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2024年1月に出会い素晴らしかった物:四選

  年末年始にNoteへの記述を再開してみたが、思った以上に、書けない。自身の思考を文章として構築することの難しさと、高度で根気のいる作業を前に、自らの能力の至らなさを直視せず軽んじてきたかを実感する。
 ということで昨年末に書いた「四選」というフォーマットに縋って、月スパンでやってはみれまいかと。よろしくお願いします。

窓ぎわのトットちゃん (映画/シンエイ動画)

 純粋に、圧倒的に、非の打ちどころ無く素晴らしい作品であり凡人にはその素晴らしさを伝える術を持たず、なにか気の利いた表現をと数日あるいは数週間、悶えたものの結局は筆を置く…そんな私の矮小な苦悩をあざ笑うように原作の黒柳徹子は

『この映画を観た若い世代の皆さんに「面白かった!」と思ってもらえるといいなあと思います。』

パンフレット冒頭のインタビューより

 なんて、天衣無縫に言ってのけるのだ。
その感動に畏敬を覚え、得も言われぬ、とはこのことかと賛美の言葉を探して悩み彷徨う。
 丁寧で、繊細で、暖かく寄り添うように、気取りのない佇まいでありながら荘厳。人の尊厳の育みを、実に生き生きと、そして儚く…奇跡のような作品が育まれ、鑑賞できた多幸に涙溢る。

 しかし80年前に現実に体験し、40年前に書き起こし、戦後日本最大のベストセラーとなり…こうして現在に至って、白眉最良の出来栄のアニメーションとして描かれた当の本人は、「面白がられたらいいな」なんて。
 現人神。
戦後日本の世俗文化の象徴とも言える存在の黒柳徹子に私は今になって、大いに魅入られることとなった。

ポールプリンセス‼︎(映画/タツノコプロ)

 アイドル活動と審美系競技をハイブリッドしたアニメ「プリティーリズム」を皮切りに革新的な3DCGダンスパートを産み出し続けてきたタツノコプロ:乙部義弘氏が仕掛けたオリジナルアニメ作品である本作は、やはり同様に、「歌」を(当然のこととして)組み合わせることで今回もアイドルアニメとしての性質を強く成り立たせている。

 アイドルというビジネスとはなにか。アイドルの応援とはいかなる行為か。広告、作り上げられたイメージ戦略、あるいは戦後日本で醸成されてきた文化伝統を剥ぎ取った先、その行動に残る原初的な根幹はなにか。
 同じく10年前タツノコプロが制作を請け負ったアイドルアニメ、Wake Up, Girls!がそうだったように、ポールプリンセス!!は60分という極めて短い上映時間の中でその問いを思い起こさせた。

 ポールダンス。
 その素晴らしい、作品後半で計6曲分を畳み掛ける3DCGダンスパートを見れば
一瞬で「ああ、これはモダンバレエの一種なのだ」と理解できる。

 ダンスに明るくない人間であればまず抱くであろう「ポールダンスってあの、ストリップ小屋の出し物とかの?」「ポールを男根に見立てて踊るんでしょう」といった偏見に対する、葛藤や弁明といったシーケンスはストーリー上一切盛り込まれない。ダンスを見て圧倒されれば一瞬に吹き飛ぶように、そんなものは蛇足なのだ。

 ストーリーパートはキャラクター、主人公サイドとライバル陣営の紹介を兼ねた、一見虚無的でゆるふわなガールズトーク、及び極めてライトなスポ根ドラマに終止している。ごく抑えられたそれは3DCGダンスパートをカタルシスとして際立たせることに成功し、かつ、散りばめられた既視感を超えた機微に注目することで、より味わい深く、キャラクターの奥行きを感じとることができる仕掛けとしてうまく機能しているのだが・・・
 では、その作品世界で、ポールダンスに対する偏見は存在しなかっただろうか?
劇中で描かれぬ時間のなかで、登場人物は皆それぞれに、偏見に晒されてきたのであれば?
 各々にそれを乗り越えるドラマがあっただろう。またはそれに気づかぬ、触れずに済んでいる才者が居たならば、乗り越えてきた者はその無自覚無知への嫉妬、怒り、羨望といった軋轢があったろう…といったことを想像した時、ポールダンスの持つマイナスのイメージは一転して昇華され、物語に厚みを持たせる。

 このモチーフであるからこそ持ち得えた、曲折を経てアイドルの原初・根幹部分を重ね体現する性質と、極めて短い上映時間、予算感からも感じ取れる「弱者の戦略」をもってどのアイドルアニメよりも強く、
 また「プリティーリズム」の『焼き直し』あるいは『精神的後継作品』とも異なり、独自の輝きを持って強く放たれる作品であったのだと思う。

 翻り、アイドルというビジネスとはなにか。アイドルの応援とはいかなる行為か。思うにそれは「視姦」である。弱く儚く健気である者を好奇の視線に晒し、衆目の視線に犯される様を楽しむ行為であると。
 そして応援とは、その嗜虐心を満たし続けるための延命、金を吸い上げる構造として存在を維持させ、嬲り続けられる時間を引き伸ばすための献金。

 しかしそれは、覆い隠されようとするからこそ美しく、「純粋であらん」と振る舞い演じ、足掻くからこそ一層、観客の無自覚の嗜虐心への刺激をもって、輝きを放つ

 それを知り尚、あるいは知る故に今再び、吸い込まれてしまうのか…

 推しは南陽スバルです。

BlackBox(ノンフィクション/伊藤詩織 )

 下心から手に取った。別の本をきっかけに当時素通りしていたニュースの顛末に興味を持ち、この理知的で美しい女性に起こった悲劇と謎を追いたくなった。
 これまで私は、性加害者の罪を軽んじていた。特にそれが、自分が魅了された映画や音楽の作り手が犯したものであれば、その作品に掛かった信用と魔法を解いた罪のほうが重いとさえ思っていた。
 だが、被害の後に自殺されてしまう方が多いように、レイプとはその実、精神的な殺人であったのだ。
 その犯罪は想像するよりずっと多く日常に存在し、しかしその性質故に秘匿され、刑事事件としての立件、証明もし辛く…容易に起こっては、闇に消えてを繰り返している。

 その中でいかに困難、苦痛を乗り越えてその加害者を糾弾し得、皮肉にも彼女でしか成し得なかった数奇な運命の巡り合わせが政治をも揺るがさんと、ついには大衆の目に晒し、故に反発を受け数多と傷つけられ…しかし社会を変革しうる一本の矢になり得たか。

 MeToo運動、その切っ先は彼女が最初ではなかったにせよ、彼女自身の声、傷だらけの悲鳴を行間に滲ませてなお、あくまでジャーナリストとしての精緻整然とした文で綴られた、その矢の波紋は少なからず現在に至る国内外の多くの著名人の過去の性加害に対する告発を促しているだろう。
 その数たるや、もはや男性・権力社会において「準強姦」は嗜み、あるいは一種のステータスとしてすら浸透している節を浮き彫りにしてさえいる。近い未来この構造全体が糾弾を受け、覆されるだろう。

 これまでの無明を恥じるとともに、綴られた事実に打ちのめされてなお、しかし金銭や相手の失脚を目的とした言い掛かり、脚色の可能性を捨てきれない面が存在することは認識できる。故に疑われ、相当のアンチが湧き、揶揄を浴びた。それが即ち性犯罪の厄介な性質なのである。痴漢冤罪の実例なども牽制となっているだろう。

 しかしニュースやインタビューに写真の残る著者:伊藤詩織さんの笑顔は、あまりに硬く強張っている。この悲壮な微笑みが、レイプとその抵抗、立証、さらにセカンドレイプとの戦い、そしてこの本の執筆、刊行により自ら身を投じた、云わば「サードレイプ」の痕跡のように思えてならない。
彼女は生還出来ているわけではなく、辛うじて自ら生まれ直しているのだろう。それも何度も。
 この本に綴られた彼女の物語が造られた虚構のものであったなら、私は「やられた」と平伏せざるを得ない。希求力、信憑に足る文面・文体、そして現世後世の被害を減らそう、その試金石になるのだという強い意志を、信ずるに足るものと感じた。

舞台創造科3年B組卒業論文集 (同人誌/ さぼてんぐ,劇ス卒論合同制作委員)

 少女☆歌劇 レヴュースタァライトという作品は私の人生のオールジャンル・マスターピースであり、この同人誌と合わさることで、私の『アラン・ケイにとっての「グーテンベルクの銀河系」』になるだろう。
 パーソナルコンピュータの父である彼は、若かりし日の1年間を、その本の精読、ひたすらの再読のみに費やしたという。

 本書の10数ページを読んだだけでその濃密さにあてられ、果てしなく広がる考察の平野の一端に立った興奮が、生半可で読み進めてはならぬものと感じた。
来年一年をこの本と、そこに現れる文献の精読に捧ぐ。今年はその準備の年だ。

 “卒業”を主題の一つとする劇場作で、9人の登場人物が持つ5対の関係性は「大きな星と小さな星」を越えて決着を付け、新たな血肉を得てそれぞれの道を歩んでゆく。
 しかし観客である私はその強烈な魅力に引きずりこまれたまま、永遠にそれが続けと願わんばかりに、そのイニシエーションの時点に立ち止まり、しがみつき、繰り返し観続けてしまう。あたかも劇中で描かれたループ構造「大場なな:運命の舞台」「ロンド」のように。

 このような感覚が編纂の動機の一つとなっていることを、主催:さぼてんぐ氏も
本誌の序文で書かれているのだが、それはおそらく多くの執筆者、あるいは全員が持ち得た想いではないだろうか。

彼らは、新たな舞台へ向かっただろうか?
行き着いた地平の砂を踏み、私もその先へ辿り着こう。

サイズ、内容ともに「ユリイカ5倍」のような貫禄。

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