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アセクシャルになった僕の話。|「童貞なの?」への答え

約27年前、自分(「れいすいき」と申します)が、生まれた家庭には父親がいなかった。

と言っても、この世界から、なくなっていたわけではない。単身赴任のような形で家を離れていた。母と姉と祖母、自分以外は女性だけの家庭だった。

父親のことは尊敬していて、仲は良いと思っている。反抗期などはなかった。そのため、父性への反逆もなければ、父性への憧れを抱くこともなかった。男らしくありたいと強く思うことは今までなかった。もしかしたら父親があまり家にいなかったという生育環境がその一因なのかもしれない。

もともと異性に興味はあった。小学生の頃には下ネタも他の男の子たちと一緒に言っていたりした。この先、なんとなくよくドラマとかで見るような「恋愛的なこと」をするようになるのかな、と思っていた。その時は「恋愛」とは何かわかっていなかった。そして、それは今もわかっていない。

中学生。共学、そして驚愕のガラの悪い地元の中学に入学してからは、いじめられるか、いじめられないかの線引きの線上で悪戦苦闘していた。「女子」との関わりはいつ手のひらを返されて、いじめの対象になるかわからない。「女子」は警戒の対象だった。「恋愛的なこと」をしている状況ではない、と当時考えていた。

途中で遠くへ転校することになる。転校先は教室内で下ネタが飛び交うことがない、いじめもない、クリーンな学校だった。女子とも話すことが多かった。周りの目が気になる。

「そうして浮かれたらあとでしっぺ返しを喰らう」

 尚も警戒を説いていなかった自分は、もてはやされることには否定しがたい嬉しさを覚えていた。しかし「女子」から人気者扱いされたり、声をかけられたりすることの違和感が拭えず、「恋愛的なこと」を少し想像してはそれは無駄な時間だと、心の中にある「恋愛」をどこかへ押しやっていた。

 学校内には、カップルがいくつか誕生していた。しかし誰と誰とが付き合っているといった類の噂には無頓着で、性的なことに興味もなかった。社会学者の古市憲寿さんは性行為=汚いものという印象を持っているが、自分も性行為への認識はほぼ一緒だ。

 話が全く変わるが、昔、女性しかいない家の空間で、れんげを間違えてちんげと言ってしまったことがある。
 学校で先生のことをお母さんと言ってしまうあのあるあるの逆で、学校で下ネタを言っていたら、家庭で言ってしまったのだ。
(このケースはあるあるではなく、ないないだというのは十分自覚している。若気の至りです。)
その時、怒られはせず、母親に何言ってるの〜と言われたのだが、会話が流れず、沈黙が訪れ、ストップした。その感覚を味わいたくないと以降、下ネタは口にすべきではないことと考えるようになった。それが家庭のみならず学校での行動にも波及し始め、下ネタだけでなく男子同士で、どの女の子がかわいいか、もしくは女の子の身体のことを話している時は、その場を立ち去るようになった。

 そうやって性への興味より、性に興味を持たないことへの正当化をしてきた自分は、カップルだったり、彼氏彼女がいる存在だったりには妬みを持つことがなかった。いわゆる「リア充死ね」を本気で思ったことがないのだ。

 高校大学も同じだった。「恋愛をしない人」と位置付けられ、告白もされたこともなければ、告白することもなかった。ただ、性的な興味はないけど、人間的な興味は異性に対してあった。あったが、それは同性に対しても同じで、結局、 長い時間を過ごしたいと思う人は現れなかった。

 社会人になって、「童貞じゃん」「卒業しなきゃじゃん」といじられるようになった。
 これは一種のハラスメントだと思っているし、だからこそ、当時の自分も「世間とは違う自分」への違和感よりも、周囲や世間への違和感を抱いた。
 しかし自分を知っている会社の人は、自分の恋愛経験のなさを社内外の他人へと言いふらし、それを聞いた人はほぼ必ず、笑いを浮かべながら聞く。

「童貞なの?」

質問への不快感を見せないように
「そうなんです。童貞なんです。誰かいい人いないですかねー」とやり過ごす日々が続いた。

 この時、自分は恋愛や性に関する志向、思考について、うまく言語化できなかった。つまり自分は世間に規定されている「童貞」で、そこから抜け出さなくてはならないーーと、考えるようになっていた。

解く気がまったく起きない課題を突きつけられた。そんな気持ちで、ずっと心は晴れなかった。あの店に行きたい!と話が合う人とデートもしてみたが、手段として付き合うのも違うなと違和感は拭えなかった。

 今考えれば、恋愛に"さほど"ーー世間の皆様ほどにはーー興味のない自分は彷徨っていた。

「でもやっばり、恋愛しなきゃいけないのかな?」

そんな時、新宿2丁目に詳しい知り合いからある単語、存在を聞かされた。

「アセクシャル」

この文章では「性的に他人に惹かれない」という意味で使用

 Aセク、Ace、アセクシュアルとも言われるその単語は自分の立ち位置を規定、言語化し、そして自分の生き方を肯定してくれるものだった。人生は恋愛してナンボみたいな価値観が平然としてある世間。その世間への違和感がこの単語を通すことで氷解していった。
 そしてアセクシャルへの理解を深めてくれたのがこのnoteだった。

    自分はアセクシャルだった、なっていた、いや気づいて、そう"なった"。
 自分と同じ境遇、考えの人がいるのか!と思わず救われたように感じた。翻って思う。

    自分は「異性に人間的に興味はあるが、性的に興味はない。その興味が尽きない、長い時間過ごしたいと思う相手にあったことがないので、恋愛をしたことがない人間」なんだ、と。

 だから今、「童貞なの?」と聞かれたら、こう答えている。

「そうなんです。今まで恋愛に興味を持ったことがないんですよね。恋愛ってそんなにいいものなんですか?」

 そして今、こんな人間、こんな男性、いやこんなアセクシャルがいることを伝えたくてこの文章を書いている。

 違和感を抱きながら生きている人に伝わるといいなあ。

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