大学生のバイトについて

大学生は基本的に暇です。

大学は今も昔も遊園地と呼ばれていた。自分の時間を自由に使うことができるからだ。でも勘違いしてはいけない、今と昔では訳が違う。

昔は「知」の遊園地と呼ばれていた。それは、当時の学生は晴れて高校を卒業し受験勉強から解放され、自らのものとなった自由時間を大学の施設で使い倒せたからだ。体育会系の部活で4年間強化合宿のような生活をするもよし、それと同時に好きな先生のゼミに思いつきで何個も潜るのもよし。図書館は夜通し自習し放題、研究室の使用や有名な教授との議論、自分と同じ志で大学に入学した朋友との熱く語り合うこともできる。

狭い空間にいながらも自分で進むべき道を決め何かを極める、この真の意味での自由度が大学が遊園地たる由縁だ。その自由が今、形骸化している。自由の意味を履き違えている。

「自由」は追求されるべき価値であり、「自由」であることは「いいこと」なのである。しかし、もともとの日本語の「自由」という言葉は、そうした輝かしい響きを持った言葉ではなく、むしろ「よくないこと」というイメージを伴った言葉であった。それは、「わがまま勝手」、「したい放題」といった、よくない意味で使われることのほうが多かった。そのため、たとえば福沢諭吉は、FreedomやLibertyにはまだ適切な訳語がないと言い、「自由」という言葉も訳語の1つとしてあげてはいるが、しかし、原語(FreedomあるいはLiberty)は決して我儘放蕩を意味しないと、わざわざ断っている(福沢諭吉『西洋事情』)

出典: http://www.jicl.jp/old/urabe/backnumber/20140609.html

自由とは自由自在に、置かれている環境下の限られた選択肢のなかであっても、自らの意思で道を選ぶことだ。それを、大学生は時間が無限にあると勘違いして持て余す。バイトに注ぐ。サークルと酒に注ぐ。大学に所属している社会的価値を感じないのであろうか?

 国立大学の授業料は、1990年の33万9600円から53万5800円へと約6割も上昇。

出典:https://milkyjune.com/childcare/school-fees/

ちなみに、1990年代から物価は3%も変動していない。それが許されるほどの態度でいるのだ。大学に舐められてないか?

大学内だけの話ではない。残念ながら。

考えてみて欲しい。バイトを最低賃金でこなし、毎晩酒に明け暮れる意味を。

1. 社会全体かつ学生自身が学生の1時間の対価を1000円だと認識している。

2. 大学生は将来の自分への知的投資を大学入学時点で止めている。

前者は無意識的かもしれない。だが多くの学生が非生産的なサークルに複数所属している限り、少なくとも彼らは金銭的余裕があり、その時間を他の活動に回す選択肢があった。無理にその程度の報酬で生活費を得る必要性がなかったのに目の前のお金につられて自分を安売りしている思考停止状態だ。そして社会も彼らを、学のない者と同様な機械的作業やブラックな職場で働かしている。また、後者は自由の履き違えだ。

この二点の認識は社会に出て変わるものではない。理由は簡単。彼らは、一生続くであろうと思っていた時間的余裕を持て余していたのに、入社と同時に時間が足りなくなるからだ。彼らの入る会社は彼らが思考停止のまま動けるように代替可能な仕事を割り振る。その中で自由時間が与えられても、それまで自由時間が何倍も長かった彼らはそれを目の前の衝動で使い切る。一生社会の奴隷だ。

つまり、現状の大学生バイトのあり方は社会のあり方を示している。大学生は社会を動かす大人たちと同じような仕事をするべきだ。それが可能な理由は、大学4年間で吸収する知識は、入社数ヶ月間で各企業に適応するための研修内容(=会社員として知るべき知識)とさほど変わらないからだ。

逆に、此処での唯一の救いは、大学という4年間の知の遊園地で個人が最大の努力で最大の成果を出したときに得られる知識は、会社員が仮に定年まで同じ職場で同じ職務をこなすよりも何十倍もの量の知識を身につけることができるのだ。

ダイガクランド、わくわくするね。


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