ハラスメントを受けると、なぜ仕事が上手くいかないのか?
いつからだろう。仕事に身が入らなくなっている。
いや、いつからかは、正確に言えば「知っている」。認めたくないだけだ。数年前にあった、自分の性的指向をバカにされたあの日からだ――。
差別を受けたあなたも切り分け方によっては差別する側に回っているかもしれない。
マイノリティのあなたもどこかでマジョリティに与している。
そんな人々の差別性を問う『差別はたいてい悪意のない人がする』は、いじめやいじりも対象とし、差別する/されるを両側から見つめた<思索エッセイ>だ。
<>で区切ったのは書籍の紹介としては<エッセイ>だが、事実を基に書かれており、おそらく僕が書くこの文章を読んでくださる方にとっては、こんな思いをしたと共感覚に訴えかける事実を提示してくれる一種のノンフィクションのように思うからだ。
一面的ではない差別を諸刃の剣で切り込み、切られた両側から差別を直視する――。読んでいくと、時に苦しい記憶を惹起し、時に自分が苦しい思いをさせていたかもしれないと注意を喚起させられる。
本書の中でこういった記述がある。
まさに僕だ、と思った。自分の会社では、新入社員や部署の異動でやってきた"ニューカマー"には通過儀礼のように、パートナーの有無と好きなタイプ、性経験などが聞かれる。あくまで興味として、「あなたのことを知りたい」という悪意のない顔で。
以前書いたとおり、パートナーを現状ほしいと思っていなく、アセクシャルの僕は、世間的には「童貞」と言われ、そのことを知った上司からは、自分の仕草を真似してなのか、猫背で「童貞です」と言いながらはやし立てられるのが定例となっている。
とても悔しい。自分の性経験、性的指向の一点だけ挙げて、自分が存在否定をされているように感じた。心の底で「見返してやる」と思いながら、一心不乱に仕事に取り組んだ。
今思えば、この「見返してやる」という思いが動機となっている時点で、一心でも不乱でもなくなっているわけだが。当時、相手に当てはめられたステレオタイプを覆そうと、一旦そのステレオタイプを受け入れ、自分をそこに当てはめて認めてしまっていた。そして、その事実に悩み苦しむばかりだった。
仕事は顧客のためという意識は薄れ、やりたいという前向きな意欲もなくなっていた。仕事の遂行能力は、だから、低下していた。
いや、実は一度そう感じながらも必死にやって、仕事が評価されてか、「そういうひと」という理解がされてか、そういった性的志向をバカにされることはなくなった。そう、なくなっていたのだ。部署を異動して飲み会で再びの"通過儀礼"を受けるあの日までは。
もう一度言われて、それでも抗いたくて、でも出来なくて。
その瞬間に言い返せなかった自分を恥じて。
でも、言い返せる雰囲気ではなかったと考えて、考えて、考えて。
時間がぼうぜんと過ぎ、仕事に身が入らなくなっていた。そこで出会ったのが、この本の「ステレオタイプ脅威」だった。自分は戦いながら何かを守っているようで、その実、自分自身を脅威にさらしていた。自分自身を追い込むように、他人のステレオタイプについていかなくてもいいのではないか?と今は考えている。
自分の話はここまで。閑話休題。
もし仕事でのひとことや出来事に、心が苦しみ「仕事ができなくなっている」と悲観している方がいたら、自分自身ではなく、ぜひ「ステレオタイプ脅威」を疑ってほしい。
勝手に"常識"を押し付けた相手を怒らずに、合わせてしまい、自分へ責任を求めてしまうあなただからこそ、苦しんでいるはずなのだから。
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