上がっていくのだった。
3. 脱走と追跡のサンバ
2件の殺人未遂の後、監禁強盗事件を起こし、軍隊を逃げ出して何回かピストルの不法所持で御用となった楊は、'80年2月に8回目の逮捕と相成った後、遂に地獄の法務部矯正署緑島監獄へ、戻らずの「菅訓」にぶち込まれている。ここは台湾台東県から東33kmの海上に浮かぶ絶海の孤島だ。1947年以降から敷かれ続けていた戒厳令の下、独裁的な方針を貫いてきた国民党政府は、此処を共産主義者や政治犯、凶悪な犯罪組織のメンバーを収容し、労働や拷問を通して「菅訓」「矯正」する刑務所として用いていた。
'77年にも一度、緑島と同じ離れ島である小琉球の監獄に収容された経験を持っている楊だったが、最低3年の労役と鞭打ちはさすがに堪えたようである。同じ年の10月、本土台東県の医療刑務所に移送された彼は、機を見るに敏と警護の看守の耳に水銀温度計を突き刺し脱獄。これが足掛け10年に渡る大逃亡生活の始まりだった。
楊は日本に渡るまでの3年間、黒社会のツテを頼ってカジノの経営や劇場への投資をして暮らしていたと言う。彼が高雄を離れる事は無かったが、しかし台湾警察はこの3年間、1度ならず2度もこの脱獄囚を取り逃がしていた。楊は追い詰められる度、逃亡犯にあるまじき大胆さで全ての鉄火場を掻い潜ったのだ。特に警官隊を相手にした2度の包囲網突破は壮絶な物だった。
’82年10月11日、彼は高雄市三民区で知り合いが経営する会社を訪れた所をタレこまれ、舎弟の張文雄と共に警官隊の包囲の只中にあった。袋の鼠となった2人を、20人以上の警官隊の雨霰と浴びせかける銃弾が掠める。2人は果敢にも応戦したが、リボルバーと散弾銃それぞれ一丁ずつではどうにもならなかった。警官隊は圧倒的な戦力を盾にじわじわと彼らを追い詰めてゆく。だが、対する鼠もただの鼠では無い。そこに居るのは幾度も鉄火場を潜り抜けた「殺し屋」なのだ。彼らはその事を忘れていた。
此処に、不幸なる今回の犠牲者、警察官の梁郁文が登場する。窮鼠は彼に噛み付いた。追い詰められた楊は当時警官隊の1人として包囲に参加していた梁に散弾銃をぶっ放したのだ。30発の鉛玉に蜂の巣となった梁が倒れると、鼠の皮を脱いだ「殺し屋」は一瞬ゆるんだ包囲を舎弟と共に潜り抜け、再び夜の街へと消えた。散弾をまともに食らった梁は一命を取り留めたものの、左目を失い郊外の交番に左遷されてしまった。
20日後、高雄を走る一台のフォードが捜査網に引っかかった。中には楊と、もう1人の男。そしてまたしても、警官隊を敵に回した定例通りの銃撃戦が勃発する。再び土俵際の楊、だが今度の相棒は頼れる男だった。同じ西北幇に属し、殺人罪で追われる身となっていた陳耀國だ。楊の幼馴染で、子供の頃からの遊び友達でもある。台東の刑務所を脱獄した凶暴なガンマンだった。2人はマシンガンを手当たり次第撃ちまくり、手榴弾まで投げつけての大乱戦を繰り広げながら逃走。車を乗り捨てて追っ手を躱し、またしても逃げ延びるのであった。
・・・
「十大槍撃要犯」のリスト化が、内務省の莊亨岱によって形となったのはそれから2年後の事である。「槍撃」とは日本語の「銃撃」などと同じ意味を持つ言葉で、これはその名の通り銃器類で殺傷事件を起こし逃亡中の凶悪犯10人を、写真と名前入りで掲載した指名手配書だった。殆どが幇出身、筋金入りのアウトロー揃いの中、同じ西北幇から出た3人が残虐性で特に際だっている。「狂った殺人鬼」李慧昌、「耀坊や」こと陳耀國、そして「殺し屋」と呼ばれた楊雙伍。しかし「殺し屋」が自らの栄誉を直接目にすることは無かった。この時、すでに楊は日本への華麗なる脱出を遂げ、宮城県に潜伏していたからだ。彼は自分の蒔いた種が仇となって、台湾国内には居られなくなってしまっていた。大逃走劇の後、彼は2つの銃犯罪に関わり、1人が死亡、もう1人に重傷を負わせている。後者の事件は特に台湾に大スキャンダルを齎す結果となった。
5.カエルの為に鐘は鳴る
その日、高雄市新星区の劇場「藍寶石大歌廳」のステージに立った男は、肩を窄めて首を突き出すいつものスタイルで会場を大いに湧かせた。「青蛙王子」のあだ名に恥じぬ、カエルの目の様にでかいサングラスがライトに光る。高凌風は今宵も流行りの曲に身を任せ、目一杯歌い、踊った後、軽やかなステップの余韻を残してステージを去った。近くのホテルで友人と落ち合う予定があったのだ。足早に町を抜ける彼、その背後に同じく駆け足で近づく、2つの影に気付かぬまま...。
楊が手下を引き連れて、高雄西部の楠梓区に現れたのはその5ヶ月ほど前、’82年12月4日の事だ。逃走中ながらカジノの経営や投資事業で食っていけていた楊には、金に困っていたある仲間の為に立ち上がる余裕があった。楠梓区には実業家の王仙楠が住んでいる。事件の資料が少なく詳細は分からないが、彼は楊の手下の1人である鄒という男に借金をしていたらしい。今回楊はふがいない手下に代わりその取り立てを任されたという訳である。しかし王は突然来襲したコワモテどもに恐れ慄き、支払いを拒んだ。命あっての物種だろうに、究極の選択を誤った王はたちまちの内に取り巻きの1人が抜いた銃に脳髄をぶちぬかれ、血溜まりの中で息絶える羽目になったのである。単なる借金取り立ては殺人事件へと発展し、楊の罪の重みを増したが、元より罪の一つや二つに押し潰されるような男ではない。高凌風が高雄にやって来る事を聞いた彼は、張文雄と陳春長の子分2人を連れ、いきり立って新星区へと向かった。
高は招かれざる客だった。独特のスタイルから「カエルの王子」と渾名され、のちに’80年代ヒット・チャートの常連となるこの歌手は、スカウトマンに見出されるまで、キャバレーのドサ周りで幾つも危ない橋を渡り歩いていた。いざこざに巻き込まれて肩口を切りつけられた事もある。だがレコード・レーベル「歌林唱片」にスカウトされ、自曲「女明友」がヒットを飛ばすと、ドサ回りはたちまち興行主らの注目の的となり、あちこちの劇場が我先にと高に飛びついた。彼らは競い合って高額のギャラをちらつかせ、それぞれの懐に「王子」を誘った。札束乱れ飛ぶ戦場を勝ち抜き彼と契約を結んだのは、台北市万華区の「寶馬劇場」 だった。長期契約と引き換えに呈示されたギャラは何と400万円。すばらしい条件だが、かつて一夜で1億円すった経験を持つ大ギャンブラーでもあった「王子」は、それでも満足しなかった。それっぽっちの端金では、夜毎稼ぎの殆どを賭けに費やす高の欲望は満たされなかった。
4日後、契約を放り出して彼は"飛んだ"。
芸能人がこうした奔放さで周囲を振り回す事自体は別に珍しくも何ともない事だ。しかし少なくとも'80年代の台湾の演劇界でそれをやる命知らずは居なかった。'60年代以降、黒社会は演劇会にも深く浸透していた。この金のなる木は重要なシノギの1つだった。カンフー映画のエキストラ派遣から始まり、やがて映画監督からみかじめ料をせしめ始める。竹聯幇の「幽霊」と渾名された吴敦という男は遂に映画会社まで設立してしまった。彼に率いられ、この幇は映画産業でいたく金庫を潤したようだ。台湾における映画会社や劇場の影の支配人は黒社会だった。香港からジャッキー・チェンを呼んだのも黒社会である。俳優の中にも幇の構成員が居た。そして高は知るよしも無かったが、彼の蹴った寶馬劇場のバックにはあの竹聯幇がついていたのだった。
劇場の「支配人」董桂森は直ちに高の捜索を命じた。台北では構成員が彼の身辺を探り始める。捕まった後の処遇は想像に難くない。台湾では’82年だけで18人の芸能人が黒社会に消されていた。
こうして楊雙伍は高凌風と出会った。遥々南部の高雄まで下ってきた高は、逃亡中ながら黒社会に強い力を持っていた楊の庇護下に入ったのだ。のちにある雑誌が高をして「最も黒社会と関わりのあった芸能人」と評したように、彼にもキャバレーへの出入りで培った黒社会との接点があったようである。「寶馬劇場」の董桂森は思わぬ大物の出現に及び腰になり、結局楊の仲裁による手打ちの条件に同意してしまった。大枚叩いて手に入れた出演権も仲裁役へ明け渡され、楊は思わず転がり込んだ漁夫の利にえびす顔だった。彼は竹聯幇を追い払ったかと思うと、一転ピストルと手榴弾でもって高を脅し、南部での興行は自分のシマに限定して、もし他のシマで公演する場合は60万円をその都度収めなければならないという完全なる不平等条約を飲み込ませてしまったのである。
しかしこちらの蜜月も長くは続かなかった。高が上のインタビューで語っている様に、「藍寶石大歌廳」公演の決定後、契約通り代理人に渡された60万円は結局楊の懐には入らなかったのだ。更に運の悪い事には、逃走に次ぐ逃走で疑心暗鬼になっていた彼は高を警察の密告者と疑っていた。そして'83年4月2日、契約不履行のまま、何も知らない「カエルの王子」は楊の管轄外の「藍寶石大歌廳」のステージに上がったのである。此処はヒット歌手を多く排出した事で名高い劇場だ。高の気持ちも分かるが、ヒットを焦った代償は余りにも大きな物だった。
彼もまた、究極の選択を誤った。オファーを蹴って高雄を去る手もあったのだ。しかしその夜、高は栄光なる「藍寶石大歌廳」のステージを歌い切る。湧き立つ客席、輝かしいライトを一杯に浴びながら、彼がその光の陰に潜む、3つの影にとうとう気付く事は無かった。
コンサートが終わった事を、その時劇場裏の路地で息を潜めていた3人組は知った。守代も納めぬ裏切り者のコンサートである。暫くすると裏口に馬鹿でかいサングラスをかけた男が1人、それが高凌風だった。足早に道を行く彼を3人が追いかける。高はやがて背後に迫る3つの影に気付き、路地へ駆け込み、闇を縫って追跡を躱そうと試るが、闇の中で最早3人が正体を隠す必要も無かった。3丁のピストルが夜に煌めき、高雄の街に3発の銃声が響いた。高雄の埃っぽい裏路地に、命運尽きた「王子」の身体が音を立てて崩れ落ちた。
2発目の弾が高の臀部深くに食い込んでいた。盲管銃創である。彼は友人の歌手・張菲に助け起こされ、病院に搬送された。9針を縫う大怪我で、3か月の入院を余儀なくされた高だったが、驚くべき事に当時の彼には犯人の見当が全くついていなかったという。意味深な電話もあったというのに全くお気楽な男であるが、運のいい事に楊の側も、今回は警告の意味を込めて、殺さない程度に軽く"レクチャー"してやるだけのつもりだったらしい。しかし、お痛を咎めるだけだったにしても今回ばかりは相手の知名度が高すぎた。市民は黒社会の根深さを恐れ始め、有識者の間からは不甲斐ない警察の態度を批判する声が次々と上がり始める。
楊が高跳びを余儀なくされた理由はここにあった。逃亡犯を2回も取り逃がし、あまつさえ大物歌手が撃ち倒される事を防げず、面目を潰された警察は、この逃亡犯をただちに逮捕するべく、捜査により一層力を入れ始めたのだ。
しかし時すでに遅し。彼はすんでの所で台湾を脱出し、母親の手を借りて今や立派な「日本人」として宮城県の住宅地に、シェパードの愛犬「ビリー」と母親、更に愛人の3人で居を構え、住み着いてしまっていたのだった。
そして楊の後にした台湾では、黒社会と警察との抗争が絶頂に達してゆく。さしもの楊でも、もし後一歩遅ければ巻き込まれ、先に待っていたのは射殺か2度目の緑島だったであろう。それ程「一清専案」の威力は凄まじかった。その余波は日本で猫をかぶっていた楊にも届いた。彼の化けの皮が剥がれるまでの軌跡を辿るには、まず「一清専案」の次第について語らねばなるまい。
6.南国血徒就縛組
先に紹介した台東県洋上の刑務所・緑島は、のちに「親分衆の墓場」という不名誉な渾名で呼ばれる事になる。それは1984年から’85年にかけての、前例の無い大量検挙を迎えてからの事だった。1984年、菅訓の島流しにあった黒社会構成員の数1092人、更に翌年には3343人を数え、うち角頭が468人を占めている。
そもそもの始まりは、遠くアメリカで起こった一件の殺人事件だった。1984年10月15日、ヘンリー・リュウという名の男がサンフランシスコの自宅で殺された。本名を劉宜良という華僑の作家で、「江南」のペンネームで本を出していた。かつて国共内戦を逃れ、中国大陸から台湾に移った国民党軍の元大尉で、台湾で退役し、ジャーナリストに転職後、1967年に渡米。1970年になって蒋介石の息子で当時の台湾総統である蒋経国の自伝を出し、蒋家や国民党内部の権力闘争に触れたために自国での評価は芳しくなかった。
FBIの捜査で、最近出国した怪しい一群が直ぐに突き止められた。当時竹聯幇の幇主だった陳啓礼、同幇で映画産業を率いた「幽霊」こと吴敦、かつて大物歌手の高凌風を狙った「寶馬劇場」の董桂森の3人である。読者には懐かしい顔ぶれ、なんだか幇のオールスター大集合といった感じだ。それもその筈、彼らを選りすぐった真の黒幕は台湾の情報部だったのである。
劉の本は国家の神経を逆撫でし、遂にその存在を危惧した軍高官の一部が極秘のうちに幇から殺し屋を募って訓練を施した後、遠路遥々アメリカへ送り込んだのだった。計画の中心にいた国防部軍事情報局の局長と副局長、陸軍第三師団の師団長らが法廷に引き摺り出されたのは、年を跨いで’85年の1月10日の事。時計の針を少し巻き戻して前年の10月、台北で開かれた国家安全局主催の臨時緊急会議がいかに身内の尻拭いをするかについて、方針を決定した。
つまり、既に帰国済みの実行犯3人を、今現在世界の注視を浴びている江南暗殺事件に紐付けされないように逮捕する方法を決定したのである。台北で実施される予定だった犯罪撲滅の一斉検挙が全国規模に拡大され、あくまで暗殺者としてではなく黒社会の構成員であるという理由で3人を引っ張って行ける環境がセッティングされた。11月12日、警官隊が陳啓礼を連行し、翌13日、国家安全局の局長・汪敬煦の主導の元、この一大浄化作戦「一清専案」は公式に実行に移された。ここに、台湾警察と黒社会の2年にわたる戦いの火蓋が切って落とされたのである。
作戦の始まった’84年よりも、翌年になってから検挙数が増加しているのは、どうも同年施行された新法「動員勘亂時檢肅流氓條例」の力による所が大きいようだ。警察は陳啓礼に続けて吴敦を逮捕。董桂森には国外逃亡を許してしまったが、計画はほぼ目論見通りに行った。あとには大物小物含めて4000人以上の検挙者という、素晴らしい副産物が残った。
警官隊は事前に500人を超える黒社会関係者の名簿を作成していた。更に台湾の各警察署がそれぞれ警察官を派遣し、30以上の特攻チームが組織され、あちこちで包囲攻撃を行い、名だたる殺人犯や逃亡者をふくめて大量の犯罪者を引っ張っていった。首領を逮捕された竹聯幇の衰退したのは勿論の事、四海幇は四散状態となり、更に新興勢力の隆盛もあって、それまで存在した組織の殆どがそれまでの支配力を失った。高雄市においても作戦は凄まじい効果を見せ、首領・幹部格490人が逮捕され、かつて楊の所属した西北幇も殆ど壊滅状態に陥っていた。
最も、西北幇に限って最も影響を与えたのは大量検挙でなく、その2ヶ月ほど前に起きた首領の自殺劇だった。「猪灶帮」と「斧头幇」の2つの反目する組織が、上辺だけの和解を交わして合併し誕生したこの組織に結束などあってない様なもので、内部抗争の絶えることが無かったというのは前記した通りである。’80年代に入ると抗争はますます激化し、組織傘下にあった中陵建設会社の債務を巡る争いで「猪灶帮」側のボスが’83年4月17日に「斧头帮」の数人のヒットマンらに撃ち殺されると、たちまち血で血を洗う報復合戦が始まった。
この撃ち殺された「猪灶帮」のボス・呉守雄についていたのが、「狂った殺人鬼」こと李慧昌であった。彼は「猪灶帮」派のボスの座を引き継ぐと、先ず’84年5月3日、ヒットマンを放った「斧头帮」ボス・鄭傳心の経営するカジノで債務の回収を迫り、挙句相手を銃撃。これに怒った鄭が5日夜、李を襲撃して一緒にいた弟の志祥を殺害し、抗争は一気に泥沼化した。李の大した所は、殺されかけたその日の晩に、逆に鄭の家を襲撃してしまう事である。同じ日の夜に拳銃をもって鄭の家に躍り込んだ彼は、鄭を撃って負傷させた他、一緒に居た彼の15歳になる甥を撃ち殺して仇を打ち、なんたるスタミナか、それから2日後には更にもう1人の競争相手を路上で射殺している。高雄警察は15日、彼のために特別の逮捕プログラム「505专案」を作り出さなければならなかった。それは「猪灶帮」の組員10数人が台北市新興区の酒場でヘベレケに酔っぱらい、給仕をぶん殴って警察を呼ばれ、駆けつけた警官隊と銃撃戦を繰り広げて2人を殺したのと同じ日だった。高雄警察はプログラム成立後も幾度となく彼を追い詰めたがその度に取り逃がし続けていた。7月22日、李はそれを知ってか知らずか新興区の警察署に銃弾5発を撃ち込んでいる。
時は経って同年9月18日、警察に一通の密告電話が入った。台北市中和区のある家に、李慧昌が潜伏しているという。ただちに包囲網が敷かれ、現場をぐるりと取り囲んだ警官隊と李の間で戦場さながらの銃撃戦が始まった。一斉射撃、銃弾の雨の中で、いくつもの修羅場を潜り抜けた李の悪運は遂に尽きた。しばらく後、現場に1発の銃声が響く。終焉の鐘の音、「狂った殺人鬼」の最期の獲物は自らの命であった。銃口を咥えた彼が自らの頭を吹き飛ばし、凄絶に拳銃自殺を遂げると、一本柱を失った西北幇はみるみる内に骨抜きとなり、組織は一清専案の荒波の中で見るも無惨に四散してしまった。
台湾黒社会全体が変化の時を迎えていた。幇は組織としての形を失い、続々と企業に化けたり、地下に潜ったりして存続を図った。海外に拠点を構える者も居た。逃亡地には南米と日本が好んで選ばれ、特に日本はその近さと、黒社会と「国交」を結んでいた「ヤクザ」と呼ばれる裏社会が広がっていた為に、大量の黒社会構成員の流入を見る事になった。ヤクザもそれを積極的に助けていたフシがある。
同じ頃、一足先に日本へ来ていたある男も、変化の時を迎えていた。楊雙伍…いや、今や母の奔走により日本人「加藤祥康」へと姿を変えて彼の地に息づく男である。彼もまた、一介の移民としての殻を脱ぎ捨て、日本の闇、ヤクザの世界を目指して動き始めたのだ。
そして物語は最後の舞台へと場面を移す。欲望の街、新宿・歌舞伎町のネオンの底で、男たちの欲望は加速度的に勢いを増し、2つの欲望が真正面からぶつかり合った時、そこは硝煙と、銃声の語らう戦場へと姿を変えるのであった...。
7.男たちは東の夜に吼える
新宿を何処の派閥にも属さず、孤高の「鮫」として泳ぎ回る刑事・鮫島を描いた「新宿鮫」シリーズで知られるハードボイルド作家の大沢在昌は、シリーズ第2弾にあたる「毒猿」において、台湾マフィアの新宿における隆盛の一部を切り取り作品の土台とした。表題の「毒猿」とは、台湾から逃げてきたマフィアの親玉を追って来日した、凄腕の殺し屋の二つ名である。
テコンドーのネリョチャギ(脳天かかと落とし)で人間の頭を砕き、ヤクザの事務所をプラスチック爆弾とUziサブマシンガンでもって奇襲する、硝煙と血に塗れた「毒猿」の正体は本名を劉という元特殊部隊の軍人だった。しかし彼は異地に隠れ忍ぶため、楊という仮初の名を名乗っていた。
勿論この「毒猿」のモデルとなった人物こそが、今は宮城の長閑な住宅街に息を潜める楊雙伍その人である。来日時は一騒動あった「殺し屋」も、今では日本国籍を取得し「加藤祥康」の日本名を賜って、毒猿よりも上手く日本社会に溶け込んでいた。かといって、警察のマークから逃れられたわけではない。台湾-日本間では依然情報交換が続いていた。
日本から台湾への引き渡しに関して、台湾側で出版された興味深い資料がある。1986年6月の「政大法學評論 」第33期に寄稿された、「關於楊雙伍之引渡問題」という題の論文がそれだ。著者の政治学者・趙國材は文中で、渡航方法の是非に関わらず楊が日本国籍を取得している以上、次はその国籍が真っ当なものかどうかを審議しなければならないとしている。
彼の母親の加藤延子は、我が子が海を渡る10年前に、独り立ちした子供たちを残して日本へ帰っていた。楊の国籍は1971年にこの母親が取得したもので、国籍法の第3条に準拠して交付されたものだ。(文中では「戸籍法」第2条第3項と記載されているがおそらく間違い)。
要はこの手続きに際して不正が行われたのではないかと疑惑をかけている訳なのだが、もしここで不正があった場合には、もちろん楊の在留資格は失われることとなり、台湾政府への引き渡しにおける諸々の障害に突破口を開ける好機となる筈だった。特にこの疑惑に彼が実は父親と血縁関係に無かったのではないか、という考察が加味されている点は特筆しておくべきだろう。これは当時あったある驚くべき噂が関係していると思われるが、それについては追々述べていく。しかしこの論文の執筆時点で著者の趙ですら全容の掴めていなかった日本-台湾間の捜査協力の進展具合には只期待を込める他なく、のちの結果を見るとそれはあまり進んでは居なかったようだ。
そうこうしている内にも、台湾からはスネに傷持つコワモテどもが続々と流入してきていた。その数500人とも600人とも言われた軍勢のなかには、とんでも無い無法者が何人も紛れ込んでいた。先ずは「冷面殺手」と呼ばれた竹聯幇の劉煥榮。1981年から’84年にかけて、対立組織と裏切った仲間らの併せて5人を順繰りに1人ずつ殺し、更に’84年末マニラへ逃亡すると仲間と共に台湾人の商人一家7人を金のために殺した大量殺人鬼である。そして彼の仲間でマニラでの事件にも関与した齊瑞生と齊惠生の兄弟。この2人は劉と共に1983年に台北の華南銀行支店長を撃ち殺し、現金4000万円を強奪した事件にも関与していた。さらに四海幇からも大幹部の劉偉民が来日している。彼は江南事件のあと国外逃亡した董桂森を暗殺する政府の計画(結局頓挫したらしい)の実行役を任されたとも噂される大柄の冷酷な男で、'80年代に竹聯幇との間で激しい抗争を立て続けに起こしていた。こうして日本に殺到した台湾マフィアは、皆一様にして東京都新宿に陣取る「眠らない町」歌舞伎町を目指した。光の裏には影があり、繁華街の裏には闇のネットワークが拡がっている。それは日本でも台湾でも同じ事だった。ただ日本のヤクザと呼ばれるそれは、法の目を避けるように暮らす自分達と真逆を行く台湾マフィアらの凶暴さにたちまちたじろいでしまった。
後者に引用した某暴力団構成員の言葉には、台湾マフィアの重要なシノギ2つを見て取れる。女と麻雀だ。1986年、戒厳令の解除が軍事独裁にがんじがらめだった台湾に些かの民主化の風を吹き込み、自由出国を許された大勢の女性が国外へと羽ばたいていった。その中にバブルの金糸に絡め取られ、戻ってこなかった女性たちがいた。
一清専案の前後から、バブル景気に浮かれる日本国内には200軒以上の台湾系クラブと2000人を超える台湾人ホステスが居たという。そして大量検挙の煽りをくらって国を追われたマフィアたちは、群れをなして次々とこうした夜の蝶に寄生した。
マフィアはホステスに取り入ると、まず自らの主宰する台湾式の賭け麻雀に誘う。そこは違法な高レートの蔓延る闇の賭場だ。賭け事に慣れない女はたちまち有り金をむしり取られ無一文。更にクラブのオーナーまで勝負に巻き込んでむしり取る。女が月に稼ぐ金額が数百万、その殆どに加えて賭場からは一夜に数千万が懐に転がり込む。此処にクラブから守代5万〜10万が加わるが、これは殆ど日本のヤクザのご機嫌とりに費やされ、しかしそれでも尚余りある金が彼らの金庫にうなっていた。歌舞伎町のタワマンで美女を従えワインを嗜む、そんな「麻雀成金」とも言うべき暮らしも夢ではなかった。
そしてその成金衆の中に楊が居た。彼は他に先駆け1983年にはすでに新宿に活動拠点を移していた。それまで宮城で骨董商の免許を取ったり、運送業を始めてみたりと生き方を模索していた楊だったが、やはり咲き乱れる銭の花の香りには抗えず、宮城を後にしたのである。
「七賢幇の親玉」とあるがこれは西北幇の崩壊により所属が曖昧になったが故の誤報であったと思われる。他にも竹聯幇の命を受けて訪れたとか、当時の彼の所属に関しては資料ごとに様々な記載がなされているが、新宿に来て彼が身を寄せたのはそのどれでもない。彼は闇稼業の隠れ蓑に「祥伍商社」を発足。その傍ら、山口組系益田組の盃を受けていたのだ。1984年の事である。彼の「武勇伝」が知れ渡ったか、こちらでついた渾名は「ピストル楊」。しかし商社の取締役を務める楊は滅多に盛り場には姿を見せず、もっぱら電話を通して指示を出していたという。それでいて彼は、未だ台湾人の裏ネットワークに隠然たる権力を持っていた。新宿にたどりついた黒社会の面々は先ず真っ先に楊へ挨拶をしに訪れたし、彼らの間で争いがおきた時は楊が割って入り、鶴の一声で手打ちに持ち込んでいた。
台湾本国及び日本の幇と山口組を密接にした決定打が楊だった。同じ年、台北と新宿に山口組と竹聯幇がそれぞれ企業を装った連絡所を開設している。竹聯幇は1977年の「蚊哥」来日後から山口組と協力関係にあった。本名を許海清と言うこの男は、日本のヤクザと終戦の直後から交流があった大物で、またの名を「最後の調停者」。どの組織にも属さず、黒社会で起きる数多のいざこざをポケットマネーで解決してきたことからそう呼ばれた。山口組は九州から東京まで傘下組織を総動員して彼を歓待し、幇と友好な関係を築いたのである。そして6年後、楊が組織の盃を受ける事によって、その関係にさらに重きが置かれたのだった。
のちに朝日新聞の取材をうけた台北のある角頭はこう語っている。
組に籍を置いた後、暫くは悠々自適の生活が続いた。当時の生活を見る限り、組内での待遇は良かったようだ。楊の脱出を手助けしたのが他ならぬ山口組だという噂もあった。真偽はともかく、それが事実だとしてもおかしくない程、楊は組にとって重要な人物だった。
充実した生活を送る中でも、彼はうわべを取り繕うことを忘れてはいなかった。当時日本に赴き楊を取材した吳國棟という記者は、楊の小柄な体格と青白い顔からは、その暴力的な内面を窺い知ることは困難だったと述懐している。また彼の感動したところには、楊は酒も飲まなかったという。或いは、彼は平和ボケした金満生活の中で本当に牙を抜かれかけていたのかもしれない。日本人の社長を店に置き、家から電話で指示を出す。日がな一日ラジコンで遊び、ステレオをいじって趣味に明け暮れ、天気の良い日は愛犬ビリーを連れてのんびり散歩に出た。商売が軌道に乗ると、彼は母と愛人を東京へ呼び寄せ、一つ屋根の下で暮らした。
何不自由ない暮らし。しかし来日から2年が経とうとするころ、楊に一抹の不安を抱かせる出来事が起こる。
それは1986年1月の事だった。年明け早々、四谷署は始まって以来の、世紀の大悪党に直面する事になる。事の端緒はある不運な台湾人貿易商であった。彼は歌舞伎町のホテルで最近流行りの賭け麻雀をやり、お決まりのように騙されて57万円を脅し取られそうになっていた。その時、ゲームは3人打ちで進行していたのだが、後の2人はグル。結局彼は頭から尻まで罠にハマり、イカサマ疑惑をかけられ恐喝と相なったのである。
四谷署は直ちにこの2人を逮捕、連行した。彼らが目下国際指名手配中の殺人コンビ、劉煥榮と齊惠生だと分かったのは、もっと後になっての事だった。2人は’85年に偽造パスポートで入国し、覚醒剤の密輸ビジネスに奔走していた。そうと分かればもはや2人を留めておく道理もない。彼らは直ちに台湾に送り返され、それぞれ死刑と無期懲役の判決が降った。この恐喝にはもう一人の殺人者・齊瑞生も絡んでいたのだが、その行方は杳として知れなかった。
年が変わって1987年2月23日の事である。埼玉県東松山市の林を抜ける私道を通っていた会社員が、巻かれてビニール紐で縛られた季節外れの夏物布団の転がっているのを見つけた。一端から突き出た靴下を履いた足が、その中身を教えていた。
少し後、警察は彼の太ももに彫られた刺青から、こめかみを撃ち抜かれて殺されたこの男が「林俊財」と名乗っていた指名手配中の台湾人である事を突き止めた。殺人犯・齊瑞生の哀れな末路であった。のちに彼は大久保のマンションで殺害された後、ここまで運ばれていた事が分かった。彼は内部抗争の、おそらく最も初期の犠牲者である。一連の事件は大々的に報道された。その多くが、同じく台湾からの招かれざる客に悩まされていたアメリカを先例に、日本でも市民を巻き込んだ抗争が展開されるのではないかと危惧する内容だった。
こうした記事は楊を不安にさせた。彼は日本における台湾マフィアの暗躍が露呈する事で、隠れ忍ぶ自分の身にも捜査の手が伸びてくる事を恐れていた。一清専案から2年も経つと、日本はもはやフロンティアでは無くなり、闇に犇く台湾マフィアは女や金を巡ってこうした小競り合いを絶えず起こしていた。そして当然、ネットワークの中心にいた楊もその火の粉を頭から引っ被る事となったのである。それはやがて最悪の結末へと彼らを引き摺り込んでいったのだった...。
8.702号室の決闘
1987年12月7日夜、新宿署に1通の電話が舞い込んだ。男3人が血まみれになって倒れているという、東京消防庁からの連絡だった。現場となった大久保のマンション「サンハイム大久保」に駆けつけた刑事たちが見たのは地獄の惨状であった。先ず入り口に背中を撃たれて虫の息の男が1人。結局、彼が事件の唯一の生存者となった。何故か靴下しか履いていないこの男を助け起こし、現場の702号室に向かう。時刻は8時を回ろうとしていた。既にドアの前の廊下は鮮血で赤黒くぬらついていた。
扉の向こう、玄関奥の板の間に、男がうつ伏せで倒れていた。裏返すと顔中が血で濡れている。銃弾は彼の眉間のど真ん中を捉え、深く暗い大きな穴を開けていた。部屋の中には濃い血の香りが漂い、壁に残された無数の弾痕が、寸刻前ここで起きた熾烈な銃撃戦を物語る。部屋に入って直ぐ右のキッチンで、もう1人の犠牲者は死んでいた。体長180cmを超える大柄の男だった。血染めの紺のジャンパーの下、胸や頭に弾が食い込んでいた。死んでいた2人はなぜか靴を履いたままだった。
翌日、なんとか容体を持ち直した靴下の男の身元が割れる。彼はシャオ・チン・フェン(漢字不明)という台湾人だった。彼の「部屋でお茶を飲んでいたら、台湾人が5、6人乱入、短銃で撃たれた」との証言に基づき、警察は部屋の中で死んでいた男らを襲撃グループとして捜査を開始した。現場検証ではテーブルの上に湯呑み茶碗が5〜6個確認され、フェンの証言を裏付けた。
警察がやっと犯行グループの尻尾を掴めたのは、年を跨いで'88年の事であった。下手人として捕えられたのは横浜のヤクザ組織「島田組」の組長と配下の2人、それぞれ台湾人と韓国人の3人。
だが取り調べにより、現場にはあともう4人ほどの人間が臨席していた事が判明する。全員がすでに逃げ果せた後で、直ちに指名手配がなされる運びとなった。警察はその中の1人の名前を聞いて、多分猛烈に後悔した筈である。彼は事件の主犯、2人を撃ち殺した島田組のガンマンで、その拳銃の腕前から「ピストル楊」の名を賜っていた台湾人だった。楊雙伍こと加藤祥康、その名は真っ先に手配リストに書きつけられた。
さて、何気に初めて彼の拳銃の腕に言及したわけであるが、勿論ながらその実力について公式の記録が残っている訳ではない。インターネットにも書籍にも、「拳銃の腕はプロ級」と書かれてこそすれ、その出典はほぼ記載が無いのである。
だが今回、筆者はある人物から核心に迫る情報を入手する事が出来た。1991年にTBSのバラエティー番組「ギミア・ぶれいく」で台湾マフィアの特集を組み、視聴率20%を叩き出した放送作家でジャーナリストの原渕勝仁氏だ。氏は取材に際して台湾に赴き、現地で囁かれていた楊にまつわる噂を数多く聴いている。その中にこんな物があった。
確かに楊には兵役に行っていた時期がある。というより、1951年から続いていた徴兵制により、当時の台湾人男性の殆どが軍隊経験者だった。先の「ギミア・ぶれいく」中でもその点については触れられていて、日本との比較がなされていた。そういう状況下で、つまり兵役というものが特別なステータスとして機能しない環境下で尚、こうした噂が広まったという事は、やはりその技術には飛び抜けた物があったのだろう。
そしてこの頃にはそんな「ピストル楊」に勝負を挑んだ命知らず達の身元も特定されていた。特にキッチンで死んでいた大男が所持していたパスポートは、日本の警察に更なる驚きをもたらした。彼は「ローランド・ユエン・リュウ」というボリビア国籍を持った台湾人だった。本名・劉偉民。そう、一清専案で台湾を追われた四海幇の大幹部だ。もう1人の身元特定は遅れたが、のちに彼の連れてきたボディーガードの王鎮華という武闘派マフィアだった事が明かされている。
・・・
2人が新宿に移ってきたのは1987年9月の事だった。彼らはまず仁義に則ってこの街の支配者の下へ挨拶に出向いた。楊雙伍は2人を歓待し、新天地での滑り出しは上々かに思えた。
この男、劉偉民には夢があった。彼は’60年代の竹聯幇との抗争に敗れ散り散りになった四海幇を一つにまとめ、かつての栄光を再び取り戻そうとする動きの中心にいた人物だった。’70年代に特産物ビジネスで財を成し、組の金庫を潤した劉のグループは「新四海」と呼ばれるまでに成長を遂げていた。しかし次期頭目の線も濃厚とまで言われた彼も一清専案の荒波には抗えなかった。組織は再び四散。自身も追われる身となり、流れ流れて此処新宿の盛り場へとたどり着いたのだった。
彼もまた他の幇と同じく、ここ日本を基盤に三度の復興を狙っていた。そしてこれも多分に漏れず、先ず闇の賭け麻雀に手を出した。共同経営者として林重南というこれまた逃亡中のマフィアを引き込んで、楊の下で話は進み、10月には賭場が開かれる。しかし此処に来て、ある人物が賭場の株を譲渡して欲しいと寄って来た。誰あろう楊その人であった。
彼は300万の札束を持ってやって来た。しかしこの世界でそんな端金に目の眩むバカはハナから生きてはゆけないのだ。その点、劉は新入りながら強かで、一晩に1000万を生む金のガチョウをみすみす手放すような真似はしなかった。劉はこの誘いを突っぱね、2人の反目がここから始まった。
楊は素直に軍門に降らぬ劉に憤っていたようだが、劉の側の怒りはさらに複雑なものであった。自分は幇の幹部、それも組織にはとびきり金を入れた復興の功労者で、相手は田舎者のイモい「殺し屋」。だがなぜ海を渡った順番が少しばかり早かっただけで、俺があんなイモ野郎に尻尾を振って、挙句稼ぎまで掠め取られにゃいかんのだ。或いはそれは一清専案を図らずも逃れ、日本で成功を掴んだ楊へのやっかみだったのかも知れない。軋轢は大きく、一度は2人で台湾から来日したさる大物を交えて食事会を開いたものの、結局宴も早々に口論となり楊が中座してぶち壊しになってしまった。
本土であれば彼は再び"レクチャー"のため拳銃を引き抜いた事だろう。しかし異地・日本でそんな事をしでかそう物なら、たちまち劉煥榮の二の舞になる事は目に見えていた。かといって、楊の方には手を引くという選択肢も採れないのっぴきならぬ理由があった。彼の友、李敬庸が劉偉民の賭場で多額の借金を作ってしまっていたのである。手下に金を工面してやるため資産家宅に乗り込んだような男の事、少々の手心を加えてくれるよう、劉偉民に頼み込む為の話し合いの場がセッティングされるまで、そう時間はかからなかった。
そして運命の1987年12月7日、大久保のサンハイム大久保702号室、李とその妻が暮らす部屋で、男たちは顔を合わせる。夜7時、先ず現れたのは楊と島田組長の一行だった。証言を総合すると、部屋を借りるのに名義を貸した林、そしてこれも劉の傘下だったシャオは楊らの後から来室したのか、元から居たのかは不明だが、彼らとしばし一緒に居て、李を交えて茶を飲んでいたようである。
そこに劉が王鎮華を連れてやってきた。ドアを開けるや否や、中々金を返さない李を見咎めた彼は靴を脱ぐのもそこそこに板の間を巨体を揺らして突っ切り飛びかかった。首根っこを掴まれる李、楊は堪らず止めに入るが、劉の方が一足早く左腕をその首に巻きつけアームロックをかまして動きを止めた。林と李夫妻は慌てて別室に引き下がった。残された者たちの間には重い沈黙が立ち込めていた。
言うが早いか右腕がズボンに滑り込む。引き抜いた手に光が走る。劉は楊の頭に銃口を突きつけ、引き金を引いた...筈だった。弾は出なかった。続けて引かれた2回目の引き金にも銃弾は応えなかった。一瞬の静寂、それを破ったのは、楊がいきなりの弾詰まりに焦る彼の腕の中で、身を捩り、ベルトから引っこ抜いた38口径の銃声だった。
閉ざされた別室で、林と李夫妻は3発の銃声を聴いた。3つの風穴から血を迸らせながら、劉の身体が力を失って倒れる。それを合図に、島田たちが板の間に走る王とシャオに雨霰と銃弾を浴びせかけた。向き直った楊の放った1発が王の眉間にぶち込まれた。のちに行われた司法解剖の結果は、王を射殺した拳銃が38口径のものであった事を明るみにしている。そしてシャオを追いかけながら硝煙でむせ返るような部屋を飛び出した楊一行のうちの誰かが、アパート入り口で彼に45口径をぶっ放し、一行はそのまま大久保の夜に消えた。
9.祭りの後
日本警察が楊を見つける事はついぞ無かった。一行の中で楊だけが行方をくらましたままだった。彼は何処に消えたのか。実は逃げ出した楊はそのまま再び日本を飛び出し、シンガポールからフィリピンを経て中国大陸に渡っていた。「殺し屋」から新宿の裏のドンに転身を遂げた彼の、最後の転職先は武器商人だった。
’80年代から’90年代にかけて、台湾や日本に大量に流れ込んだトカレフという拳銃がある。特に日本ではヤクザを通じて一般人にまで流れ、様々な事件に用いられて紙面を賑わした。写真のトカレフは1992年に町田市で起きた立てこもり事件の犯人が用いた物で、ヤクザを通してこの銃を手に入れた犯人は警官1人を射殺している。
さて、名前から既にお察しの方も居るかも知れないが、このトカレフ拳銃は先の大戦の最中ソ連で発明された物だ。しかし、アジアに流れた物はオリジナルではない。既に1949年、中国は自治を勝ち取るや直ぐに軍備増強を狙ってこのトカレフを国内生産するノウハウを確立していた。それ以降この国の関わった様々な国々では、S&Wやブローニングに勝るとも劣らない本場アメリカ泣かせの性能を誇ったこのコピー品、グリップ部に刻まれた赤や黒の星から「黒星」「紅星」と呼ばれた中国製トカレフが幅を利かせていったのだった
日本や台湾の闇市場で売られたトカレフの出所ははっきりとしない。どうも軍による正規品と密造された非正規品とが混じり合って存在していたようで、特に正規品は兵器工廠から直送でばら撒かれているとか、その売上は軍の福利厚生に充てられているとか驚くべき噂が多くあった。中でも当時の台湾で囁かれていたある陰謀論がすごい。曰く、中国共産党はトカレフを台湾にばら撒き社会不安を増長させ内紛を起こさせようとしていた、というのだ。
識者らがその根拠とした一つの事例が楊だった。当時中国の福建省、厦門省、広州の政府や軍関係者と友好関係を築いていたと言われる彼は、短い間だったが台湾へ大量の「黒星」を持ち込んだと言われている。一度は中国を根城にしていた他の武器商人ら17人と共に検挙されたが、証拠不十分であるとして釈放されてしまった。台湾当局は中国公安部に犯罪歴を含む楊の情報を提供していたのにも関わらず、である。
そして第3の人生を共に生きる伴侶も彼は見つける事が出来た。湖北省のラジオ局でCDを売っていた女性を見事射止めたのである。2人は懇ろになり(籍は入れていない)、子供も1人、女の子をもうけ暫し幸せに暮らした。子供が2歳になる頃、楊は中国マフィアの伝手で自分と妻、子供の偽造パスポートを手に入れ、タイへバカンスに向かう準備をしていた。今度こそは彼の牙も爪も、根本から完全にひき抜かれたようだった。この旅行に合わせて彼は馮建民に名を変えている。しかしそれが効果を発揮できたのは極々短い間であった。
彼がのほほんと日々を過ごす内にも台湾警察は着実に逮捕への外堀を埋めていた。’88年4月には林重南がフィリピンで逮捕されている。東南アジアに張り巡らされた情報網が楊の動きを掴むのに、そう時間はかからなかった。
1990年7月17日、台湾警察は素晴らしい情報を得て、要員をタイに向かわせた。遡る事1週間前、当国が7年に渡り追い続ける指名手配犯が雲南省経由でタイ入りしたというのだ。その男、馮建民こと楊雙伍は妻子と友人を連れてチェンマイとプーケットを廻り、いま首都のバンコクに滞在中だという。先に向かった揚岱諺、何招凡はタイ警察と連携し1週間かけて計画を練り上げた。更に25日には陳榮傑、王麗喬の2捜査官が加わって、作戦は満を持して26日に決行に移されたのであった。
26日午後3時、潜伏場所に突撃した捜査員を相手に、楊は賄賂をちらつかせて買収を試みたらしい。だがそれも効かないと知るや、ガラスをぶち破って逃亡を図る。破片で眉を切っても彼は足掻いた。闇の下へ。自由の下へと。
台湾に到着した彼を刑事局長までが出迎えた。取調べには二昼夜が費やされたが、その間楊は檳榔を噛んで眠らず、マスコミのレンズに映し出されたその顔には冷笑すら浮かんでいたという。
同年、裁判所は彼に無期懲役を言い渡した...。
10.ピストル楊・Returns
・・・
2003年9月3日、午後2時を少し回った頃、台湾の北の果てに位置する桃園市・臺北監獄の前は黒スーツのコワモテとマスコミでごった返していた。明らかにカタギでない黒スーツどもは記者に対し、今から来る男の写真を撮るのは良いが、インタビューは避ける様、そしてあまり近づきすぎないように警告した。
午後3時、監獄の方から3台のセダンが群衆の前に滑り込んだ。ドアが開き、白い靴が地を踏み締める。楊雙伍はこうして少しシワの増えた顔を綻ばせながら、人混みを縫って仮釈放の手続きをしに管理室へ歩んでいったのだった。
楊はこの時51歳。10年以上の獄中生活で彼は3回自殺を試み、1994年には武器売買・誘拐の罪で収監されていた詹龍欄という男を、裏ルートで手に入れたナタで切りつけたりと、衰える事なくスキャンダラスな話題を提供し続けていた。
今回の仮釈放は、母親である加藤延子の奔走の賜物だった。入獄中、息子の首のリンパにしこりが見つかった事を知った御年80歳の母親は、監獄に向けて震える手で仮釈放を願う手紙を書き続けた。それは何回も拒まれたが、今回遂に実を結んだのである。こうして奇しくも緑島の時と条件を同じくして、楊は三度目の自由の喜びを噛み締める事が出来たのだった。
・・・
少しして、手続きを終えた楊が再び姿を現し、監獄の前の人垣はまた慌ただしく動き出した。何とか近づこうと試みるカメラを黒スーツが体で止める。じわじわと包囲を狭めるレンズの群れを避けるように、楊はさっさと迎えのリムジンに乗り込み車を出させた。社用車でその後ろに食らいついた「蘋果新聞網」の記者達も、楊の車列から離脱した一台が進路を塞ぎ、中から黒スーツが降りてくるのを見て退散せざるを得なかった。車列はそのまま高雄へ向かい走り去っていった。
そして楊は今もそこに住み、こぢんまりとした自動車整備工場とダンスホールの二足の草鞋を履いて、籍を入れた妻と娘と一緒に暮らしているという。
・・・
最後の最後に、筆者が前述したジャーナリスト・原渕勝仁氏から聞いたもう一つの驚くべき噂を紹介して終わろう。もしかすると読者の中には、劉煥榮に下された死刑判決がなぜ彼には下らなかったのか、不思議に思われた方も居るかもしれない。当時の台湾でも国民感情は同じようなものだったらしく、判決の裏には黒幕の介在があったのではないかとの噂が流れた。
これが事実とすれば大変なスキャンダルだ。しかし筆者には裏を取れるだけの調査力もコネもないし、万に一つ取れたとしても突然失踪→東京湾なんてオチは御免被りたいから、真相は読者に丸投げしてこの項を締め括るとしよう。
引用・参考文献
読売新聞 1983年7月21日号・7月23日号
朝日新聞
1987年2月23日号
2月24日号
12月8日号
12月9日号
12月15日号
1988年1月20日号
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8月18日号
1990年8月1日号
1994年7月20日号日本経済新聞
1987年12月8日号
1987年12月9日号「FOCUS」新潮社
1983年8月19日号
1988年2月5日号「Touch」1988年1/5・12合併号 小学館
「現代」1988年2月号 講談社
溝口敦「中国「黒社会」の掟 ― チャイナマフィアー」講談社+α文庫 2006年
別冊宝島337「ヤクザという生き方 日本黒社会」宝島社 1997年
大沢在昌「毒猿 新宿鮫II」
光文社カッパノベルス 1991年陳龍城/張秀娟「台湾黒社会内幕」
中国華僑出版公司 1990年mirrormedia
【解密台灣黑幫】楊雙伍台日混血從小遭辱變凶狠 日本新宿槍殺前四海幫主
【解密台灣黑幫】楊雙伍服刑結識全台角頭 逃獄後更大尾成江湖「亡命三煞」重大歷史懸疑案件調查辦公室
【台灣黑道名帖003】:台灣殺手亡命日本,黑幫老大血濺新宿(上)
【台灣黑道名帖003】:台灣殺手亡命日本,黑幫老大血濺新宿(下)華視CTS
失約惹火黑道 高凌風遭開槍射殺e-GOV法令検索
Wikipedia
画像出典
YouTube
報道カメラが見た実録40年史「あの事件この犯罪④」(1992年)
2014.08.15 新聞龍捲風part6 「亂跨場」惹火黑幫老大 藍寶石歌廳外又傳槍響?中文百科
四海幇聯合新聞網
高雄槍擊案頻傳 35年前羅大佑就唱過
Special Thanks
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