知るということ。
久しぶりに町の本屋へと出かけた。
思えば本を読むことから遠ざかっていた、特にここ数年は。
社会に出てから3年が経つが、自己成長に焦りすぎていた20代前半は、本屋に行くと焦燥感がワクワクと同じぐらい、いやそれ以上に心を埋め尽くした。
自己成長に繋げなければと思うほど足が向くカテゴリは多くて2つに限られていたし、読みもしない本を購入しては「成長意欲が高い自分」に陶酔していたのだ。
その本が今部屋でどうなっているかなんて想像することは容易いだろう。
それらの本を完読しない=目標達成意欲が低いのだと自分を責め立てた。そしてまた自己肯定感が強くなると本屋へと足が向くのだ。
そんな私が久しぶりに足を向けたのは、本当に僅か些細なことがきっかけだった。
東京にいる兄と妹が久しぶりに呑みに出たと連絡が入った。「楽しかったよ」と妹からのメッセージに何の気なしに「どんな話をしたの?」と問いかける私。
「うーん。仕事の話とか、村上春樹の話。」
どんな話だよ。と思いながらも、呑みの場で文学に触れる豊かさを羨ましく感じた。私は村上春樹は読まない。小さい頃から星新一を読みあさっていた。
あれは小学校高学年の午後の授業。図書の授業で、ふと手に取った星新一の作品。
「ねむりウサギ」だ。幼い私にそのユーモアは初めてであると同時に、何故こうもカメとウサギが愛しくなるのだろうと胸が熱くなった。
小さいときに没頭するようになるきっかけなど、単純だ。
だけどそれから図書室や市立図書館に健気に通い、読破をしたというわけだ。
星新一経験者の誰しもが語るその結末の痛快さと視点のユーモアさはさることながら、私は壮大なSF、戦争、未来空間を描きながらも脳内を駆け巡る「無音さ」が何とも好きだった。
この「無音さ」は他の作者では感じたことがない。静かな作品でも何か流れている。それは川のせせらぎであったり、陽だまりの音であったり。しかし、星新一の作品に没頭するとき、頭の中は「無音」なのだ。
それでいながら、読み終えたときに押し寄せる感情は格別だった。それを表現できるのは星新一、唯一無二の存在だ。
話は戻って、そんなこんなで豊かさを失っていた私は久しぶりに本屋の扉を開けた。
いつもは真っ直ぐ自己啓発本コーナーに向かうのだが、今日は違う。本当に私が読みたいものだけを選びに来た。もし見つからなければそれでいいのだ。いや、それがいいのだ。「ない」という答えを以前は持ち合わせていなかったのだから。
現代文学、海外文学のコーナーを見て回る。手にとって想像する。いや違うなと思い、戻す。の繰り返し。ふと気づくとこの1つの棚から購入する本を決めようとしていた。
「違うんだよな・・・」思い直し、上のフロアへと足を伸ばす。
思うままに本を手に取る。30分で出ようなどと思っていた2時間前の自分は浅はかであった。口元には抑えきれない笑みがこぼれ落ちる。人の目は不思議と気にならない。
以前の私は若くしてこんな本を・・・と思われたいが故に、そう思われるであろうコーナーで本を吟味しているフリさえしてきた。
次第に本を取る手が震える。瞳に涙が浮かぶ。これは何の涙だ?何故こんなに胸が震えるのだ?
陽の差す部屋で美味しいコーヒーを飲みながらこれらを読む自分を想像すると、どうしようもなく涙が出たのだ。1ミリの世界に太陽が差したのだ。
私はずっと頑張っているという指標が1つしかなく、そのたった1つの指標に縛られてきた。頑張っていないと思われたくない。仕事以外に興味があると思われたくない。
だけど10歳そこらの私が心の中で叫んでいるのは知っていた。
夏休み、私が母と行きたかったのはいつも図書館だった。興味ある本を片っ端から読んでは返して、また借りに行く。
上限目一杯に借りてきた本を、夕陽差す子供部屋で広げて読み漁るあの頃の自分が、25歳の私に呼びかけていたのだ。
「分かってるよ、でももう私も大人なの。」
だけど今日の本屋で踊るように駆け回る私は間違いなく10歳だった。
まだ見ぬ異国の草原を裸足で駆け回るようで、懐かしいあの日を愛しむような。そんな感覚。
「それでいいよ。」誰かが言う。
「それでいいんだから、もう大丈夫だから。」
つまりは、些細な日常だったのだけれど、それでいて私にとっては大きな出来事。本を読むということは何かを知ること。知るということは誰かを愛するということ。知るから守れるものがあるということ。
私もいつか大切な人に教えてあげたい。私が胸を揺さぶられた文章を。そしてそれは人それぞれでいいのだということを。
さて、今日は何も気にすることなく文字の海に溺れることとする。
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