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外国語で名前をつけるということ

台湾留学をしていた頃、親しくなった友人に私の中国語の名前を考えてもらったことがある。友人は重大な任務を請け負ったようにとても真剣に考え、数日後、ちょっと改まった様子で「馨慈(シンツー)」という二文字を紙に書いてくれた。その名前はなんだか自分には大げさなようにも感じたけれど、外国語でつけられた(というか勝手に決めた)自分の名前は、妙に神秘的でくすぐったくて、私はとても気に入った。

目の前で友人がうんうんと悩んだり、私の性格やイメージを振り返りながら「XXっぽい」「△△はなんか違う」と漢字の意味や響きを何度も口に出しながら考えてくれたことに、愛情を感じて嬉しかったのだ。

自分につけた外国語の名前はどこかに届け出るわけでもないし、変えたくなったら好きに変えればいい。なんらかの実体があるわけでもないのだけれど、それでも「自分はこの名前だ」と思い込んだ瞬間に愛着が湧く。新たに知り合った友人たちにその名前で呼んでもらうのも良いだろう。私は留学中、教科書やノートの端っこに「馨慈」という二文字を何度も書きながら、子供みたいに胸をときめかせていた。最初は歪だった漢字がだんだんこなれてくる。恥じらいがあった響きがどんどん自分のものになっていく。

そういえば台湾などの中華圏では、英語を習い始めたタイミングでイングリッシュネームをつけるのが一般的だ。近年は親が命名するタイミングでつけることも多いけれど、30〜40代の友人のほとんどは「英語の先生がクラス全員分を適当に決めた」とか「中国語読みに近い音で考えた」と話す。台湾人と初めて会うとき「こんにちはー 私はアンジェラです」「デヴィッドって呼んでね!」と、本来の名前からは想像できないような外国語の名前を堂々と名乗られて驚く日本人は多いだろう。そしてその姿にひっそりと憧れを抱いているのは、きっと私だけではないはず。

誰かに名前をつけてもらうというのはすごく貴重な体験で、同時に胸がときめく。両親が私の名前を決めた瞬間のことは知らないけれど、目の前の友人が私のことを思い浮かべながら「ぽい」「ぽくない」と判断するさまは、まるで自分に贈るための花束や香りを選んでくれているみたいで幸せを感じるのだ。

この体験にすっかり味をしめた私は、ことあるごとに、親しくなった外国人の友人に名前をつけてもらった。本来の名前の響きから考えるのではなくて、なにもないところからポンと出てきた言葉だからこそ、不思議で素敵でグッとくる。フィリピンでの語学留学中に、韓国人の友人に「소희(ソヒ)」という名前を付けてもらったときは「どうしてソヒ?」「韓国だとどういうイメージ?」と友人を質問攻めにして、必死になにかを確かめた(笑)。

あれから十年以上、友人は日本からやってきたルームメイトに名前をつけたことなんてもう覚えていないかもしれないけれど、私はいつか韓国に滞在することがあれば、소희と名乗ることに決めている。ハングルはほとんど知らないけれど「소」と「희」だけは今もお手本なしで綺麗に書けるから。

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