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逃げ切れた夢(2023)/二ノ宮隆太郎監督

また新しい日本映画時代の幕開けを感じた。
素晴らしい作品、そして主演力に打たれてしまった。

前半はずっと、主演を取り巻くキャラクター達が感じていたであろう感覚が背中に絡みついてゾワゾワしながら観ていた。

「ほんと、どうしちゃったの?」

娘と会話をしたいが噛み合わない。
昔話を持ち出そうとするが、却下されてしまう。

光石研さん演じる主人公は、人生も後半、というか終わりに近い方に差し掛かったところで
病気をきっかけに己を振り返って生き方をすこし、変えようとする。

しかし、なんだかうまくいかない。

今まで意識してこなかったであろう娘や妻との日々のコミュニケーション、職場での生徒との向き合い方、それから今はもう会話ができない父親との関係性。

培ってきたそれまでの"自分"をまざまざと見せつけられて、挙げ句子ども返りとでもいうのか、逆ギレにも似た様子で感情を表しては家族や友達にぶつけてしまう。

「今の、取り消しにしてもらえんかね」

一度出した言葉はもう、なかったことにはならないことをまざまざと見せつけられる。

これまでもそう。
言葉も、態度も、生活も、取り消し不可能。
出したものは積み重なっていく。

主人公は、そんな当たり前のことに定年まであと一年というところで気づき立ち止まる。

一瞬の揺らぎさえも見逃さないような正面からのカメラアングルが多用されて、わたしたち観客は否応なしに追体験し、ドキドキしてしまう。

そうなるともう、ただのおじさんの話ではなく、どこかにある一つの「わたし」の物語だと言わざるを得ない。

生きていれば、取り返しのつかないことと遭遇することもあるし、取り消したいことを起こしてしまうこともある。

反対に、無意識に、無頓着に生きてきて、その結果がどうしようもなかったりする。

でも、恥ずかしくても苦しくても、みーんな、死ぬまで生きていかなきゃならないのだ。
幸か不幸か、それは全人類、同じなのだ。

誰かと生きていくこと、社会の中で生きていくこと、それは惨めな自分と寄り添いながら、他者も同じく持つその葛藤も認めながら生きていくことなのかもしれない。

わたしの中にいる末永センセイを認めて、またセンセイに習って、いつか忘れてしまう今を、噛み締めるように生きていきたい。

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