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緑仙の『イタダキマスノススメ』を聞いて(デザート) ーーにじさんじという居場所は消えた

人が寂寥を感じたとき、創作がうまれる。空漠をかんじては創作は生まれない。愛するものがもう何もないからだ。
しょせん、創作は愛にもとづく。

魯迅「小雑感」


ここ最近、アニメ映画『ぼっち・ざ・ろっく』『ルックバック』とか映画の『ニューシネマパラダイス』とか、創作に夢中になる人々を描いた作品を見返している。

このnoteは、まず『イタダキマスノススメ』を聞いて、にじさんじリスナー側として感じたことを書く。本当はにじさんじから見た視点のnoteはあまり書かない予定だったのだが、昨今の緑仙やにじさんじの様子を見てかこうと思った。

ひとつ前のnoteで、私は思わず月ノ美兎と剣持刀也に突っ込みを入れてしまった。それは前のnoteで書いたように二人のnoteを読み直したときにあまりにも思想がやさしすぎることだった。
これは、特にエンタメの世界では問題があることですらない。
しかし、クリエイターとして考えるとこれは大問題である
その優しさは尊いものである一方で、一歩間違えると「ファンってこういうものが好きなんでしょ?」と安全策を立てて、新しかったりその人の人生に語り掛ける熱いものをつくらなくていいという話になってくるからだ。
その場合、クリエイションは消費物でいい。
繰り返すが、これはエンタメや配信者の世界では問題ですらない

そして、私はにじさんじの中で緑仙は、ひとつのジャンルや問題や企画に対して一番まっすぐ向かい合っている人だと思う。
そして、人間関係や問題にまっすぐ向かい合う人が損をしてぼろぼろになって、口がうまい人が前に進むような世界「だけ」になるのを、私は好まない。
なぜなら、メタリカや「ぼっち・ざ・ろっく」を見ればわかるように、本気で音楽や映像をやっているからこそ起こる衝突は、もうほとんど不可避の物だからだ。私の周りのクリエイターさんたちでも、モノを作っているところでぶつかっているのをよく聞く。
それは、自分たちが作っているものへの愛ゆえ起こるものである。


さて、これだけだとさすがに衝突上等みたいな話になってしまう(暴力的になりすぎる場合は止めましょう)ので、違う目線で話をしてみよう。

精神科医の東畑開人は、「限りなく透明に近い場所」という文章の中で、「居場所」とは、お尻という弱点を安心して預けることができる場所という意味で、油断して誰かに依存することができる、自分らしくいることができる場所だという。
依存を引き受けることができる人がいて初めて人は本当の自分をおさらけ出すことができる。ちなみに東畑さんは、サザエさんのタラちゃんがずっと敬語を使い続けているのは、実は本当の自己をさらけ出していないからという恐ろしい案すら出してくる。

ここで、東畑さんは「アジール」と「アサイラム」という言葉を取り出してくる。

アジール=犯罪者がひとたび中に逃げ込むとそれ以上罪を責めることができなくなる空間。もののけ姫のたたら場を作っている村のように、逃げ込んで隠れ家になる場所
アサイラム=社会学のゴッフマンが提唱した言葉。閉鎖病棟やナチスの強制収容所のように、入所した人は画一的な管理の下に置かれる

東畑開人「限りなく透明に近い場所」『悲しみとともにどう生きるか』より要約

そして、東畑さんはこのアジール(隠れ家)は、現代社会において存続させようとすると、逆に自分の首を絞めるようにアサイラム(管理される場所)に変わってしまうことがあるという。その理由は、説明責任やコストパフォーマンスや、効率性を求めたせいだという。
そのため、アジールはちょっとだけ怪しく、お互いに依存することができる場所であるべきだろうと東畑さんは結論する。


緑仙のアルバムを聴いた方(特に『リコネクト』)ならわかると思うが、この話は、まるごとあまりに緑仙のアルバムに当てはまり過ぎるのだ。
にじさんじファンの方なら、今ENのライブの件だとか配信がコンプラのせいで消えてしまったり、ライバーから「諸般の事情」が告げられることが増えてきただろう。

そして、東畑さんの論説は不穏な可能性を示唆する。
それは、アジール(隠れ家)はもろく、お互いに素性を知らないからこその良さがあったのに、もしも無理して持続可能性があるものにすると、そこには透明性が求められて、あっというまにアサイラムになってしまうという。
これは、まるで今、サブカルチャーからメインカルチャーに転換して、「正しいこと」「面白いこと」を額面通り求められているにじさんじやVの人々の姿とかぶったのだ。
そのとき、『リコネクト』というこの曲の意味はさらに違うものになった。

HIP HOPでも地下アイドルでも、最初は怪しげなところから始まった。そうした文化がオーバーグラウンドになった瞬間に何かが失われた感覚がある人はいるだろう。東畑さんの論は、そうした文化のはかなさを語っている。

緑仙の書いた歌詞が本音だとすれば、この人が欲しいのは明らかに戦いの場所であるアサイラムというよりは、アジールの方である。だとすれば、そもそもメジャーデビューして売れてしまえば、求められるものはさらに増えていくはずである。
そしてこれは、緑仙だけではなく月ノ美兎や剣持などおそらくクリエイティブなことをする人に問いかけられる問いであるとは私は考えている。


ここで問題はこうである。
ではメインカルチャーになってしまった人たちはどうしたのか?
何も手をこまねいていたわけではない。

それは次のnoteに書くだろう9mm Parabellum Bulletであり、THE YELLOW MONKEYであり、そして椎名林檎のことである。
そして、彼らが伝え続けた『愛』のことである。


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