見出し画像

芸術とはなにか。



芸術とはなにか。
この混沌とした地球に生まれた混沌とした人間たちの間に、なぜ芸術が生まれたのか。

最近は、そんな芸術を考える上での根幹となる部分を、過去の芸術家たちの思想に触れながら自分の中での芸術に対する考えとしてより一層深めようとしてます。


「芸術とはなにか」という日本画家の千住博さんが書いた本の中で、心に響いた言葉があります。

この人間という複雑で混沌とした存在が、なんとか人や自然との関係を良くしようとして生み出したものが『芸術』です。つまり、芸術とは、イマジネーションのコミュニケーションに他なりません。



イマジネーションのコミュニケーションこそが芸術。

これ、自分の中での言語化出来てなかったものが綺麗に言語化された感じです。


言葉が今一番人間が使ってるコミュニケーションの手段だけど、でも言葉って混沌とした地球に人間が後からつけていったもので、特に形容詞とかって目に見えないものを頑張って言語化してるだけだから人それぞれ本当に感じ方が違う。



私にとっての「美しさ」とこのnoteを読んでくれている人の「美しさ」は多分違う。
「幸せ」や「楽しさ」だって人によって全然、言葉の奥にあるイメージって違うと思う。

だからただ単純に目に見えない何かを言葉だけで表そうとしたら人間って絶対にコミュニケーションにズレが生じる。



それを今の社会は、美しいとはこーいうものだ、幸せとはこーいうものだという型にはめて、パッケージ化してみんなに提供してる。

造られた言葉という手段で、複雑で混沌とした私たち人間の感覚を完璧に表すことなんてできないし、同じ人なんてこの世に1人もいないのに。



人のコミュニケーションは基本会話で、会話には言葉を使う。

でも、ほとんどの言葉にパッケージ化されたイメージが付着してしまっているから、自分の中にある本当の感覚をちゃんと外に出す方法が今の世の中には無くなってきているんじゃないかな。



人間は自己表現をするために生きているのに、その手段を塞がれてしまってるから身体の中にどんどん悪いものが溜まってって、鬱や病気になったり、不安や恐怖から誰かを否定•批判したり、皆に備わってるはずの感覚のセンサーが鈍ったり、いろんな弊害が起きてるんじゃないかと感じる。

言葉で理解できるのはその人間のほんの一部分で、しかも基本的に人間の行動における全てのことは合理的ではなく非合理なんだってことを受け入れることが必要だよなぁ。
 

前にボディーワーク(まあ、身体整える系のやつ)のセミナーに参加した時に、

背筋•背中伸ばしてって言われると自分にとってはキツい体勢で呼吸も浅くなるのに、お腹伸ばしてって言われると自然にぐって芯から伸びて良い姿勢になって呼吸もしやすくなってびっくりした。

それは背筋伸ばす=背中に板が入ってるイメージでピンと伸ばすっていう認識を無意識に子供の頃から刷り込まれちゃってるからで、

お腹を伸ばすっていう言葉には無意識なイメージの刷り込みがないから自分にとっての本当に正しい姿勢を見つけられるってことらしい。


この言葉に対する無意識の社会的な刷り込みは、意識してもなかなか拭えないし、そもそも殆どの人が言葉に対しての刷り込みがある中で、言葉を使って目に見えないイマジネーションの部分のコミュニケーションを満足いくまでするのはめちゃくちゃ難しい。


だからこそ、絵があって音楽があって芸術があるんだと思う。
芸術といっても難しい技術なんか必要なくて、誰もができる自己表現こそ芸術だと思うんだけど、どんな形であれ、芸術は、人間の表面的じゃないもっと深い部分を言葉を使わずに表すことのできる手段であり、コミュニケーションツールだと感じます。


本当は非合理なはずの人間という存在の中に生まれる曖昧さを、レールや常識や型に当てはめることなく、まるっとそのまま受け取ることのできる力を、芸術が宿しているからこそ

人は本来の人間的なコミュニケーションを求め、芸術に触れているのだと思う。


ボッティチェリは
『人間性の回復こそが人々の求めているもの』といって作品を描き続けました。


人間性の持つ曖昧さから生まれる美しさを皆が受け入れられる世界を作っていけたら良いなぁ。

最後まで読んでいただきありがとうございました!