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① "記憶( 個人の物語 )"が語られ、"記録"され、物語が織り合わさる。

2022/01/14

〇シンプルで面白い物語には"自然"な展開しかしない。自然な一手は、自然な物語を描くところから。

〇意味の流れ(ピュアな思いの接合)は、人をチームにし、未来を創る原動力となる。目指す未来像の一致、感覚の『共鳴』とも呼べる。

こうしたことを元に考えを深めていった。

今までは、この社会を根本から作り替えるような「巨大システムの調整」というトピックに興味があっていろいろと思索していたけど、最近は「無数の物語の、文脈の糸を織り合わせる」が自分の探求するテーマになってきた感覚がある。

それというのも、「巨大なシステム」と言うような、あたかも世界を”客観的”に捉えているような態度そのものが、「システムの内部にいて、システム全体に影響を及ぼしている自分」という認識を隠蔽してしまい、実際の社会の実体を表さず、従ってそのような前提で考えることに、意味は流れていないのである。そこで、この世界、この人間たちの世界を、無数の物語の多重の重なり合いと捉え、そしてその「無数の物語の、文脈の糸を(捉え、そして)織り合わせる」という姿勢が重要になってくると思っている。この「文脈」や「物語」と僕が呼んでいる概念の"発見"が「物語を織り合わせる」という姿勢の重要性を力強く物語るものになるので、説明していく


社会問題としての人々の対立・対立によるプロジェクトの不履行・人々の精神的な孤独感・虚無感・孤立は、主として"文脈"の不在を原因として起こってるんだと最近は思っている。

"意味の繋がり"の軽んじられる社会では意味の繋がりに乗せられた人と人の関係性も徐々に痩せ細って消えてゆく。

文脈(物語の交差・意味の繋がり)なく出会う人と、持続的な関係を築くのは普通に難しい。マッチングアプリも、交流会も、雑な営業も、文脈がとても薄く、関係性の持続力は多くの人にとって、根本的に低い。

しかし現代はそもそもそういう交流会みたいな関係性構築経路 =「期待が薄かろうがなんだろうが、出会いが目的です。」みたいな「最低限の文脈」すら貴重なものになっている。日常を見てみると、すぐそこに人はいるのに全く関係無い”他人”ばかり、すぐ近くに見かける人は"隣人"ではなく、これまでもこれからも自分の人生に関係の無い人、になっていることがほとんどで、最低限の「意味の文脈」が無ければそもそも関わってはいけない生気の無いキャラクター(ゲームの中のCPUのような。)になっているのではないだろうか。

今までは慣習やルールで(不自然であっても)担保されていた文脈(=「会社」や「学校」や「血縁」や「宗教」)の消えていく世の中では、人と人を繋ぐ「文脈」として機能するものは、人の嗜好性や思い入れ・世界観、などの深い精神的共通性となるかもしれません。

例えば日本という国がふた昔前は、象徴として使っていた、国家宗教・武士道・天皇などを、社会という文脈を支えるものとして使用し、ひと昔前は「経済成長」や「結婚」などを物語として機能させていたと思うが、それも今は薄れてきている。価値観・文明の過渡期と呼ばれたりもするが、その1つの側面として、共通する「物語」の構築は改めて重要と思う。これら昔の物語が解体され、今後来るであろう自然的・創造的な社会においては、1人1人の「大事な思い」と「大事だと思っているコト(社会の一側面)」を取り出し、保存していくことが、個別的(1人1人の人生で機能する)かつ普遍的な(すべての人に機能する)「物語」をつくることに役立つのでは無いだろうか。個人の物語の頑強さが、集団の物語を支える礎となり、精神的部族を生んでいく。

国家の"物語"としての国家宗教:仏教(1000年以上前の仏教)や、武士の価値観や、象徴天皇は、そこに様々な人の願望が投影されたり、ある側面では"美学"だか裏面では一定の人に不合理を強いたりと、1人1人の現実生活をうまく回す(個別性の担保)よりは、国家として全体の秩序を形づくるという方にむしろ使われてきたように思う。それは”経済成長”という物語すら同じだったのではないだろうか。

これは"集団的な”洗脳・催眠”による"、秩序の生成と言っても良いのではないかと思う。

その中で、この情報化社会、=誰も同じ情報を得ておらず、どんどん個別化された情報を吸収している社会において、"消えた物語"を埋め合わせるに足るだけの物語をつくる(発掘する)には、それぞれの人の「大事な思い」と「大事だと思っているコト(社会の一側面)」を取り出して保存していくことが必要だ。どこかでみんなの共通する物語の輪郭が現れる可能性もあるし、そもそも共通する物語が無くても社会が機能する、自律分散的な社会(個々人の尊重される、ネットワーク型の社会)の在り方の一助になるのではないかというのが、今回思い立った仮説です。この物語のつくり方(発掘のしかた)には様々なアプローチがありそうです。

1個人1個人の物語に焦点を当て、それをニヒリズム的に消費してしまうのではなく、すべての人が唯一無二と見て、どんな1個人も象徴としての集団への意味生成機能を持つとして、1個人個人の”文学的な”物語を、その集合として編み直し、繋げることは、"現実的で"かつ"集団隷属への無理"が無い、全体の秩序を司る新しい物語  として機能する可能性がある気がしています。


自分の先祖やルーツという物語も「物語」として機能する可能性はあるでしょうけれど、排他的な民族主義に陥りそうなそのやり方よりは、「自分が何によって生かされてきたと感じているか?」という「贈与(ギフト)」に目を向け、自分が立脚している現実、過去を語ることは優れた物語の語り方であるように思います。
また、なんとなく頭に残っている思い出や、思い出の場所、記憶している夢、などの感情的・感覚的なものが、むしろ物語のメインに出てきたときに、その人の感性と社会への接点に光があたるような気がします。今の社会ではそうした感性的なものは(特に表の社会では)封殺される傾向にありますし。

つまり「物語」は必ずしも、物語としての一般的に想像しうる形式にのっとる必要はなく、ただその人の昔話が語られるだけで良いのだと思います。そして、さらにそれが何らかの形(モノや場所)として保存 (アーカイブ) されてゆくことで、十分「意味」が世の中に生まれてきて、ひいては「物語」の復権になり、強固な精神的共同体をかたちづくっていくんじゃないかと思います。

 

 

以上いろいろと語ってきましたが、以上を踏まえて僕が言いたい主張としましては、
おそらく人が、偽りではない、言葉にならないストーリーを、もっと語れるような社会になった方がいいし、記憶をもっと語れるようになった方が良い、ということです。語られるには、聞く耳が必要です。我々はまず、人の物語を真摯に聴く耳を持つことから始め、社会全体が良識ある”聴く耳”を持つ社会となるような後押しをする。これが今後、決定的に重要になると思います。


記憶は質問されて初めて語りとなる側面は大きいので、人の「記憶」が人々に”質問される”ことはとても大事です。「記憶」への質問が、せめて人と人を繋ぐ物語となるかもしれない。

「他人の記憶を追体験する」こと「他人の内面からみた物語の展開に心をしずかに耳を傾ける」ことが日常で意識され、全ての人の視点に、その人特有の物語が存在し、それはすべてどこかで交差している。ということが明らかになっていくと良いなと思います。


 
”目の前の人から見えている、「この世界」という物語に耳を傾ける”
 


つづき


番外編


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