皆でフェミニスト兼表現の自由戦士を目指そう!

先週投稿したこちらの記事に弱杉さんという方からコメントが寄せられた。

本来のフェミニズムが嫌いだから
クレーマーを指してフェミニストだと攻撃してる
確信犯的な人が結構いるように思いますねー。

私は自分の事をフェミニスト兼表現の自由戦士と
自称してますw

前半部分に関して残念ながら否定することは出来ない。
“確信犯的な人”は残念ながら確実に存在するようだ。
『戸定梨香(とじょうりんか)』の一件にしてもクレーマーのことを指して(実際にはフェミニズムに基づいた主張をしているのかどうかすら怪しいにもかかわらず)“フェミニスト”と言ってしまう人はいたし、フェミニズムに対する理解をしようとしない連中も残念ながら存在するようだ。

そういった“確信犯的な人”が“フェミニスト”を攻撃していたらどうなるだろう?

……“確信犯的な人”がいるがためにアニメやVTuberのファンはフェミニズムを理解しない連中だと思われてしまい、新たなクレーマーを誘発してしまうことになる。

だから僕等が目指すべきは弱杉さんのコメントの後半にある“フェミニスト兼表現の自由戦士”ではないだろうか?

“フェミニスト兼表現の自由戦士”について理解するために、“弱杉”さんの記事を読ませて頂こう。

表現の自由と言論の自由について分かりやすく分析されているし、僕はこの記事に深く共感できた。

以前ツイッターで「表現の自由は守られるべきだと思います。ただしそれは表現者の他者に対する思いやりや配慮があってのことだと思います。そしてその表現を不快に感じたとき“これは不快だ”という自由も守られるべきと考えます」との指摘を受けたことがあったのだが、弱杉さんの記事にも通じる指摘だ。

『戸定梨香(とじょうりんか)』の一件に関しては「“表現者の他者に対する思いやりや配慮があってこその表現の自由”は自分自身が創作をする立場でもある分わきまえておきたいが、見る立場になると今度は“表現者に対する思いやりや配慮があっての言論の自由”になる。自分は違和感や不快感があったという“感想”と歪んだ正義感を振りかざしての“バッシング”はまた違うのではないか、“感想”なら恐らく表現の自由を脅かすという逆批判は来なかったのではないか」という声もあって然りだろうけど、そういった反論をするにしても誹謗中傷デマヘイト罵詈雑言等が入ることのないように気をつけておくべきだろう。

“フェミニスト兼表現の自由戦士”を目指すためにはまず自分の主張はしつつ誹謗中傷デマヘイト罵詈雑言等は出さないようにすることが大切なようだ。

……しかしここで僕は早くも躓いてしまった。
僕はもちろん誹謗中傷デマヘイト罵詈雑言等を出さないようにしてはいるつもりなのだが、意図的でなかったとしてもそう受け取られてしまう危険性はあるということだ。

弱杉さんの記事をもう1度振り返って見よう。
言論の自由市場の部分で例として挙げられた“めくら”という言葉に注目する。

「痛みを感じるというごく僅かな人の気持ちを理解でき、共感できる」
「他に代替される言葉があれば別にそれでも構わない」

確かにそれらには一定の理解を示すべきだろうとは思う。
しかし僕は“めくら”という言葉を淘汰した結果発生した弊害の方に目を向けていたのだ。

こちらの乙武さんのツイートを見て頂きたい。

僕自身はどちらかといえばこの乙武さんのツイートの方に賛同している。
この例に関しては「理解、共感できる優しさ」のつもりが「腫れ物に触るような態度」、「逆に理解の阻害因子となり差別を助長」、さらには”障害”を”障がい”と表記して差別をなくした気になってしまう例のように「言葉をスケープゴートにするだけ」につながるのではないかという危惧があるのだ。

実際これに関しては立花隆さんが“めくら”ではなく“盲目”という表現を使ったとしても不快に思う人はいるだろうから「言葉をスケープゴートにするだけ」になってしまっている感はやはり強い。

NHKの場合は公共放送局だし全国放送で誰1人として不快にならないような報道は出来るわけがないし、文脈から判断しても差別の意図はないと割り切っても構わないだろうとは思う。

しかし特定の個人や団体との話し合いとなると……?
誹謗中傷デマヘイト罵詈雑言等を出さないように気をつけていても相手から差別と受け取られてしまう危険性は高い。
先程の“めくら”のような言葉は特定の個人や団体との話し合いの中で使わないにしても、僕くらいの世代だと現在の色鉛筆の“うすだいだい”のことを“はだいろ”と言っていたから尚更注意が必要だ。

だから特定の個人や団体との話し合いであれば相手のことをよく知ってその上で話し合いをしていかなければ“フェミニスト兼表現の自由戦士”に近づくことは難しくなってしまうだろう。

しかし躓いたままでもいられない。
『青天を衝け』の渋沢栄一は何度も転んでは立ち直りを繰り返して自分の理想を実現するために突き進んだのだ。
僕等もまた“フェミニスト兼表現の自由戦士”を目指して「まだまだ励むべぇ!」の精神を持ち続けていたい。

このnoteを見に来られた方の中に『ちびくろサンボ』という表現が嫌いだと言われる方はいいらっしゃるだろうか?
僕がもしnoteで『ちびくろサンボ』と書いていたとして、それを規制するというのは勘弁して欲しい。
しかし『ちびくろサンボ』という表現が嫌いなあなたと直接やり取りをする際には極力使わないように心がけようと思うから、どうかご了承頂きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?