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夢の国、本日も異常なし

 この仕事をしていると、一年に一度だけ、こんな日がある。娯楽施設の園長、金に汚い彼が気まぐれで始めた慈善事業の日。近所の福祉施設、病院、そんなもので暮らすこどもたちを無料で招く日には、夢をいっぱいに抱えた彼らが、わずかな小遣いを手にしてやってくる。親のいないこども、親と別れたこども、捨てられたこども、そして病を抱えるこども。彼らは一様に、無表情だがどことなく温かい笑みを浮かべた職員に連れられてやってくるのが常だ。ここでは全てを平等に扱う。親のある子も、親の無い子も、健康な子も、健康ではない子も、すべてが等しくいとおしい。我々の仕事は全てを等しく歓迎することだ。普段は笑わぬこどもたちの、その笑顔の数だけ、金にがめつい園長の魂に安らぎがありますように。ハハッ。

 夢の国などと呼ばれるここは、普段の彼らには思いもつかない、文字通りの夢のような場所だ。テレビの中でのお話の通りの、色とりどりの施設に楽しい遊具、そして冷えていない温かな食べ物。普段は我慢し、抑圧されていた彼らの表情がほどけてゆき、自然な笑顔になるたびに、我々はそのことに喜びを感じる。彼らのわずかなお小遣いをいただくことに罪悪感を覚えることもあるが、我々はあくまでも、笑顔を作るためのプロフェッショナルだ。この日のためにこつこつと貯めた十円玉は全て、アイスクリームや、キーホルダーや、小さな玩具に変わる。それを手にした彼らの満足そうな微笑みを、自分だけのものなのだと誇らしい顔つきを、生涯、忘れることは無いだろう。

 楽しい時間にはいつか必ず終わりが来る。閉園の時間、こどもたちとの別れはいつも寂しいものだ。金銭の面で、健康の面で、もう二度とは来れないかもしれないこどもたち。施設には帰りたくないと駄々をこねるこども、戻ることのない父母を慕い待つこども、何かの治療で髪の毛を失い、二度と来ることはできないと悟った表情のこども。彼らの手にはいつも、安っぽい「今日の思い出」がぬいぐるみとして大事そうに握られている。そのちっぽけな贈り物の、小さなてのひらに占める重さを知るたびに、私はまるで頭の悪い阿呆のように泣いた。本当は泣いてはいけないのだ。これが彼らとの約束であるから、言わなければならない。「また来てね」と、無表情を張り付けたような、薄っぺらい、奥歯を噛み締めた笑顔で。

 いつの日か、長い冬が終わり春になれば、我々はまたここで出会うだろう。彼らの生きる希望の中に、共に過ごした思い出の中に、死んだこどもの色褪せた写真の中に、我々は生き続けている。いつか海へと還る清冽な雪解けの水のように。ここに集う人々が「また来たい」と願う、その言葉こそが我々の喜びであり、誇りであり、この仕事を選んだ我々の矜持の全てである。

 本日の業務、全て、異常なし。

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