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令和の言葉で読む 夏目漱石『こころ』中 両親と私

はじめに

この文章は、夏目漱石の『こころ』を令和の人々が読みやすいよう、現在の言葉に翻訳したもので、「上 先生と私」の続きです。

高校生でも読みやすいような文章を意識しており、言語としての翻訳だけでなく、解釈の上での内容の調整も行っています。
節ごとのタイトルは、内容をイメージしやすいよう訳者が独自に付けています。
原文が気になる方は、ぜひ青空文庫などでご覧ください。
(原作は既に著作権が切れております)

『こころ』では、先生と私の関係や、過去の人間関係などに着目されがちですが、「中 両親と私」を読んでいると、両親との関係も重要なテーマの一つであることを感じます。
先生と私の関係に比べ、より気心が知れている家族同士の会話は、カジュアルで気軽に読むことができます。
また、田舎の両親と噛み合わない部分がありながらも、それを大事に思う主人公の様子は、現代の自分たちとなんら変わらないものであると感じます。

※ この文章は全て無料で読めます。最後まで読んで気に入ってくれたらご支援をいただけると励みになります。


第一節 卒業証書

家に帰って意外だったのは、父の健康状態が前回見たときとほとんど変わっていなかったことだった。

「ああ、帰ってきたのか。そうか、卒業できてよかった。ちょっと待ってなさい、今顔を洗ってくるから」
父は庭で何かしていた。古い麦わら帽子の後ろに日よけのために結んだ汚れたハンカチをひらひらさせながら、井戸がある裏の方へ回っていった。

卒業を当たり前のことと考えていた私は、それを予想以上に喜んでくれる父に申し訳なく思った。 「卒業できてよかった」 父はこの言葉を何度も繰り返した。私は心の中で、卒業式の夜、先生の家での食事で「おめでとう」と言われたときの先生の表情と、卒業をとても珍しそうに喜ぶ父の様子を比較した。正直な所が気になりながらも祝福してくれる先生の方が、素朴な父よりも上品に見えた。最終的には、父の無知が引き起こす田舎臭さに不快さを感じ始めた。

「大学卒業したくらいでそんなにすごいことじゃないです。毎年何百人もの人が卒業しています」 私はついそんな風に言ってしまった。
父は変な顔をした。

「卒業したからすごいんじゃない。もちろん卒業はすごいことだが、俺が言いたいのはもう少し意味があるんだ。それをお前が理解してくれたら…」
私は父の言葉を待った。父は言いにくそうだったが、結局こう語った。
「要するに、俺がすごいと思っているのは自分のことなんだ。俺がお前の知っているように病気なのは確かだ。去年の冬、お前に会ったときは、たぶんもう3月か4月までしかないと考えていたんだ。ところがどういう運命か、今日までこうして生きている。不自由なく暮らしている。その間にお前が卒業してくれたから嬉しいんだ。手塩にかけた息子が自分が死んだ後で卒業するよりも、元気なうちに卒業してくれた方が親としては嬉しいじゃないか。大きな考えをもっているお前からしたら、ただ大学を卒業した程度で喜ばれるのは面白くないかもしれない。しかし、俺の立場から見れば、事情が少し違うんだよ。つまり、卒業はお前にとってよりも、この俺にとって嬉しいことなんだ。わかるかい」

私は何も言えなかった。申し訳なさ以上に恥ずかしくて顔を伏せた。父は堂々と自分の死を覚悟していたらしい。しかも、私が卒業する前に亡くなるだろうと決意していたらしい。父の気持ちを全く考えていなかった私は本当に愚かだった。

私はカバンから卒業証書を取り出し、それを丁寧に父と母に見せた。証書は何かに押しつぶされて、元の形を失っていた。父はそれを丁寧に伸ばした。「こんなものは、くるくるまいて持ってくるものだよ」 「中に紙でも入れたらよかったね」と母も一緒に言った。

父はしばらくそれを見てから、立ち上がって床の間へ行き、誰の目にもすぐに入るような正面に証書を置いた。いつもの私ならすぐなんとか言ったはずだが、その時は違っていた。父や母に反抗する気がまったく起きなかった。私は黙って父のしたいように任せた。

一度癖のついた紙の証書は、なかなか父の思い通りにはならなかった。適切な位置に置こうとしても、自分の形に戻ろうとする力で倒れそうになった。


第二節 母

私は母を陰に呼び、父の病状について尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭仕事をしているけど、本当に大丈夫なんですか?」
「もう心配なさそうだよ。きっと良くなっているんだろうね」
と、母は意外にも心配していなかった。
田舎の自然の中で暮らす人々の常として、つまり母はそのようなことについては全く知らなかった。それにしても、前回父が倒れた時には、とても驚いて心配していたのに、と私はひとりで異なる感情を持った。

「でも、医者はあの時、状態がとても難しいって言ったじゃないですか」「だから、人の体ほど不思議なものはないと思うんだよ。医者ですら、あんなに心配していたのが、今は元気に過ごしているんだからね。私も最初は心配して、動かないようにしてあげようとしたけど、父さんは気性が強くてね。一度自分が良いと思い込むと、私の話なんか聞かないんだから」
と母は言った。

私は前回帰省した時、父が無理をして起き上がり、髭を剃った様子を思い出した。その時の「もう大丈夫、お母さんが心配しすぎるから問題ないんだ」という言葉を考えると、単に母だけを責めることもできないと感じた。

しかし、どこかで注意しなくちゃいけないと思いながらも、結局は遠慮して何も言わなかった。ただ、自分の知る範囲で父の病気について話して聞かせた。それでも、その情報の大部分は先生と先生の奥さんから得たものに過ぎなかった。母は特に感動する様子もなく、「へえ、やはり同じ病気なのか。お気の毒に。その方は何歳で亡くなったの?」などと尋ねた。

仕方なく、母をそのままにして、直接父に話をした。父の方が母よりも真面目に私の注意を聞いてくれた。
「確かに、お前の言うとおりだ。でも、自分の体は結局自分のものだから、その体をどう養生するかは、長年の経験に基づいて自分が一番よくわかっている」と父は言った。

それを聞いた母は苦笑いした。「それ、ご覧なさい」と言った。
「でも、父さんは自分でちゃんと覚悟しているんですよ。今度、私が卒業して帰ってきたのをとても喜んでるんです。生きている間には卒業できないかと思ってたのが、元気なうちに卒業証書を持って帰ってこれたから、それがうれしいって、父さんは自分でそう言ってましたよ」
「そんなこと言ってもね、心の中ではまだ大丈夫だと思っているんだよ」と母は言った。
「本当ですか?」
「まだまだ10年も20年も生きるつもりだよ。たまには私に対して不安そうなことを言うけどね。このままでは長くないかもしれない、私が死んだらお前はどうするのか、一人でこの家に残る気があるのかなんてね」

私は急に、父がいなくなり母が一人残された時の、この古い広い田舎の家を想像してみた。父を除いた後、この家がそのまま存続するだろうか。兄はどう反応するだろうか。母はどう思うだろうか。そして、私は再びこの土地を離れて東京で気軽に暮らせるだろうか。母の前で、先生が健在のうちに財産分与をするべきだと以前言っていたことを思い出した。

「死ぬ死ぬと言う人が実際に死ぬことはないから安心して。お父さんも死ぬ死ぬと言いながら、まだ何年も生きるつもりだよ。そういう人よりも、黙っている健康な人の方が心配だからね」と母は言った。
私は何とも言えずに、このありきたりな、理屈からも統計からもきていないような母の言葉をじっと聞いていた。


第三節 祝い

私は両親の間で話題となった、卒業を理由に赤いご飯を炊いてお客様をもてなす計画を聞いた。帰るなり、こんなことになりそうだと感じ、心の中でそれを恐れていた。私は即座に断った。
「そんな大掛かりなことはやめてください」と私は言った。
私は田舎のお客さんが苦手だった。飲んで食べることだけを目的に訪れる彼らは、何かあればすぐ称賛するような人々ばかりだった。子供の頃からそのような席で仕えるのが辛く感じていた。ましてや自分のために彼らが来るのだと思うと、私の苦痛はさらに強く感じられた。しかし、父母には、そんな野暮ったい人たちを集めて騒ぐのをやめろと言い出すこともできなかった。だから、「大げさなことはいらない」と主張した。
「大げさなんてことはない。人生で二度とないことだから、お客さんくらい招くのは当たり前だよ。遠慮する必要はない」と母は言った。母は私が大学を卒業したことを、まるで嫁をもらったくらいに重く捉えていたようだった。

「呼ばなくてもいいが、呼ばないと何と言われるか分からないからな」と父が言った。父は彼らの裏での言葉を気にしていた。実際、そういう人たちは期待されたことが起こらないと、すぐ何かと言いたがるものだった。
「東京と違って、田舎はうるさいからな」と父も付け加えた。
「お父さんの顔もあるんだから」と母も言った。
私は意地を張るわけにはいかなかった。両親に任せることにした。
「私のためにはやめてくださいというだけのことです。裏で何か言われることが嫌だというなら、それは別です。両親に不利益が生じることを私が強く主張しても仕方ありません」と私は言った。
「そんな理屈を言われると困る」と父は困った顔をした。
「何もお前のためにするわけじゃないけど、お前だって世間体くらいは分かっているでしょう」と母は言った。女ならではのあたふたとした言い方だったが、その発言の量から言えば、父と私を二人合わせてもかないそうになかった。

「学問をすると人間がどうしても理屈っぽくなってしまう」と父は言った。しかし私は、この短い言葉の中に、父が普段から私に持っている不満全てを見た。その時、私は自分の言葉遣いの角の立っている部分に気付かず、父の不満が不当のように感じられた。
その夜、父は気を取り直して、もし客を招くとしたらいつが都合がいいかと私に聞いた。ただ家にぶらぶらしている私にとって、都合のいい日も悪い日もなかったが、これは父が折れてきたということだった。私は穏やかな父の前で頑固さを捨て、一緒に客を招く日を決めた。
その日程がまだ迫っていないうちに、大きな事件が起こった。それは明治天皇の病気の報道だった。新聞によってすぐに全日本に広まったこの出来事は、田舎の家の中でようやくまとまろうとしていた私の卒業祝いの計画を、一掃してしまった。
「やはり、控えた方がいい」と、新聞を読んでいた父は言った。父は黙って自分の病気のことも考えているようだった。私はこの間、例年通り大学に行幸してくださった天皇のことを思い出していた。


第四節 天子

静かで広すぎる古い家の中で、私は荷物を解き、本を開いて読み始めた。なぜか私は落ち着かなかった。眩しい東京の下宿の二階で、遠くを走る電車の音を聞きながらページをめくるほうが、心に張りがあり、学習に集中できた。

私は時々、机にもたれて居眠りをし、時にはあえて枕を出して昼寝をすることもあった。目が覚めると、セミの声が聞こえた。夢の続きのようなその声は、突然耳をつんざくように響いた。私はじっとそれを聞きながら、時に悲しい気持ちを抱いた。

私はペンを取り、友人たちに短い葉書きや長い手紙を書いた。その友人たちの中には、東京に残っている人もいれば、遠く故郷に帰った人もいた。返事が来る友人もいれば、音信不通のままの友人もいた。もちろん私は先生のことを忘れていなかった。国へ帰ってからの自分の状態についての手紙を原稿用紙に細かい字で3枚ばかり書き、送ることにした。手紙を封じる時、果たして先生はまだ東京にいるのか疑問に思った。先生が奥さんと旅行に出る時は、いつも50歳ぐらいの女性がどこかから来て留守番をしていた。先生にその女性が何者か尋ねたら、先生は「私には親類はいません」と答えた。その女性は、先生とは関係のない奥さんの親戚だった。郵便を出す時、私はついその女性の姿を思い出した。もし先生夫婦が避暑に出かけている後に手紙が届いたら、その女性がそれを転送してくれるだけの気配りと親切を持っているだろうかと思った。それでいて、手紙の中身には重要なことは書いていないと私は理解していた。ただ、私は寂しかった。先生から返事が来るのを待っていた。しかし、その返事は結局来なかった。

父は前の冬に帰ってきた時ほど、将棋を指したがらなくなった。将棋盤は埃が積もったまま、床の間の隅に片付けられていた。特に天皇の病気が報じられてからは、父は考え込んでいるように見えた。父は毎日、新聞を待ちわび、自分が一番に読んだ。そして読み終わると、わざわざ私のいる場所まで持ってきてくれた。
「ほら、見てみなさい。今日も天子様のことが詳しく書かれている」と父は言った。父は天皇をいつも「天子様」と呼んだ。

「残念な話だが、天子様の病気も、父さんのと似ているのかもしれないな」と父は言い、その顔には深い憂慮の影があった。そんなことを言われて、私の心にはまた父がいつ倒れるかわからないという不安がよぎった。
「でも、大丈夫だろう。私のような取るに足らない人間でも、まだこうしていられるんだから」と父は自分の健康を自分で保証しつつ、いつ危険が訪れるかを感じているようだった。

「お父さんは本当に病気を怖がっているんです、お母さんが言っていたように10年も20年も生きる気はなさそうですよ」と私が伝えると、母は戸惑いの顔を見せた。
「もう少し将棋でも打ってみたらどうですか」
母が提案し、私は床の間から将棋盤を取り出し、埃を払った。


第五節 崩御

時間が経つにつれて、父の元気は徐々に衰えていった。かつては活発に動いていた父が、最近は動きが鈍くなるようになった。私は黒くすすけた棚の上に置かれた父の古い麦わら帽子を見るたびに、胸が痛んだ。父の健康について、私はよく母と話し合った。

「気のせいよ」と母は言った。母は天皇の病気と父の病気を結び付けて考えていたようだったが、私にはそう思えなかった。
「気のせいじゃないです。本当に体調が悪くなっているんじゃないかと思います。どうも気分よりも体の健康が悪くなっていくようです」と私は言い、心の中で、遠くからまともな医者を呼んで診てもらうかと考えた。

「今年の夏はあなたもつまらなかったでしょう。卒業のお祝いもできずに、お父さんの健康も心配だし、それに天子様のご病気まで…。もしすぐにでもお客さんを招いていたらよかったのに」と母は言った。私が帰ってきたのは7月の初旬で、両親が卒業祝いとしてお客さんを招こうと提案したのは、それから1週間後であった。そして、その行事を行う日はさらに1週間以上先になっていた。のんびりとした田舎に戻った私にとっては、これによって望ましくない社会的負担から救われたが、母は私がそう感じていることを全く理解していないようだった。

天皇の崩御の報が伝えられた時、父は新聞を持って「ああ、ああ」と言った。「ああ、ああ、天子様もとうとう亡くなった。俺も…」と、父は言葉を続けなかった。

私は町に出て黒い布を買ってきて、旗竿の頂点を覆い、幅3寸の黒い布を取り付けて門の横から斜めに外へと伸ばした。旗も黒い布も、風のない空気の中でだらりと垂れ下がっていた。私の家の古い門の屋根は藁で覆われており、雨や風に晒されて灰色に変色し、その凹凸が目立っていた。私は門の外に出て、黒い布と白い毛織物の生地、そして白い生地の中に染め抜かれた赤い日の丸の色を見つめた。それらが古い屋根の藁に映るのも眺めた。かつて先生が「あなたの家はどんな様子ですか。私の故郷とは随分違いますかね」と尋ねたことを思い出した。私は自分の生まれた古い家を先生に見せたかった。でも、見せるのも恥ずかしい気もした。

再び家の中に入り、机がある場所へ来て、新聞を読みながら、遠く東京の様子を想像した。私は日本で一番大きな都市が、どれほど暗く、どのように動いているのかを想像した。私はその暗い中で終わりが見えないように動く都市の中の不安でざわめいている中で、先生の家を一つの灯火のように見た。そのとき、私はこの灯火が静かな渦の中に自然と巻き込まれていることに気がつかなかった。やがてその光もふっと消え去る運命にあるとは、思いもしなかった。

私はこの事件について先生に手紙を書こうとし、ペンを取ったが、十数行書いてやめた。書いたものは裂いて廃紙入れに捨てた。(先生にそのようなことを書いても無駄であり、過去の例からして、返信を期待できないからだ)。私は寂しかった。だから手紙を書いたのだ。そして、返事が来てくれればいいと願っていた。


第六節 仕事

8月の中ごろになると、私はある友人から手紙を受け取った。その手紙には、地方の中学校で教員の職があるが興味があるかと書かれていた。経済的な必要から仕事を探していたその友人は、もっと良い職を見つけたので余った職を私に譲ってくれるつもりで知らせてくれたのだ。私はすぐに返事を出してその申し出を断った。知り合いの中には教員になりたがっている人がいるので、その職を彼らに回してもらうとよいと書いた。

返事を出したあとで、その話を父と母にした。二人とも私が断ったことに異論はないようだった。
「そんなところに行かなくても、もっと良い職があるだろう」と彼らは言ったが、私は彼らが私に対して抱いている過剰な期待を感じた。考えもしない地位や収入を新卒の私に期待しているようだった。
「今の時代にそんな良い職はそう簡単にはありません。兄さんとは専門が違うし、時代も違うので、兄と同じようにはいかないです」と私は反論した。「でも、卒業したからには、少なくとも独立してやっていかなければ困る。人から君の息子は大学を卒業したのに何をしているのかと聞かれたときに、答えができないのは都合が悪い」と父は不満そうに言った。父の視点は古くからの田舎にとどまっていた。同郷の人から、大学卒業でどれくらい稼げるかを聞かれたり、あるいは百円くらいはもらえるのではないかと言われたりした父は、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。

大都市を基盤として考えていた私は、父や母にとっては、まるで空中に足を向けて歩くような奇妙な人間のようだった。私も自分がそうした人間のような感覚を持つこともあった。しかし、父と母のような遠く離れた考え方を持つ人たちの前で、自分の考えを率直に述べることはできずに黙っていた。

「お前がいつも先生、先生と言っているその方に頼めば良いじゃないか、こんな時こそ」と母は言った。
その先生は、私が家に帰ったら、父が生きているうちに財産を分けてもらうように進言した人だったが、大学を卒業したからといって仕事を斡旋してくれるわけではなかった。
「その先生は何をしているんだ?」と父が尋ねた。
「何もしていません」と私は答えた。私は昔から先生について、何もしていないことを父や母に伝えたつもりだった。そして父は確かにそれを覚えているはずだった。
「何もしていないというのは、どういうわけだ。お前がそんなに尊敬する人なら、何かしているはずだが」と父は皮肉を込めて言った。父の考えでは、何か役に立つ人は社会に出てちゃんと地位を得て働いているものだ。何もせずに遊んでいる人はろくでもない人だと決めつけられているようだった。
「俺のような人間だって、月給はもらっていないが、ずっと遊んでいるわけじゃない」と父は付け加えた。
しかし、私はまだ黙っていた。
「そんなに立派な人なら、必ず何か斡旋してくれるだろう。お願いしてみたらどうだい?」と母が言った。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃあどうしようもないね。どうしてお願いしないんだい?手紙を書いてみなさい」と母は続けた。
「はい」と私は生返事をして席を立った。


第七節 手紙

父は明らかに自分の病気を恐れていたが、医者が来るたびに煩わしい質問をして困らせるようなことはしなかった。医者も遠慮して何も言わなかった。父は死後のことを考え、自分がいなくなったあとの家のことを想像しているようだった。

「子供に教育を受けさせるのが良いのか悪いのか分からないな。一生懸命に学ばせると、その子は絶対に家には戻ってこない。これはまるで親子を引き離すために教育をさせているようなものだ」と言っていた。学問のために兄は今遠くにいて、教育の結果として私はまた東京で生活する決意を新たにした。そんな子供を育てた父の不満はもっともだった。長年住んだ田舎の家に一人残されそうな母のことを考える父の想像は、非常に寂しいものだった。

わが家は動かすことのできないものだと父は信じていた。そこに住む母も生きている間は動かす事ができないと信じていた。
自分が死んだ後、孤独な母を一人家に残すことへの父の不安は大きかった。それでも東京で良い職を見つけるよう私に強く言っていた父の考えには矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思うと同時に、それで東京に行けることを喜んだ。

父や母のために、良い職を手に入れるために努力しているように見せる必要があった。私は先生に手紙を書いて家の状況を詳しく説明した。もし自分の力でできる事があったら何でもするから斡旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合わないだろうと思いながらこの手紙を書いた。 また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできないだろうと思いながらこの手紙を書いた。 しかし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。

封筒に入れる前に母に手紙を渡して、「先生に手紙を書きました。お母さんが言った通りにです。ちょっと読んでみてください」と言った。母は私の想像に反して読まず、「そうかい、じゃあ早く出しなさい。そういうことは他の人が気をつけなくても、自分で早くするものだよ」と答えた。母は私をまだ子供のように考えており、私も実際子供のような気持ちだった。

「しかし、手紙だけでは十分ではありません。結局、九月になって東京に行ってからでないと」と私が言うと、
「そりゃそうかもしれないが、ひょっとしたら良い働き口があるかもしれないんだから、早めに頼んでおくに越したことはないよ」と母は答えた。
「ええ。とにかく返事は必ず来ますから、そのときにまた話しましょう」
と私は言った。
先生が几帳面だと信じていた私は、返事が来るのを楽しみに待っていた。

しかし、予想に反して、一週間経っても先生からは何の連絡もなかった。
「おそらくどこか避暑にでも行っているんでしょう」と、私は母に言い訳をしなければならなかったが、その言葉は母に対する言い訳のみならず、私自身への言い訳でもあった。私は無理にでも何か理由を想像して先生の態度を弁護しないと不安になった。

私は時々父の病気のことを忘れながら、いっそ早く東京に行きたいと思ったりもした。父自身も病気のことを忘れることがあった。未来を心配しながらも、何の対策も取らなかった。結局、先生にアドバイスされた遺産分けの話を父に持ち出す機会は無かった。


第八節 蝉

9月の初めになり、私はとうとうまた東京へ向かおうと決めた。私は父に、当面の間、今まで通りの学資を送り続けてほしいと頼んだ。
「ここにいても、あなたが思うような地位には就けませんから」
私は、父が望む地位を得るために東京へ行こうとするかのように言った。 「もちろん、良い仕事が見つかるまでです」とも言った。
心の中では、そのような仕事が私にやってくることは絶望的だと思っていた。

しかし情報に疎い父は、まだその逆を信じていた。
「少しの間だけのことだろうから、何とか手配しよう。だが長くは無理だ。適当な地位が見つかったら、すぐに自立しなければならん。もともと学校を卒業した以上、卒業と同時に他人の援助を受けるなんてことはあってはならないのだ。今の若い者はお金の使い方はわかっているが、稼ぎ方については全く考えていないようだな」
父はその他にも様々な注意をした。
その中には、「昔の親は子供に養われたのに、今の親は子供を養ってばかりだ」というようなことも言っていた。それらを私はただ黙って聞いていた。

注意が一通り終わりそうになった時、私は静かに立ち上がろうとした。父はいつ出発するのかと私に尋ねた。私にとっては早ければ早いほど良かった。
「お母さんに日程を決めてもらいなさい」
「そうします」
その時の私は父の前で異様におとなしかった。なるべく父の機嫌を損ねないようにこの田舎から出ようとしたのだ。父はまた私を引き止めようとした。
「お前が東京へ行くと家はまた寂しくなる。母さんと俺だけなんだからな。この身体が元気ならいいが、今の様子ではいつ何が起こるかわからないんだ」

私は可能な限り父を慰めると、自分の机がある部屋へ戻った。そこに座り、散らかっている本にかまけて、心細そうな父の態度や言葉を何度も思い返した。
そして再び蝉の声を聞いた。先日までとは違い、今回はツクツクボウシの鳴き声だった。夏に郷里に戻って来てから、ただ座ってセミの鳴き声を耳にすると、なぜか悲しい気持ちになることがよくあった。私の哀しみは、その虫の熱烈な鳴き声とともに、心の底に沁み込んでいったのだ。
そんな時、私はじっと動かずに、いつも一人で自分と向き合っていた。
この夏に帰省してから、私の哀しみは少しずつその感情の色を変えてきた。アブラゼミの声がツクツクボウシに変わるように、周りの人々の運命も大きな輪の中でゆるやかに動いているように感じられた。

さびしそうな父の態度や言葉を繰り返し思いながら、来た手紙に返事をくれない先生のこともまた思い浮かべた。先生と父は、まったく異なる印象を私に与えており、比較や連想の対象として私の心に上がってくることがよくあった。
私は父のことをほとんどすべて知っていた。もし父から離れるなら、情合の上に親子の心残りがあるだけだった。しかし先生の多くはまだ私にはわかっていなかった。語ると約束された彼の過去もまだ聞けていなかったのだ。要するに先生は私にとって薄暗い存在だった。私はどうしてもその暗闇を抜け出して、明るい場所まで進まなければ気が済まなかった。先生との関係が絶たれることは、私にとって非常な苦痛だった。

母に日程を決めてもらい、東京行きの日取りを定めた。


第九節 急変

出発する直前のことだった(たしか2日前の夕方だったと思うが)、父が突然具合が悪くなった。その時私は書物や衣服を詰めた旅行かばんを用意していた。父は風呂に入るところだったが、背中を流していた母が大声で私を呼んだ。私は裸のまま母に抱えられている父を見た。それでも居間に戻った時、父はもう大丈夫だと言った。安心するために横になった父の頭を冷やしタオルで冷やしながら、夜9時ごろにようやく簡単な夕食を済ませた。

次の日、父は思ったより元気があるようだった。止めるのを聞かずに歩いてトイレへ行ったりもした。
「もう大丈夫」 去年の暮れに具合が悪くなった時に私に言ったのと同じ言葉を、父はまた繰り返した。その時は実際にかなり回復していた。今回も同じようになるかもしれないと私は思った。しかし、医者はただ慎重になるようにと注意し、私がしつこく確認してもはっきりしたことは教えてくれなかった。

不安から、出発の日が来てもついに東京へ行く気にはならなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と母に提案した。
「そうしておくれ」と母は答えた。
母は、父が庭へ出たり脇戸から下りたりする元気を見る限りは平気を装っていたが、こういうことが起きるとまた必要以上に心配する癖があった。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が尋ねた。
「はい、少し延期しました」と私が答えた。
「俺のためか」と父が返した。
私は少し躊躇った。そうだと言えば、父の病気の重さを認めるようなものだったからだ。父の緊張を高めたくなかったが、父は私の考えを見抜いていたようだ。
「気の毒だな」と言って、外を眺めた。

私は自分の部屋に入って、そこに放置されたかばんを眺めた。かばんは、いつでも持ち出せるように、しっかりと縛られたままだった。私はぼんやりそれを前に立って、また綱を解くべきかと考えた。

不安な気持ちのまま座っていた私は、その後3、4日を過ごした。すると、父が再び倒れた。医者は絶対安静を命じた。

「どうしたものだろうね」と母は、父に聞こえないように小さな声で私に言った。母の顔は心細そうだった。私は兄たちに電報を打つ準備をした。しかし病床にある父はほとんど苦しみを示さず、風邪を引いた時と変わらぬ様子だった。それに食欲は途切れることなく、周囲の者が注意しても耳を貸さなかった。

「どうせ死ぬんだから、うまいものでも食べて死なないとな」と父は言った。父の言葉は、滑稽でもあり、哀れとも感じられた。父はうまいものを口にすることがあまりなかったのだ。夜になるとかき餅を焼いては、ぽりぽりと齧った。
「なんでこんなにのどが渇くんだろうな。やっぱり体に丈夫な所があるんだろうな」と父は言った。母は、失望した反面、その話にも何か頼りにするものを見出していた。それでいて、病気の時にしか使わない古風な「渇く」という言葉を、食欲があることを示す意味で使っていた。

伯父が見舞いに来た時、父はずっと引き留めて帰さなかった。寂しいからこそもっといてくれというのが主な理由だったが、母や私が許さないほどの物を食べたいという不平を訴えることも、その目的の一つだったようだ。


第十節 容態

父の病状は同じような状態が一週間以上続いた。その間に私は長い手紙を九州にいる兄に向けて出した。妹には母から手紙を出させた。私は心の中で、多分これが父の健康について二人に伝える最後の連絡になるだろうと考えていた。そのため、本当にいよいよという時は電報を打つからすぐに来るようにと両方に書き添えた。

兄は忙しい仕事をしていて、妹は妊娠中だった。だから父の状況が目の前に迫っていない限り、彼らを呼び寄せることはできなかった。かと言って、折角来てもらったものの、間に合わなかったなんて言われるのも辛い。いつ電報を打つべきかについて、他人には分からない重い責任を感じた。

「はっきりとしたことは私にも分かりません。しかし危険がいつ来るか分からないということだけは承知しておいてください」 停車場のある町から呼んだ医者は私にそう言った。私は母と相談して、その医者の仲介で、町の病院に看護婦を一人頼んだ。父は病床の側に来て挨拶をした白い服を着た女性を見て、変な顔をした。

父は自分が死の病に罹っていることをとっくに自覚していた。それでも実際の死が迫っているのには気が付かない様子だった。

「もうちょっとしたら癒えたら、もう一度東京に遊びに行こうかな。人間いつ死ぬか分からないから、やりたいことは生きているうちにやっておくべきだ」
母はしょうがなく「その時は私も一緒に連れて行っていただきますわ」と相槌を打った。

時々、父はとても寂しがった。 「俺が死んだら、どうか母さんを大切にしてやってくれ」 私はこの「俺が死んだら」という言葉にある種の記憶を持っていた。東京を離れる時、先生が奥さんに向かって何度もそれを繰り返したのは私が卒業した日の夜だった。私は微笑んでいた先生の顔と、困って耳を塞いだ奥さんの姿を思い出した。あの時の「俺が死んだら」は単なる仮定だった。今私が聞いているのは、いつ起こるか分からない現実だった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶことができなかったが、何とかして口先では父を紛らわせなければならなかった。
「そんな弱気なことを言ってはいけませんよ。もうすぐ癒えて、東京に遊びに来るはずですから。母さんと一緒に。次に来た時はきっと驚きますよ、変わっていますから。電車の新しい線路だけでも随分増えていますからね。電車が通ると自然と町並みも変わりますし、市区改正もあるし、東京は一分の休みもないほど忙しいんですよ」
私は仕方なく、言うべきではないことまで話し続けた。父も満足そうに聞いていた。

病人がいるので家には自然と出入りが多くなった。近所の親戚などは2日に1人ぐらいの割合で交代で見舞いに来た。たまに普段あまり付き合いがない遠い親戚からも来ることがあった。「どうかと思ったけど、この様子だと大丈夫ですね。話も普通にできるし、顔色も落ち着いていますよ」と言って帰る者もいた。私の帰省当時はひっそりしていた家が、こんな風ににぎやかになり始めた。

その中でじっとしている父の病気はただ悪い方向に進んでいっただけだった。私は母と伯父と話し合って、とうとう兄と妹に電報を打った。兄からはすぐに来ると返事があった。妹の夫からも旅立つと報せがあった。前に妹が妊娠した際に流産しているので、今回は大切にしてもらうつもりだと以前から言っていた妹の夫は、妹の代わりに自らが来る可能性もあった。


第十一節 手紙

この落ち着かない期間でも、私はまだ静かに座る余裕を持っていた。たまには本を開いて、一気に十ページも読む時間さえ見つけた。一度しっかり縛られた私の旅行かばんは、いつの間にか解かれていた。私は気が向くままに、その中からいろいろなものを取り出していた。東京を去るとき、夏の間にやろうと心に決めた日課があったが、それを振り返ると、私が達成したことはその三分の一にも満たなかった。今まで何度もこのような不快感を味わってきたが、この夏ほど計画が狂うことは少なかった。人の世の常だとは思いつつも、不快な感覚に押しつぶされそうになった。

不快感を感じながら一方では父の病気に思いを馳せ、父が亡くなった後のことに想いをはせた。そして同時に先生のことも考えた。落ち込んだ心持ちの中で、性格も教育も立場も全く異なる二人の人物の面影を眺めた。

父の枕元を離れ、取り散らかした本の間で腕を組んでいるとき、母が顔を出した。
「少しお昼寝でもしましょう。あなたも疲れているでしょう」母は私の気分を理解していなかった。そして私も、そうした理解を母から期待するほど幼い子供ではなかった。私は単に礼を述べただけだった。

母はまだ部屋の入口に立っており、「お父さんは?」と私が尋ねたら、「今よく眠っています」と母が答えた。
突然母は入ってきて私の隣に座り、「先生からまだ何も連絡がないの?」と尋ねた。
母はその時の私の言葉を信じていた。その時、私は確実に先生から返事が来ると母に保証していた。しかし、父や母が望んでいたような返事が来るとは、当時の私もまったく期待していなかった。結果的に、私はわざと母をだましたのと同じことになってしまった。

「もう一度手紙を出してみなさい」と母が言った。
もしそれが母の慰めになるなら、手数を惜しむ私ではなかった。だが、そのようなことで先生に迫るのは私にとって苦痛だった。父に叱られたり母の機嫌を損ねたりするよりも、先生から見下されることをずっと恐れていた。先生からこれまで一度も返事が来なかったのも、そんな理由からではないかと邪推していた。

「手紙を書くのは簡単ですが、こういうことは郵送だけでは解決しません。どうしても自分で東京に行き、直接お願いしなければならないのです」
「だけどお父さんがあんな状況じゃ、いつ東京に出られるか分からないじゃないか」
「だから出ません。治るか治らないかがはっきりするまでは、きちんとここにいるつもりです」
「それは当然のことです。重い病人をほったらかして、誰が勝手に東京に行けるものですか」

始めは何も知らない母を哀れに思ったが、なぜこんな時にそんな話を持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気を忘れて静かに座ったり書物を読んだりする余裕があるように、母も目の前の病人を忘れて別のことを考える余地があるのだろうかと疑問に思った。

その時、「実は」と母が言い出した。
「実際に父さんが生きている間に、お前の仕事が決まれば、きっと安心するだろうと思っているんだがね。この状態を見ると、間に合うかどうかわからないけれども、それでもまだあんな風に口も確かなのだから、元気なうちに喜ばせてあげられるよう親孝行をおしなさい」と母は言った。

哀れな私は親孝行ができない状況にあった。
結局、私は先生に一行の手紙も送らなかった。


第十二節 電報

兄が帰省したとき、父はベッドで新聞を読んでいた。父は平常から何にも増して新聞に目を通す習慣があり、病床についてからは退屈しのぎになおさらそれを読みたがるようになった。母も私も、あえて反対せずに、なるべく病人の望む通りにさせてやっていた。

「そんなに元気があるなら結構ですね。もっと具合が悪いと思って来たら、思ったよりずっといいじゃないですか」と兄は父と会話を交わしながら言った。兄のその活発すぎる調子が私にはかえって不協和な感じがした。それでも父の前を離れ私と向き合ったときは、むしろ沈んで見えた。

「新聞なんか読ませるべきじゃなかったんじゃないか?」
「私もそう思いますが、読ませてと言われると断れないから、仕方がなかったんです」
兄は私の言い分を黙って聞いていたが、やがて「よく理解して読んでいるのかな?」と尋ねた。兄は父の理解力が病気の影響で、普段よりかなり鈍っているのではないかと気づいたようだった。

「そこは確かです。私はさっき20分ほど枕元に座って色々話してみましたが、調子が狂っている様子は全くありませんでした。あの様子からすると、思ったよりも長く持つかもしれません」
兄と入れ違いに到着した妹の夫は、私たちよりもかなり楽観的だった。

父は彼に向かって妹の事をあれこれ尋ねた。
「体がそういう状態だから無理に電車で長旅はしない方がいい。無理をして見舞いに来られても、こっちが心配するだけだから」と父は言っていた。「大丈夫、回復したら赤ん坊の顔を見に、久しぶりにこちらから出かけから問題ない」とも父は付け加えた。

乃木将軍が亡くなったというニュースも、父は新聞に最初に目を通して知った。「大変だ大変だ」と言ったので、何も知らない私たちはその突然の言葉に驚かされた。
「あのときは父が本当に頭がおかしくなったのだと思って、ぞっとした」と兄が後で私に語った。
「実は私もびっくりしました」と妹の夫も同感のような返答をした。

当時の新聞は、実際田舎の人々には日々驚くような記事ばかりであった。私は父の枕元に座り、丁寧に読んで聞かせたり、読む時間がないときは、そっと自分の部屋に持っていって全部目を通していた。長い間、私の目は軍服を着た乃木将軍と、それから官女のような服を着た妻の姿を忘れることができなかった。

悲愴な空気が田舎の隅々まで吹き抜けて、眠たそうな樹木や草を震わせている最中に、突然先生からの電報を受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠えるほどの田舎では、1通の電報でも大事件だった。それを受け取った母は、驚いたような様子を示して、わざわざ私を人目につかない場所へ呼び出した。「何ですか?」と言いながら、母は私の手元にある封筒を開けるのを待っていた。

電報には「少しお会いしたい、来られますか?」という趣旨が簡単に書かれていた。私は首を傾げた。「きっと頼んでいた働き口のことだよ」と母は推測した。

私もそれが事実かもしれないと思ったが、何か違和感も覚えた。とにかく、兄も妹の夫も呼び寄せたばかりの私が、父の病状を考えずに東京へ行くわけにはいかなかった。母と相談の上で、行けないという旨の返電をすることにした。父が危篤に瀕していることも簡潔に付け加えたが、それだけでは心が落ち着かなかったので、その日のうちに詳細を書いた手紙を郵送した。頼んだ就職のことだけだと思い込んでいた母は、「本当に都合の悪い時には仕方がないものだね」と言いながら残念そうな顔をした。


第十三節 病床

私が送った手紙はかなり長いものだった。母も私も、今度こそ先生から何か返答があるだろうと考えていた。手紙を出して二日目に、また私宛てに電報が届いた。それには「来なくてもよい」とだけ書かれてあった。私はそれを母に見せた。
「きっと手紙で何とか言ってくれるつもりなのでしょう」と母は楽観的に解釈しているようだった。私もそうかもしれないと考えたが、先生の今までの行動を考えると、何か変だと感じた。「先生が働き口を探してくれる」。それは私にはそもそもあり得ないことに見えた。

「とにかく、私が送った手紙はまだ届いていないはずですから、この電報はその前に出されたものに違いありません」と私は母に言った。母は考え込むように頷いて「そうね」と答えたが、手紙を読んでいない前に送られた電報が先生を理解する上で何の役にも立たないことは明白だった。
その日はちょうど主治医が町から院長を連れてくることになっていたため、母と私はそれ以上この出来事について話す機会がなかった。二人の医師は病人に浣腸をしてくれた後、帰宅した。

父は安静を命じられて以来、排泄を人の手を借りてベッドの上で済ませていた。潔癖な父は最初はそれを非常に嫌がっていたが、体の自由が利かなくなり、仕方なくベッドの上で用を足すようになった。病気のために頭が鈍くなってしまっているのか、日に日に省みずに排泄するようになった。時には寝具を汚し、周りの者が眉をひそめることに、本人はむしろ何とも思わなくなっていた。尿の量は病気の性質によりとても少なくなり、医師に心配された。食欲も減退して、たまに欲しがっても食べることはできず、好きな新聞も力が出ず読む気にならなかった。老眼鏡はいつまでも黒い鞘に収められたままだった。

幼い時から仲が良かった作さんという人が、1里ほど離れた所から見舞いに来た時、父は「ああ、作さんか」と言って、うっすらした目で作さんを見た。
「作さんよく来てくれた。作さんは元気で羨ましいな。もう俺は駄目だ」と言った。
作さんは
「そんなことないよ。お前は子供達が大学を卒業してるし、ちょっと体調を崩したところで文句のつけようがない。俺を見な。かかあには死なれるしさ、子供は無しさ。ただ生きてるだけのことだ。達者でも楽しみはないんだ」
と返した。

浣腸をしたのは作さんが来てから2、3日後のことだった。父は医者のおかげで大変楽になったと喜んだ。命に対する自信がついてきたようで機嫌がよくなった。傍らにいる母は、その機会に、電報が来たことを、まるで私の仕事が確定したかのように父に話した。傍らの私は苦々しい気持ちになったが、母の言葉を遮るわけにもいかず、黙って聞いていた。父は喜んでいるように見えた。
「よかったですね」と妹の夫も言った。「どんな仕事だかまだ分からないのか?」と兄が尋ねた。
私はそのとき、それを否定する勇気がなかった。何ともわからない曖昧な返事をして、わざと席を立った。


第十四節 兄弟

父の病状は最後の一撃を待つ間際で少し躊躇しているように見えた。家族は命の終わりがその日に訪れるのではないかと考えながら、夜ごと布団に入った。

しかし父は私たちを苦しめるほどの苦痛を感じておらず、その点では看病はむしろ容易だった。注意を払うため常に誰かが交代で起きているものの、他の家族は適切な時間に自室に戻っても問題なかった。眠れなかった夜、父がうめく声を聞き違えたことがある私は、夜に床を抜け出して父の枕元まで行ってみたこともあった。その夜は母が番で起きているはずだったが、母は父の横で寝ていた。父も静かに深く眠っていた。私はこっそりと自分の寝床に戻った。

私は兄と同じ蚊帳の中で寝た。妹の夫だけは、客人扱いのために別の部屋で休んでいた。

「関さんも大変だな。何日間も長引いて、帰れなくて」と兄は言った。関とは彼の名字だった。
「まあ、そんなに忙しいわけじゃないらしいですから、泊ってくれているんでしょう。関さんより兄さんの方が困るでしょうね、こんなに長くなっては」
「困っても仕方ない。他の事とは違うからな」
兄と横になりながら話すうちに、父はどうせ助かりそうもないという考えが二人にあった。私たちは父が亡くなるのを待っているようなものだったが、そのことを口に出すのを避けていた。お互いにお互いの心中をよく理解していた。

「父さんはまだ治ると思っているようだな」と兄が私に言った。父は近所の人が見舞いに来るたびに、必ず会わなければならないと説得されていた。会えば必ず、私の卒業祝いをできなかったのを残念がり、病気が治れば、と付け加えることがあった。
「お前の卒業祝いは無くなって良かった。俺の時には弱ったからね」と兄が私の記憶を突っついた。私はアルコールに煽られたその時の乱雑な状有様を思い出し、苦笑した。飲み物や食べ物を無理強いして回る父の姿も苦々しく私の目に映った。

私たちはそれほど仲の良い兄弟ではなかった。幼い頃はよくけんかをして、年下の私がいつも泣かされた。学校に行ってからの専門分野の違いは、まったく性格の違いから生まれていた。大学生の頃の私は、先生との接触を通じて、遠くから兄を見ては、常に彼を動物的だと思っていた。長らく兄に会わなかったので、時と距離からも兄は私にとっていつも近くなかった。それでも久しぶりに再会してみると、兄弟の優しい心持ちが自然に湧いてきた。その一因は、父の臨終を共にするという状況が大きな要因になっていた。共通の父、そして父の病床で、兄と私は手を握った。
「お前これからどうするんだ」と兄が尋ねた。
私はまた兄に別の質問を投げかけた。
「一体、家の資産はどうなっているんだろう」
「俺は知らない。父さんもまだ何とも言っていないから。だが、資産と言っても、金としてはたかが知れてるだろう」と兄は言った。

母は、先生からの返信をじれったい気持ちで待っていた。
「まだ手紙は来ていないのか」と私は母から責められた。


第十五節 エゴイスト

「先生先生というのは一体誰のことだい」と兄が尋ねた。
「この間話したじゃないか」と私は答えた。
私は自ら質問を投げかけながら、すぐに他の説明を忘れてしまう兄に対して不愉快な気持ちを抱いた。
「聞いたことは聞いたけれども」 兄はどうやら聞いても理解できないという様子だった。
私の見方では、無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかったのだが、それでも怒りがわいた。 またあの兄らしい様子が出てきたと感じた。

私が尊敬している先生だからこそ、その人は確かに有名な人物でなければならないと兄は思い込んでいた。
少なくとも大学の先生ぐらいだろうと想像していた。
名前も知られていない人、何の業績もない人、それにどんな価値があるというのだろうか。
兄の考え方はこの点において、父とまったく同じだった。
しかし父が何もできないから遊んでいると早とちりするのに対して、兄は何かを成し遂げる力があるのに無為に時間を過ごしているのはつまらない人間に限る、という感じの物言いをした。
「エゴイストはいけないね。何もせずに生きているなんて怠けものだからね。人は自分の持っている才能をできるだけ使わなければならない」
私は兄に向かって、彼が使っているエゴイストという言葉の意味が本当にわかっているのかと尋ね返したかった。

「それでもその人のおかげで地位が確立されればまあいいじゃないか。お父さんも喜んでいるようだね」と兄は後からこんなことを言った。
先生からはっきりとした手紙が届かない以上、私はそう信じることもできず、またそう声に出す勇気もなかった。
それを母が早とちりで皆に触れ回ってしまったいま、私は急にそれを否定するわけにはいかなくなってしまった。
私は母にせかされるまでもなく、先生の手紙を待ち望んだ。
そうしてその手紙に、皆が考えているような生活の支えのことが書かれていればいいのにと願った。 私は死に瀕している父のために、その父を少しでも安心させたいと願う母のために、働かなければ人間ではないと言う兄のために、そして他の妹や叔父や叔母たちのために、私の全く気にしていないことに、神経をすり減らさなければならなかった。

父が変な黄色いものを吐いた時、私はかつて先生とその奥さんから聞いた危険を思い出した。
「あんなに長く寝ているんだから胃も悪くなるわね」と言った母の顔を見て、何も知らない母の前で涙が出た。

兄と私が茶の間で顔を合わせた時、兄は「聞いたか」と言った。 それは医者が帰る際に兄に言ったことを聞いたかという意味だった。
私にはその意味がよくわかっていた。

「お前、ここへ帰ってきて我が家のことを管理する気はないのか」と兄が私を振り返って聞いた。
私は何も答えなかった。
「お母さんひとりじゃ何もできないだろう」と兄はさらに言った。
兄にとって私はただ土を嗅いで腐っていけばいいとばかり見られていた。 「本を読むだけなら、田舎でも十分できるし、それに働きもしなくて済むし、ちょうどいいじゃないか」

「兄さんが帰ってくるべきですよ」と私が言った。
「俺にそんなことができるものか」と兄はすぐさま拒絶した。
兄の心の中には、これから世の中で働こうという意志が満ちていた。

「お前が嫌なら、叔父さんにでも相談するが、それにしてもお母さんはどちらにせよ引き取らなければならないだろう」
「お母さんがここを離れるかどうかがもう大きな疑問ですよ」
兄弟はまだ父が亡くなっていないのに、父が亡くなった後のことについて、このように話し合った。


第十六節 昏睡

父は時折、意味不明の言葉を発するようになった。
「乃木大将に申し訳ない。本当に恥ずかしい。いや、私もすぐに後を追いますよ」
こんな言葉をぽろぽろと漏らした。
母はそれを聞いて不気味に感じた。 できる限り家族を枕元に集めておきたいと願った。
正気の時はしきりに寂しがる患者にも、それが望ましいことのように映った。

特に部屋の中を見回して母の姿が見えないと、父はいつも「お光はどこに?」と尋ねた。
聞かないでも、眼がそれを物語っていた。
私は何度も立ち上がって母を呼びに行った。
「何か用ですか」と、母が中断したままの用事を放って病室へ来ると、父はただ母の顔を見つめるだけで何も言わないことがあった。
時にはまるで関係のない話を始めたり、「お光、君には色々と世話になったね」と優しい言葉をかけることもあった。
母はそういう言葉を聞く度にきっと泣いていた。 そんな後では、健康だった昔の父を思い出して比べてしまうらしいのだった。

「あんなに哀れな言葉を吐いているけれども、実はとても厳しい人だったんだよ」と、母は父に箒で背中を叩かれた話などを私たちに語った。
何度も聞いたその話を、私と兄は今までとはまったく違う感覚で、父の思い出のように受け止めた。
父は死の影がちらつく視界の中、まだ遺言のような話を口には出さなかった。
「この際、何か聞いておく必要があるのではないか」と兄が私に尋ねた。 「そうだな」と私は答えた。
私はそんな話を自分から持ち出すのが病人にとって良いか悪いか判断しかねていた。
二人は結局、叔父に意見を求めた。
叔父も首をかしげ、「言いたいことがあるのに沈黙したまま死ぬのも残念だが、逆にこちらから催促するのも良くないかもしれない」と悩んだ。
話は結局、進行せずに行き詰まった。

やがて父は昏睡状態に陥った。
何も知らない母はそれをただの睡眠だと勘違いして、かえって喜んだ。
「ああ楽に眠れるなら、そばにいる者も助かる」と言った。
父は時々目を開けて、「あの人はどうした」といきなり尋ねた。
尋ねられた人はつい先ほどまでそこに座っていた人のことだった。
父の意識には暗い部分と明るい部分があり、その明るい部分だけが闇の中を通る白い糸のように、一定の間隔で続いて見えた。
母が昏睡を普通の睡眠と間違えるのも無理はなかった。

次第に父の話す言葉が滑り出すようになり、最後は不明瞭で何を言っているのか要領を得ないことが多くなった。
しかしながら、話し始める時には、重篤な患者とは思えないほど強い声を出したこともあった。
私たちはなおさら耳をすませて聞かなければならなかった。
「頭を冷やすと楽ですか」
「うん」
私は看護師に、父の水枕を取り換え、新しい氷を入れた氷嚢を頭に置いてもらった。
角ばった氷片が袋の中に収まる間、私はそれを手際よく父の禿げたこめかみにあてがった。

その時、兄が廊下を伝って入ってきて、言葉を発することなく一通の郵便を私の手に渡した。
空いている左手で受け取った私はすぐに不審に思った。
それは通常の手紙よりも格段に重かった。
普通の封筒には入っておらず、その量も普通の封筒に入れるべきではなかった。
紙で梱包されており、封を丁寧に糊で貼ってあった。
私はそれを兄から受け取ると、すぐにそれが書留であることに気づいた。
裏返して見ると、そこには丁寧な筆跡で先生の名前が書かれていた。
忙しい私は、すぐに封を切るわけにはいかず、それをとりあえず自分のポケットにしまった。


第十七節 永久

その日は父の様子が特に良くないように思えた。
私がトイレへ行こうとして席を立った時、廊下で行き合わせた兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で尋ねた。
「どうも様子が少し変だから、できるだけそばにいないといけないんだ」と注意した。

私もそう感じていた。
ポケットに入れていた手紙をそのままにして再び病室に戻った。
父は目を開けて、そこに並んでいる人たちの名前を母にたずねた。
母は一人一人を説明し、父は毎回うなずいた。
うなずかない時は、母が声を大にして「これは〇〇さんですよ、わかりますか」と念を押した。
「みんなには本当にお世話になります」と父は言った後、再び昏睡状態に戻った。
枕元を取り囲んでいた人々は無言のまましばらく病人の様子をじっと見つめていた。
やがてそのうちの一人が立ち、隣の部屋に出た。
それを見てまた一人が立った。
私も三人目についに席を外して、自分の部屋に来た。私には先ほどポケットに入れた封書の中を開けて見る目的があった。
それは病人の枕元でも簡単にできる行為であったが、文字が多すぎて一度にそこで読み通すことはできなかった。
私は特別な時間を割いてそれに当てた。

私は丈夫な包装紙を引っ掻いて裂き開いた。
中から出てきたのは縦横に線引きされた中にていねいに書かれた原稿のようなものだった。
そして封筒の中で折り畳まれていたので、折り目を逆に折り返して読みやすいように平たくした。

私の心は、これほど多量の紙とインクが何を語るのだろうかと驚いた。
私は同時に病室のことが気になった。
この文を読み始めて読み終えないうちに、父はきっと何かあるだろうし、少なくとも兄からか母からか、それとも叔父から呼ばれるだろうと思った。
落ち着いて先生が書いたものを読む気にはなれなかった。
そわそわしながらただ最初のページだけを読んだ。
そのページは以下のように書かれていた。

「あなたから過去について問われた時、答える勇気がなかった私ですが、今はあなたの前でそれをはっきりと語る自由を得たと信じます。
しかし、その自由はあなたが上京するのを待っているうちにはまた失われてしまうもので、それを使うことができるうちに使わなければ、私の過去をあなたに間接的に教える機会を永遠に逃すことになります。
そうなると、あの時約束した言葉が嘘になってしまいます。
だからやむを得ず、口で言うべきことを筆で述べることにしました」

私はそこまで読んで、はじめてこの長い文章が何のために書かれたのか、その理由がはっきりと分かった。
私は先生が働き口に関する手紙を送ってくることはないだろうと最初から信じていた。
しかし、書くのを嫌う先生が、どうしてあの事件についてこれほど長々と書き、私に見せる気になったのだろう。
先生はなぜ私が上京するまで待てなかったのだろう。

「自由が来たから話す。しかし、その自由はまた永久に失われなければならない」
私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味の理解に苦しんだ。
私は突然不安に襲われ、引き続き読みたくなった。
その時、病室の方から大きな兄の声が聞こえてきた。
私はびっくりして立ち上がり、走るようにして人々のいる方へ向かった。

とうとう父の最後の時が来たと覚悟した。


第十八節 乗車

病室にはいつの間にか医者が来ていた。
病人を楽にしようという意図から、再び浣腸を試みていた。
看護師は前夜の疲れから休んでおり、別室で眠っていた。
手慣れない兄は立ち上がって戸惑っていた。
私の顔を見ると、「ちょっと手を貸してくれ」と言ったまま、自分は席に座った。
私は兄の代わりに、油紙を父の下に敷いた。

父の様子は少し落ち着いてきた。
医者は30分ほど枕元に座っていたが、浣腸の効果を確認した後、また来ることを約束して帰っていった。
帰り際には、何かあったらいつでも呼んで欲しいと特に言っていた。

私はこのまま病室の情況が変わりそうだと感じながらも、再び先生の手紙を読むつもりだった。
しかし、机の前に座ると、すぐに兄から再び呼ばれそうで心が落ち着かなかった。
次に呼ばれたら最後なのではないかという恐怖が手を震わせた。
私はただ機械的にページをめくっていった。
目はきちんと枠の中に収まった文字を見ていたが、それを読む余裕はなかった。
読み取りにする余裕さえなかった。
最終ページまで順に開いた後、再び畳んで机の上に置こうとしたその時、結末が近いある一句が目に入った。
「この手紙があなたの手に渡る頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。特に死んでいるでしょう」
私は驚いた。
先ほどまで騒がしかった心が急に冷静になった。
すぐにページを戻して、上から下へと逆に読み進めて行った。急いで先生の安否を確認しようと目で文字を捉えた。
その時知りたかったのは先生の生死だけだった。
先生の過去や、先生が私に語ろうとした暗いそれは、私には全く不要だった。
必要な情報を簡単に与えてくれないこの長い手紙にいら立ちながら逆にページをめくった。

再び病室の戸口まで行って父の様子を見た。病人の枕元は意外と静かだった。
疲れた顔でそこに座っている母を手招きして、「どうですか、様子は」と尋ねた。
母は「今は少し持ちこたえているようだよ」と答えた。
私は父の前に顔を出して、「浣腸して少しは楽になりましたか」と尋ねた。
父はうなずいて、「ありがとう」とはっきりと答えた。
父の意識は意外と朦朧としていなかった。

私はまた病室を出て自分の部屋に戻った。
時計を見ながら電車の時刻表を調べ、急に立ち上がって服を整え、先生の手紙を袖の中に投げ込んだ。
それから家の裏口から外に出て、医者の家へ急行した。
医者に父があと2、3日持つのかをはっきり聞こうとし、どうにかして持たせてほしいと頼もうと思った。
医者は留守だった。
じっと彼の帰りを待つ時間も、心の落ち着きもなかった。
私はすぐにタクシーを駅へ急がせた。

駅の壁に紙片を当て、鉛筆で母と兄あての手紙を書いた。
簡単な内容だったが、宅へすぐに届けるように運転手に依頼した。
それから思い切って東京行きの電車に飛び乗った。
鳴り響く三等車の中で、再び袖から先生の手紙を取り出し、最初から最後まで目を通した。


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